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私が思わず指差した先を、フワリ、フワリと漂っているのは、巨大な白いナマコのような生き物だった。
しかし、目も口も見当たらない。ただのっぺりとした白い円筒形の体が、波一つない深海を漂っているのだ。
さらに奥からは、赤、青、緑と、ネオンサインのように様々な色を点滅させながら泳ぐ、見上げるほど巨大なクラゲのような生物が通り過ぎていく。
「深海一万メートルを超えると、このような発光器官を持つ生物や、視覚を完全に退化させた生物が主流になるようです」
ティベリウス艦長が、私の視線に気づいて補足してくれた。
「ドワーフの記録によれば、これらはまだ序の口とのことですが……」
「これでも序の口なのね……。なんだか、宇宙にでも来てしまったみたい」
私はため息をつきながら、魔法瓶に入れて持参した温かいカモミールティーを一口飲んだ。
外は途方もない水圧と冷気の暗黒世界だというのに、船内は快適な温度に保たれ、美味しいお茶まで飲める。このギャップがたまらない。
さらに潜航は続く。
「深度、二万メートル(二十キロ)を超えます」
「機関長へ伝達。降下速度を現在の半分に落とせ。周囲の警戒を厳にしろ」
「了解、速度落とします」
ティベリウスの指示で、艦の沈むスピードがガクンと落ちた。
水深二十キロ。もはや私の常識の通用しない領域だ。速度が落ちたことで、窓の外の景色がより鮮明に見えるようになった。
「……何、あれ」
前方の視界に入ってきたのは、巨大な銀色のエビのような生き物の群れだった。
一匹の大きさが、軽自動車ほどもある。それが何十匹、何百匹と群れを成して、重機のような頑丈そうなハサミを振り上げながら、潜水艦の光を避けるように横切っていく。
そして、さらに私の度肝を抜いたのは、生物だけではなかった。
「艦長! 前方より、多数の障害物が接近!」
「ソナーに反応あり! こ、これは……岩です!」
「岩が……浮いているの?」
私は目を疑った。
深海のど真ん中、何もないはずの水中に、大人の背丈ほどもある『黄金に輝く岩』が無数に漂っているのだ。
いや、漂っているのではない。下から上へ、あるいは横から横へ、重力を完全に無視した不規則な動きで、海流に乗って弾丸のように飛んでくる。
「回避運動は間に合いません!」
「魔法障壁、出力最大! 衝撃に備えろ!」
ガンッ!! ガゴォン!!
凄まじい衝撃音が艦内に響き渡り、巨大な潜水艦全体がグラリと揺れた。
私は慌てて椅子の肘掛けにしがみつく。
「報告! 魔法障壁、健在です! 衝突した岩は、障壁に弾かれて後方へ流れていきました!」
「被害なし! 船体に異常ありません!」
「よし、そのままの深度と速度を維持しろ」
ティベリウスは冷や汗を拭いながら、安堵の息を吐いた。
「驚きました……。あの黄金の岩、魔力を帯びた特殊な鉱石のようです。水圧と魔力の反発で、浮遊しているのでしょう。魔法障壁がなければ、船体に大穴が開いていたところです」
「全く、恐ろしい世界ね……」
私は撫でおろした胸のドキドキを感じながら、窓の外で障壁に弾かれ、キリモミ回転しながら暗闇の奥へ消えていく黄金の岩を見送った。
もしこれが生身の人間だったら、あるいは普通の船だったら、一瞬で粉微塵になっていただろう。
50代の好奇心だけで来ていい場所ではなかったかもしれないと、ほんの少しだけ反省した。ほんの少しだけ、だが。
◈
「深度、四万メートル(四十キロ)を越えます」
その報告があった直後、劇的な変化が訪れた。
「……明るい?」
それまで、照明の光しか届かない漆黒だった窓の外が、急激にぼんやりと明るくなってきたのだ。下から、まるで朝焼けのように、淡い純白の光が湧き上がってきている。
「照明を落とせ!」
艦長の指示で、魔光灯が消された。
それでも、外ははっきりと見えるほどに明るかった。
「何だあれは……」
操舵を握っていた船員が、驚愕の声を漏らした。他の船員たちも、手元の計器から目を離し、スクリーンに釘付けになっている。
視界に飛び込んできたのは、まるで空に浮かぶ島のように巨大な「岩の山」だった。
いや、先ほど見た浮遊する黄金の岩が、ビルほどの大きさに成長したようなものだ。そんな超巨大な岩が、あちこちにゴロゴロと海中に浮遊している。
そして、その岩の表面には、見たこともないような奇妙な植物が群生していた。
淡い青や緑色をした半透明のシダ植物のような葉っぱが、ゆらゆらと水流に揺れている。
そして、その植物の先端からは、光り輝く「白い胞子」のようなものが、雪の結晶のように絶え間なく排出され、下から上へと昇っていっているのだ。
この純白の光の正体は、無数の発光する胞子が作り出す、幻想的な吹雪だった。
「巨大な岩を避けろ! 接触するな!」
「面舵いっぱい! 胞子の密度が薄いルートを探します!」
艦長と船員たちは、驚愕しつつもすぐさま仕事に戻り、巨大な岩と岩の間を縫うようにして潜水艦を操る。
幻想的で息を呑むほど美しい光景だが、岩にぶつかればタダでは済まない。私は、桜吹雪の夜桜を見上げるような心地で、その光景を目に焼き付けた。
前世で夫と行った、青森の弘前城の夜桜。あれも綺麗だったけれど、この深海の光の雪は、神々しさすら感じさせる圧倒的なスケールだった。
(お父さん、あなたもこの景色を、どこかで見たのかしら)
胸の奥が、きゅっと鳴る。
もしこの海の底に彼がいるのなら、一緒にこの景色について語り合いたい。そう強く願った。
◈
発光する胞子の層を抜けると、再び世界は暗闇に包まれた。
「深度、六万メートル(六十キロ)に迫ります……」
船員の声が、どこか緊張でかすれていた。
再び点灯された照明だが、水深四万メートルまでの時とは明らかにおかしい。光量が足りないのだ。
照明が壊れたわけではない。光が、周囲の「圧倒的な水」と「何か得体の知れない圧力」に吸い込まれ、数メートル先までしか届かなくなっているのだ。
まさに、底なしの漆黒。
その光の届くギリギリの境界線を、ゆったりと、本当にゆったりと、巨大な影が横切った。
「……!」
私は息を呑んで立ち上がった。
それは、星型……いや、ヒトデのような形をした生き物だった。
しかし、スケールが狂っている。一つの腕の太さが、この潜水艦の胴回りほどもある。全体像を把握することすら不可能なほどの巨大生物が、何の音も立てずに、暗黒の海を漂流しているのだ。
「刺激するな。照明の出力を最低限に絞り、微速で通り抜けろ」
ティベリウス艦長が、囁くような声で命じた。
誰もが息を殺し、巨大なヒトデの脇を、まるで忍び足で歩くようにそっと通り過ぎる。心臓の音が、やけにうるさく感じられた。
永遠とも思えるような数十分が過ぎた。
ついに、待ち望んだ報告が艦内に響いた。
「深度、六万八千……六万九千……。まもなく七万メートル(七十キロ)!」
「ソナーに反応! 前方下方に、人工物らしき巨大な構造物を捕捉しました!」
「目当ての装置が見つかった地点に到達します!」
「よし……!」
ティベリウス艦長が、力強く拳を握りしめた。
「機関停止。姿勢制御バーニアのみで現在位置を維持。これより、目標地点の周囲探索へと移行する!」
「了解! 姿勢制御、手動に切り替えます」
ズン、と軽い振動があり、長かった降下の感覚が消え去った。
潜水艦は、暗黒の深海七万メートルという、途方もない世界で完全に停止した。
「総督。無事に第一目標地点に到着いたしました」
艦長が、誇らしげに私の方を振り返る。
彼らの制服は、極度の緊張と長時間の集中で、汗ばんでいた。
「ありがとう、艦長。皆様、本当に素晴らしい腕前だったわ」
私はハンカチを取り出し、彼らに労いの言葉をかけながら、スクリーンへと向き直った。
さあ、いよいよだ。
この途方もない深海の底で、何万年も稼働し続けているというドワーフの古代装置。
それが、私の夫へと繋がる道標なのか。それとも、全く別の未知への扉なのか。
老眼の全くない私の両眼は、暗黒の海に潜む真実を見極めようと、しっかりと見開かれていた。
限界深度まであとわずか十キロ。私たちの本当の探求は、ここから始まるのだ。




