6
操舵室の最後列、一段高くなった場所に用意された特別席。
ふかふかのベルベットが張られたその肘掛け椅子は、まるで劇場のVIP席のようだった。私はそこに深く腰を下ろし、目の前で繰り広げられる出航の儀式を興味深く眺めていた。
「魔力炉、出力安定。結界発生装置、オールグリーン!」
「艦首バラストタンク、注水準備よし!」
「機関室より報告、主機異常なし。いつでもいけます」
操舵室には、艦長のティベリウスをはじめ、十名ほどの船員たちが配置についていた。
彼らは皆、壁面やコンソールにびっしりと埋め込まれた複雑な計器類や、チカチカと光る魔石のパネルを前に、目まぐるしく手や口を動かしている。
前世で、職場の若い子たちがパソコンのキーボードをカタカタと信じられない速さで叩き、複数の画面を軽々と使いこなしているのを見た時のことを思い出した。あるいは、新しいスマートフォンの初期設定を前に、説明書と睨めっこしながら「アカウントって何?」「同期ってどういうこと?」と四苦八苦していた自分。
(なんだか、スマホやパソコンみたいに難しそうね……)
私は内心でこっそりとため息をついた。
ルキアナとしての記憶があるとはいえ、彼女はあくまで経営者であり、技術の専門家ではない。私からすれば、船員たちが操っているあれらの装置は、ただ光るボタンと謎のメーターの集合体にしか見えなかった。
それでも、全員が自分の役割を完璧に理解し、一糸乱れぬ連携を見せていることだけはわかる。その無駄のない動きは、見ていて惚れ惚れするほどだった。
「総督閣下、これより本艦は地下ドックを離れ、外海へと通じる水路を抜け、潜航を開始いたします」
艦長席から振り返ったティベリウスが、ピシッと敬礼をして告げた。
「ええ、お願いするわ。皆様の安全と、素晴らしい航海を祈っているわ」
私が静かに頷くと、ティベリウスは前方を向き直し、よく通る太い声で号令を下した。
「抜錨! 両舷、微速前進! 水路ゲート開け!」
ズズズ……と、私の足元から、腹の底を揺らすような重低音が響いてきた。潜水艦を動かす巨大な魔力エンジンの鼓動だ。
同時に、前方の壁面を覆っていた分厚い特殊ガラスの向こうで、巨大な鉄のゲートがゆっくりと上に引き上げられていく。
「艦首、水路に進入します」
「ヨーソロー。そのまま直進。外海へ出たのち、直ちに潜航態勢に移行する」
暗い水路を数分進むと、ふっと視界が開けた。
そこは、西パンゲアの領海。分厚い雲に覆われた、灰色の荒波が打ち付ける海面だった。
「外海に出ました! 水深、十分です」
「よし。総員、潜航配置! メインバラストタンク、ベント開! 注水開始!」
ティベリウス艦長の鋭い声が飛ぶ。
とたんに、「シューーーッ!」というけたたましい空気の抜ける音が艦内に響き渡り、続いて「ゴボゴボゴボ!」と大量の水が船体に流れ込む重たい音が聞こえてきた。
「ベント弁、全開確認。艦首下がり、潜航角マイナス十五度」
「トリム調整、ピッチ安定。深度、順調に低下中」
「魔法障壁、出力三十パーセントで展開。外部水圧、問題なし」
次々と飛び交う専門用語。
ベント開? トリム調整? ピッチ?
前世の主婦的ボキャブラリーにそんな単語は存在しない。私にとって、彼らの会話は完全にちんぷんかんぷんだった。唯一わかったのは「魔法障壁」というファンタジーっぽい単語くらいだが、それがどういう原理で動いているのかは全くわからない。
「ふふっ……」
私のような素人が口出しできる領域ではないと悟り、私はただ、プロフェッショナルたちの仕事ぶりに感心しながら、ふかふかの椅子に身を委ねた。
年齢を重ねてよかったと思うことの一つは、「わからないことは、素直に専門家に任せる」という心の余裕ができたことだ。若い頃は変に知ったかぶりをしたり、口を出したくなったりしたものだが、餅は餅屋である。彼らがこれほど真剣に船を動かしてくれているのだから、私は大人しく特等席で景色を楽しませてもらおう。
「総督、前方をご覧ください。これより本格的な潜航に入ります」
ティベリウス艦長が、私の方を振り返って手で前方を示した。
「メインスクリーン、全開」
船員の一人が操作を行うと、操舵室の前面を覆っていた壁が、まるで手品のようにスッと透明になった。
正確には、前方に嵌め込まれた特殊ガラスの範囲が魔法によって拡張され、周囲の風景をスクリーンに投影するように視界が開けたのだ。
私の目の前いっぱいに、海の景色が広がった。
「わあ……」
思わず声が漏れる。
潜水艦はすでに海面下へ頭を突っ込んでおり、海中の青緑色の世界が広がっていた。
しかし、感嘆も束の間。艦は信じられないほどのスピードで高度ならぬ深度を下げていく。
ぐんぐんと沈んでいく感覚が、三半規管をわずかに揺さぶる。飛行機が離陸する時のような、あるいは急降下するエレベーターに乗った時のような、独特の浮遊感。
(少し、怖いかも……)
私は無意識に、椅子の肘掛けをギュッと握りしめた。
前世で家族旅行に行った沖縄のグラスボートとはわけが違う。あちらは海面から下を覗き込むだけだが、今は自分自身が、巨大な鉄の塊の中に入って、底知れぬ海へ落ちていっているのだ。
「コツン、コツン」
不意に、窓の向こうで小さな音がした。
見ると、大小様々な魚の群れが、潜水艦の周囲に展開されている半透明の「魔法障壁」にぶつかっては、驚いたように跳ね返って逃げていく。
まるで目に見えないガラスのドームに守られているようだ。その光景が少しユーモラスで、私の強張っていた肩の力がふっと抜けた。
「深度、一千メートルを通過。降下速度、異常なし」
「外部水圧、設計値通り。魔法障壁、安定しています」
船員の声が響く。
早い。早すぎる。潜水を始めてからほんのわずかな時間しか経っていないというのに、もう一キロも潜ったというのか。
前世の常識で考えれば、すでに一般的な潜水艦の限界深度に達していてもおかしくない水深だ。ドワーフの古代技術と魔法の融合恐るべし、である。
「開始一分。深度、二千メートルを通過します!」
その報告があった直後だった。
周囲を包んでいた青みがかった光が、まるで誰かがスイッチを切ったかのように、一気に失われた。
「えっ……?」
完全な暗闇。真の漆黒。
上から降り注いでいた太陽の光が、もはや一切届かなくなったのだ。海の底というものが、これほどまでに圧倒的な闇を抱えているとは知らなかった。
「外部照明、点灯!」
ティベリウスの号令とともに、艦の外部に取り付けられた巨大な魔光灯が一斉に光を放った。
「パァッ!」と、凄まじい光量の白い光が、暗闇を切り裂いて前方を照らし出す。
前世で、夜の田舎道を運転している時に使う車の「ハイビーム」。あれを何百倍にも強力にしたような、目が眩むほどの強烈な光だ。
その光の筋の中を、マリンスノーと呼ばれる無数の白い粒子が、雪のように舞い上がりながら通り過ぎていく。
「アクティブソナー、パルス発信! 前方に障害物なし」
「機関室、魔力炉の出力五パーセント上昇。魔力伝導管の温度、規定値内です」
「魔法障壁、出力四十パーセントに引き上げます」
照明が点いた後も、船員たちは一息つく暇もなく、次々と計器の確認と報告を繰り返している。
彼らの顔は計器の光に照らされ、真剣そのものだ。
こんなにも過酷で、一歩間違えれば海の藻屑となるような状況の中で、彼らは私の思いつきに近い「夫探しの旅」に付き合ってくれているのだ。
(本当に、申し訳ないわね……。でも、ありがとう)
私は心の中で彼らに深く感謝しつつ、目の前に広がる未知の深海の世界に、次第に魅了されていった。
◈
「深度、一万メートル(十キロ)を無事通過しました」
報告の声にも、もはや驚かなくなってきた。
一万メートル。前世の地球の最も深い海溝とほぼ同じ深さだ。
窓の外は完全な暗闇であり、強力なハイビームを以てしても、光が届く範囲は限られてきている。まるで、光そのものが重たい水圧に押し潰されているかのように、遠くを見通すことができなくなっていた。
水深が浅い頃に見かけた普通の魚の姿はすっかり消え失せている。
代わりに姿を現し始めたのは、前世の図鑑でも見たことのないような、奇妙で不気味な、それでいてどこか美しい生き物たちだった。
「見て、あそこ……」




