5
「……4万、キロ?」
私は思わず聞き返した。
前世の知識が、頭の中で激しく警鐘を鳴らす。
地球の直径は、約1万2千キロメートル強だ。最も深いマリアナ海溝でも、せいぜい水深11キロ程度。
『深海4万キロ』。それはつまり、地球を貫通してさらにその3倍以上も深い海が、この世界には存在しているということだ。
やはり、この世界は狂っている。無限の平面なのか、それとも木星よりも巨大な球体なのか、想像すら追いつかない。
「そうです。4万キロです」カッシウスは苦渋に満ちた声で言った。
「対して、クラウディウス。この潜水艦の限界深度はどれくらいだ?」
「はい……。古代技術を復元し、最高級の補強魔術を施してはおりますが、耐えうる水圧の限界は……せいぜい『80キロ』です」
80キロ。
前世の潜水艦の常識からすれば、水深80キロ(8万メートル)まで潜れるだけでも、神の御業に等しい超技術だ。しかし、「4万キロ」という途方もない世界規模の前では、まるで水たまりで遊ぶおもちゃの船に過ぎない。
「とてもじゃないですが、総督に同乗をお勧めできる代物ではございません」
クラウディウスが必死に訴えかける。
「それに、事前調査で確認されたという『稼働中の装置』が、本当に安全な転移装置である確証はどこにもないのです! 接近した途端に爆発するかもしれないし、深海の恐るべき魔物の巣窟である可能性すらあります。未知数すぎるのです!」
彼の言い分は、痛いほどよくわかった。
技術者として、そして一人の臣下として、トップをそんな自殺行為に近い実験に巻き込むわけにはいかないのだ。至極真っ当な意見である。
しかし。
私は彼らの制止をふわりと躱すように、視線をティベリウス艦長へと向けた。
「ティベリウス艦長。総督として尋ねます。この船の出航準備が整うのは、最短でいつ?」
「えっ……あ、はい」
ティベリウスは、カッシウスと私の間で視線を彷徨わせながら、額の汗を拭った。
「食料の積み込み、機関の最終調整、そして乗組員の錬成を含めまして……急げば、2週間程度で準備は完了いたします」
「そう。2週間ね。十分よ」
私は満足げに頷き、ポンッと手を打った。
「では、それでお願い。2週間後の大安……じゃなかった、良き日に出航としましょう。私もそれまでに、総督としての仕事の引き継ぎと、荷造りを済ませておくわ」
「は……はぁ」
「では、私はこれで。後の細かい調整はよろしくね」
呆気にとられる三人の男たちを背に、私は足取りも軽く操舵室を後にした。
「ま、待ってください、母上!」
当然のことながら、狭い梯子を降りて通路を歩き出した私の背中を、慌てた足音と共にカッシウスが追いかけてきた。
「母上! 正気ですか!? クラウディウスの言葉を聞いていなかったのですか。これは遊覧船の旅ではないのです! 命の保証などどこにもない、無謀な実験なんですよ!」
追いついたカッシウスが、私の肩を掴むようにして立ち塞がった。彼の琥珀色の瞳には、明らかな焦燥と、母を案じる深い心配の色が浮かんでいた。
私は足を止め、彼の顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「わかっているわ、カッシウス。どれだけ危険なことか、頭では十分に理解しているつもりよ」
前世の私——50代の日本の主婦であった私なら、間違いなく彼らの忠告を聞き入れていただろう。
若い頃はバックパッカーで無茶もしたけれど、歳を重ねるにつれ、危険を避けるのが当たり前になっていた。お風呂場で少し足を滑らせただけで「これで骨折したら寝たきりかも」とゾッとするような、守りの人生に入っていたのだ。水深80キロの深海へ行くなんて、絶対に、何があっても断っていたはずだ。
「でもね……どうしても、自分でも抑えられないの」
私は、自分の胸にそっと手を当てた。
ドクン、ドクンと、力強く、規則正しく打つ心臓。老いによる淀みも、痛みも、疲労も感じないこの新しい体。
ルキアナという女性が持ち続けていた「未知への探求心」と、前世の私が心の奥底に封じ込めていた「まだ見ぬ世界を旅したい」という純粋な渇望が、一つの巨大な炎となって燃え上がっているのだ。
「この体で目覚めてから、世界が全く違って見えるの。痛いところが一つもないだけで、どこまでも歩いていけそうな気がする。この世界がどれほど広く、恐ろしく、そして美しいのか。この目で見てみたい……行きたくて、行きたくて仕方がないのよ」
「母上……」
カッシウスが、痛ましそうに顔を歪める。
「それにね、カッシウス」
私は彼の手を優しく握り、微笑んだ。
「もし、あの深海にある装置が本物で……世界の果てへ繋がる道標だとしたら。そこに、お父様がいるかもしれないでしょう?」
今世の夫、ヴァレリウス。
そして、もし私の推測が正しいのなら、その体の中には、前世で私と共に神隠しに遭い、隣で笑っていた『前世の夫』の魂が宿っているかもしれないのだ。
「私には、確信があるの。お父様は生きているわ。そして、私と同じように、この広大すぎる世界のどこかで、私のことを見つけようとしているはず。だから、私は待っているだけじゃダメなの。探しに行かなくちゃならないのよ」
それは、総督としての使命などではない。一人の女として、そして妻としての、揺るぎない決意だった。
私の瞳の奥にある強い光を見たカッシウスは、小さく息を呑み、そして深く、深くため息をついた。
彼は私が一度決めたら決してテコでも動かないことを、よく知っているのだ。
「……わかりました。母上を止めることは、誰にもできないのですね」
「ごめんなさいね、わがままな母親で」
「いいえ。……ですが、約束してください。決して無理はしないこと。そして、必ず生きて帰ってくると」
カッシウスは真剣な声で言い、私の手を握り返した。
「もし母上が帰ってこなかったら、私は会社の全財産を注ぎ込んで、この世界中の海を干上がらせてでも、母上と父上を見つけ出しますからね」
「ふふ、頼もしいわね。でも、そんな無駄遣いはさせないわ。必ず、面白い土産話をたくさん持って帰ってくるから」
私は、自分よりも背の高くなった息子の肩を、愛おしげにポンポンと叩いた。
少し不満気で、それでも私を尊重して送り出してくれる彼の優しさに、心の中で深く感謝しながら。
◈
そして、約束の2週間後。
西パンゲア貿易会社の地下ドックは、厳かな熱気に包まれていた。
物資の積み込みは完了し、漆黒の潜水艦は出航の時を静かに待っている。
私は、動きやすい濃紺のパンタロンスーツ(ルキアナの特注品だ)に身を包み、タラップの前に立っていた。
荷物は最小限に留めたが、50代の知恵をフル活用し、長旅に欠かせない『体にフィットする特注の安眠枕』や『胃に優しい上質な茶葉』、そして『保温性に優れた肌着(の魔法陣入りバージョン)』などはしっかりと持ち込んである。備えあれば憂いなし、である。
「では、留守は頼むわね、カッシウス」
「はい。道中、どうかお気をつけて。吉報をお待ちしております」
私はカッシウスとしっかりと抱擁を交わした。彼の大きな背中から伝わる温もりが、少しだけ私の胸を締め付けたが、それ以上のワクワク感が私の背中を押していた。
踵を返し、私はタラップを登る。
ハッチの前に立つティベリウス艦長が、ビシッと敬礼をして私を迎えた。
「総督閣下。乗艦を歓迎いたします」
「よろしくお願いね、艦長。私たちの『果てなき旅』へ出発しましょう」
私が中へ入ると、重厚な金属音と共にハッチが閉じられた。
外の世界との繋がりが断たれ、完全な密室となった艦内に、微かな魔力エンジンの駆動音が響き始める。
老眼も、腰痛もない完璧な体。
最愛の夫を探すため、水深4万キロを超える暗黒の海へ。
私の、途方もなくスケールの大きい「第二の人生の旅行」が、今、静かに幕を開けた。




