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【完結】愛する人に会う為の旅は、一味違うようです  作者: 逆立ちハムスター


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3

「失礼いたします。母上、お時間よろしいでしょうか」


控えめでありながら、凛としたノックの音に続いて、重厚なマホガニーの扉が開いた。

陽光が差し込む総督室に入ってきたのは、カッシウス。私の息子であり、この巨大な西パンゲア貿易会社の実務を一身に背負う、最高経営責任者だ。

三十路を迎えたばかりの彼は、父親譲りの意志の強い琥珀色の瞳と、私譲りの銀灰色の髪を持っている。仕立ての良い紺青の執務服を乱れなく着こなす姿は、親の欲目を抜きにしても、見惚れるほどに立派な大人の男性だった。


「ええ、もちろんよ。入っていらっしゃい、カッシウス」


私は窓辺からゆっくりと振り返り、彼に微笑みかけた。

前世の記憶を取り戻す前のルキアナであれば、ここで「報告を聞こう」とデスクに座り直していたかもしれない。しかし、今の私は違う。

私は彼を応接用の豪奢なソファへと促し、部屋の隅にあるサイドボードへと向かった。


「母上……? 侍従を呼びましょうか」

「いいのよ。これくらい、自分で淹れさせてちょうだい。あなたも、朝からずっと会議続きだったのでしょう? 少し顔に疲れが出ているわ」


私がそう言いながら、使い慣れた銀のティーポットを手に取ると、カッシウスは少し戸惑ったように瞬きをしてから、おとなしくソファに腰を下ろした。

前世の私は、帰宅した家族には必ず温かいお茶か、冷たい麦茶を出して一息つかせるのが習慣だった。総督という立場になろうと、そういった「暮らしの知恵」や「間合い」は大切にしたい。

特に、彼のような重責を担う人間には、張り詰めた糸を緩めるだけの、何気ない時間が必要なのだから。


ポットから立ち上る、カモミールによく似た甘いハーブの香りが部屋に広がる。薄作りの美しい磁器のカップに黄金色の液体を注ぎ、私は彼の向かいに座って、そっとカップを差し出した。


「さあ、どうぞ。少し熱いから気をつけてね」

「……ありがとうございます。母上が自らお茶を淹れてくださるなんて、いつ以来でしょうか」

「ふふ、そうね。これからは、もっと頻繁に淹れてあげるわ。……それにしても」


私は、湯気を立てるカップを両手で包み込むように持ちながら、息子を真っ直ぐに見つめた。


「立派になったわね、カッシウス。お父様がいなくなってから、あなたがどれほど会社のために、そして私のために尽くしてくれたか。本当に、感謝しているのよ」

「母上……。私はただ、父上と母上が築き上げたものを守りたかっただけで……」

「いいえ、守るだけじゃないわ。あなたはこの数年で、会社をさらに大きく、盤石にしてくれた。それはあなたの努力と才能の賜物よ。一人前の大人として、私はあなたを心から誇りに思っているわ」


一人の人間として、これまでの苦労を心から労いたかった。

五十代という年齢は、決して若くはない。けれど、人生の荒波を乗り越えてきたからこそ持てる「静かな知恵」がある。力で押さえつけるのではなく、相手を尊重し、認めることで生まれる信頼の強さを、前世の私は知っていた。


カッシウスは少しだけ顔を赤らめ、居心地が悪そうに視線を泳がせた。私は思わず口元をほころばせた。

この体に不調が一切ないことも手伝って、私の心はどこまでも穏やかで、前向きだった。夫がどこかの空の下にいるのなら、必ず見つけ出してみせる。そのためにも、今はこの優秀な息子との絆を、より深いものにしておく必要があった。


「さて」と、私はカップをソーサーに戻した。

「一息つけたところで、お仕事の話を聞かせてもらおうかしら。あなたがわざわざこの部屋に来たのだから、それなりの案件でしょう?」


私の言葉に、カッシウスは先ほどの息子としての顔から、鋭い経営者の顔へと瞬時に切り替わった。


「はい。実は母上に、良い報告と悪い報告があります。どちらからお聞きになりますか?」

「良い報告と悪い報告ね……」


私は少し小首を傾げて悩むふりをした。

若い頃なら「早く良い方を聞かせて!」と焦っていたかもしれないが、人生の酸いも甘いも噛み分けた今は違う。悪い知らせに動揺するほど、柔な精神はしていない。


「悪い報告から聞かせてちょうだい。お茶の最後の一口は、美味しい気持ちで終わりたいもの」

「……母上らしいですね」

カッシウスは微かに苦笑し、手元の革張りのバインダーを開いた。


「悪い報告は、例の『古代ドワーフ技術の復元転移実験』についてです。結論から申し上げますと、失敗に終わりました」

「転移実験……」


私は今世のルキアナの記憶を素早く手繰り寄せた。

数年前、遠方の古代遺跡から発掘されたドワーフ族の遺物。それは、空間を繋ぎ合わせ、瞬時に別の場所へ移動できるという、夢のような装置の設計図だった。

前世の知識で言えば『どこにでも行けそうなドア』のようなものだ。これが完成すれば、広大すぎて全貌が掴めないこの世界の物流と探検の歴史は、根底から覆ることになる。


「空間を繋ぐこと自体は成功したのよね?」

「ええ。西の大陸の果てに設置した受信機へ、ここから物質を転移させることには成功しました。瞬時に、です。しかし……」

カッシウスは言葉を濁し、痛ましそうな顔をした。

「転移させた結果、物質が『距離相応に時間経過した状態』になって到着したのです」

「……どういうことかしら?」

「実験として、今朝収穫されたばかりの新鮮なトマトと、焼きたてのパンを転移させました。しかし、西の大陸の果てに到着した時、トマトは完全に腐敗して液状化し、パンはカチカチの石のようになり、青カビに覆われていたそうです」


なるほど、と私は膝を打った。

つまり、空間を跳躍して移動にかかる「時間のコスト」は削減できる。しかし、物体そのものには「本来その距離を物理的に移動した場合にかかる時間」の負荷が、一瞬でかかってしまうということだ。

もしその距離が、馬車や船で半年かかる場所だとしたら、転移した物質は一瞬にして「半年分老朽化」する。

前世の主婦の感覚で言えば、冷蔵庫にも入れずに真夏のキッチンに半年放置したトマトである。想像しただけで恐ろしい。


「生きた人間や、新鮮な食料の輸送には到底使えないわね。人間が入れば、到着した瞬間に……お爺ちゃんになっているか、白骨化してしまうということでしょう?」

「ご慧眼の通りです。朽ちることのない鉱石の輸送や、情報伝達の手紙を送る程度には使えるかもしれませんが……母上と父上が夢見た『世界の果てへの移動手段』としては、致命的な欠陥と言わざるを得ません。ドワーフの超技術は、我々には荷が重過ぎました。世界の摂理たる『時間と距離の関係』を完全に無視することは、現状できませんでした」


カッシウスは悔しそうに拳を握った。きっと彼も、行方不明の父親を探すための画期的な手段になるかもしれないと、期待を寄せていたのだろう。


「気に病むことはないわ、カッシウス。失敗は成功への階段よ。それに、たとえ瞬時に世界の果てに行けたとしても、途中の景色を楽しめないのは、旅行好きとしては少し寂しいものね」

「母上……」

「それで? その落ち込んだ気分を晴らしてくれる『良い報告』の方を聞かせてもらえるかしら」


私が優しく促すと、カッシウスは顔を上げ、今度は誇らしげな笑みを浮かべた。


「吉報ですが、母上が二年前に建造開始を命じられた、古代ドワーフ技術を応用した『潜水艦』が、ついに完成いたしました」


潜水艦!

その単語を聞いた瞬間、私の中で前世の記憶と今世の記憶がバチバチと火花を散らして結びついた。

そうだ。この広大すぎる世界は、海もまた途方もなく広く、深い。

以前、我が社が開発した『水深望遠鏡アクアスコープ』——特殊なレンズと魔石を組み合わせ、遥か海底を見通す装置——を用いた調査で、とんでもないものを発見したのだ。


それは、光の届かないはずの深海で、未だに青白く発光しながら稼働し続けている、途方もなく巨大な古代の機械装置だった。

海の底で、数千年、あるいは数万年もの間、何のために動いているのか。

あれを直接調査できれば、この世界の成り立ちや、海を越えた先にある「世界の果て」の手がかりが得られるかもしれない。

そう考えたルキアナ(私)は、莫大な予算を投じて、深海の水圧に耐えうる船——潜水艦の建造を命じていたのだ。


「完成したのね……! 技術部の皆さんも、それを統括したあなたも、本当によくやってくれたわ」

「ありがとうございます。まだ試験段階ではありますが、いつでも出航可能です」

「素晴らしいわ!」


私は、五十年物のヴィンテージワインを開けた時のように、心が躍るのを感じた。

前世の地球では、深海は宇宙よりも謎が多いと言われていた。ましてやこの、法則すら読めない異世界の深海である。そこに、未だ動く巨大な古代遺跡があるのだ。


私は、全く痛まない膝と腰の軽さに感謝しながら、すっと立ち上がった。

ベルベットのドレスの裾が、優雅な弧を描いて翻る。


「カッシウス、お茶の時間はこれでおしまいよ。すぐに造船所へ向かいましょう」

「えっ? 今からですか?」

「当然じゃない。自分が産み落としたような我が子が完成したのだもの、この目ですぐに見たいわ。それに……」


私は、部屋の隅に置かれた羅針盤のオブジェを愛おしそうに撫でた。


「あの深海で動いている装置が、お父さんを見つけるための、最初の道標になるかもしれないでしょう?」

「……は、はい。そうですね」


私のフットワークの軽さに一瞬驚いたようだったカッシウスだが、すぐに口元を緩め、深く頷いた。


「では、馬車の手配をいたします。地下ドックへのご案内は、私が直接務めさせていただきますよ、母上」

「頼りにしているわ、カッシウス」


腰痛もない。老眼もない。有能で優しい息子がいて、莫大な資金と最新鋭の潜水艦がある。

前世の主婦だった頃からすれば、信じられないほどの待遇だ。

私は、これから始まる「夫探しの超旅行」の第一歩に胸を弾ませながら、息子のエスコートを受けて総督室を後にした。

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