部屋に戻るために、少し外へ出る
部屋というものは、たぶん人によって意味が違う。
寝る場所。
物を置く場所。
趣味の基地。
仕事場。
逃げ場。
世界との境界線。
どれも間違っていないと思う。
そしてたぶん、一人の人間にとっても、その意味はずっと同じではない。
昔の俺にとって、この部屋はかなり強い意味で“逃げ場”だった。
外が面倒くさい。
人がしんどい。
会話が疲れる。
そういうものから、いったん全部切り離してくれる場所。
ここにいれば誰にも合わせなくていい。
何も判断しなくていい。
部屋のドア一枚で、世界のノイズがだいぶ減る。
それはかなり救いだった。
今も、その性質が消えたわけではない。
たぶん一生、完全には消えない。
でも最近、少しだけ思う。
この部屋はもう、逃げ場だけではないのかもしれない。
戻る場所。
整える場所。
少し外へ出たあとで呼吸を揃え直す場所。
そういう意味が、前よりだいぶ強くなってきた。
そのことを、その日、俺は帰り道の途中でようやく言葉にできた。
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夕方。
俺は商店街の端を一人で歩いていた。
手には小さいレジ袋。
中には富子に頼まれた調味料、父に頼まれた電池、それから自分のエナジードリンク。
我ながら最近ほんとうに、“他人の生活の補充”と“自分の燃料補給”を同時にやることが増えた。
今日は一日、そこそこ動いた。
朝、ひなの支度。
健太のけん玉。
父の細かい用事。
駅前の買い物。
梅子さんに一回捕まりかけて、そこは半歩で回避した。
凛とも少しだけ話した。
どれも大事件ではない。
大事件ではないが、その“小さい何か”がいくつも連なると、それだけで一日はちゃんと外側へ傾く。
「……ちょっと長かったな、今日」
小さくそう呟く。
商店街には、夕方の匂いがあった。
惣菜屋の油。
八百屋の段ボール。
遠くのパン屋の甘い匂い。
シャッターを半分閉め始めた店もあれば、これからが忙しい店もある。
生活の時間帯だ。
その中を歩きながら、思う。
昔の俺なら、こういう“帰り道”にあまり意味はなかった。
用事を済ませる。
帰る。
終わり。
途中の道はただの移動だった。
今は少し違う。
帰る途中に、その日のことが少しずつ頭へ戻ってくる。
誰に何を言われたか。
何を直したか。
誰がどんな顔をしたか。
そして、その全部を持ったまま、自分の部屋へ戻っていく。
その感じが、前よりずっとはっきりある。
---
商店街を抜ける手前で、ふと会館の方が見えた。
掲示板。
小さい花壇。
会館の前のベンチ。
少し前までなら、あそこはもっと“近所の施設”だった気がする。
今は、もう少し自分の生活に近い場所だ。
「ああ、太郎さん」
声がして振り向くと、会館のおばさんだった。
ちょうど扉を閉めるところらしい。
「こんにちは」
「今日もいろいろだった?」
その聞き方が、妙に自然だ。
何をしていたか具体的には知らない。
でも、“いろいろだった?”で通じるくらいには、向こうの中でこちらの立ち位置ができている。
「まあ、少し」
「そういう時もあるわよねえ」
「ありますね」
「でも、太郎さん帰るとこでしょ?」
その言葉に少しだけ引っかかる。
「そうですけど」
「なんか、そういう顔してる」
そこまで顔に出てるのか。
いや、たぶん疲れてはいない。
ただ、一日分の生活を頭の中で少し持ち直している感じなのだろう。
「部屋戻ると、ちょっと整うんで」
何となくそう返すと、会館のおばさんはやわらかく笑った。
「いいわねえ、そういう場所があるの」
その一言が、その時はまだ軽く聞こえた。
でもあとからじわっと効くことになる。
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住宅街へ入る。
車の音が減る。
家の灯りが少しずつ増える。
夕方から夜へ変わる手前の、あの中途半端な明るさ。
スマホが震えた。
良子からだ。
『お兄ちゃん、今どこ?』
この時間の“今どこ”は、だいたい何かしら生活の最終確認である。
『もうすぐ家』
と返す。
『了解』
『ひなが、おじさんまだかなって』
俺は歩きながら少しだけ笑った。
『何だよそれ』
『今日はちょっといろいろ見てもらったからじゃない?』
それだけではない気もする。
でも、今はそのくらいの理由でいい。
『帰る』
と返すと、すぐ既読がついて、
『うん』
『じゃあ今日終わるね』
という返信が来た。
その言い方が、少し前なら変に感じたかもしれない。
今はむしろ、妙にしっくりきた。
今日終わる。
たしかにそうだ。
家へ戻って、袋を置いて、顔を見せて、それで今日が一段落する。
そういう役割が少しずつ自分にできている。
「……終わる、ね」
小さく呟く。
始める。
つなぐ。
終える。
そういう生活の接続点に、最近の俺は妙にいる。
それは面倒だ。
ほんとうに。
だが、完全に嫌でもない。
そこがいちばん厄介だ。
---
家へ戻ると、玄関の灯りがついていた。
ドアを開ける。
富子が台所。
父は和室。
良子がリビング。
ひながソファから顔を上げる。
「おかえり」
とひな。
「ただいま」
「まだかなって思ってた」
とひな。
「帰るって言っただろ」
「でも思うよ」
その返しが、やけに自然だった。
良子が笑う。
「お兄ちゃん、帰るってわかってても“まだかな”にはなるんだよ」
「何だその現象」
「生活現象」
名前を雑に付けるな。
袋を台所へ置く。
調味料。
電池。
エナジードリンク。
それぞれの位置へ戻る。
富子が受け取りながら言う。
「ありがと。
これで今日終わるわ」
そこへお前まで重ねるのか。
父が和室から短く言う。
「電池助かる」
「はいはい」
ひながソファから言う。
「おじさん、ちゃんと帰ってきたね」
「帰ってくるよ」
「うん」
その“うん”が、今日は妙に静かだった。
安心の確認みたいな温度がある。
そこでふと、さっきの会館のおばさんの言葉が戻る。
そういう場所があるの、いいわねえ。
たしかにそうなのかもしれない。
部屋がある。
家がある。
戻れば少し整う。
だから、外側で少しずつ役割が増えても、まだどうにかやれている。
---
自室へ戻る。
ドアを閉める。
机。
椅子。
ベッド。
読みかけの本。
全部、いつも通りだ。
「はあ……」
深く息を吐く。
今日もそこそこ外にいた。
家のことを見て。
子どものことを見て。
少し近所ともつながって。
また戻ってきた。
昔なら、“外にいたこと”の方へ強く意識が向いていたと思う。
今は違う。
むしろ、“戻ってきたこと”の方がしっくり来る。
「部屋に戻るために、少し外へ出る、か……」
その言葉は、思っていたよりすんなり出た。
逃げるためだけではない。
もうそうではない。
もちろん、この部屋は今も逃げ場だ。
人に疲れた時、生活の密度が重い時、ここへ戻れば少し軽くなる。
その機能は消えていない。
でも、それだけではなくなった。
外へ出て、役割をやって、少し疲れて、またここへ戻ってくる。
その循環の中で、この部屋は“補給地点”みたいになっている。
外と切り離す場所であると同時に、外へまた出るための場所でもある。
「……前は逆だったんだよな」
前は、部屋にいるために外を避けていた。
今は、部屋へ戻るために少し外へ出ている。
その違いは大きい。
ものすごく大きい。
でも、変化の見た目はかなり地味だ。
だからこそ、この作品らしいとも思う。
就職したわけでもない。
劇的に社交的になったわけでもない。
ただ、自室を拠点にしたまま、前より広い生活圏へ少しずつ足を伸ばせるようになった。
それだけ。
でも、その“それだけ”がたぶん、この物語ではいちばん大事だった。
「……これでいいのかもな」
小さくそう呟く。
部屋にいることと、外へ出ること。
前はその二つが矛盾していた。
今はもう、完全には矛盾しない。
戻る場所があるから出られる。
出るから戻る場所の意味も強くなる。
たぶん、それでいい。
今の俺には、そのくらいの形が一番ちょうどいい。
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机の上のエナジードリンクを開ける。
炭酸の音が、小さく部屋に響く。
「部屋に戻るために、少し外へ出る」
もう一度言ってみる。
きれいすぎる言い方かもしれない。
でも、今はそれでよかった。
自分のあり方を言葉にするなら、たぶんこのくらいの静かさが似合う。
外を全部好きになる必要はない。
部屋を捨てる必要もない。
そのままで、少し広く生きられるなら、それで十分だ。
そう思った時、今日一日の重さが少しだけましになった気がした。
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