おじさんがいると、ちゃんと今日になる
人の一日は、案外小さい確認でできている。
鍵を持ったか。
ノートは入れたか。
水筒はあるか。
あの紙はどこだ。
今の時間で間に合うか。
そういう、声に出すほどでもない細かい確認の積み重ねが、その日の“ちゃんと”を作っている。
だから厄介だ。
大事件ならまだわかりやすい。
転ぶとか、壊れるとか、遅刻するとか、そういうものは一発で問題だとわかる。
だが生活は、もっと小さい。
ちょっとした迷い。
一拍の停止。
どうしようかな、の半歩手前。
そういうものがいくつも重なって、今日がうまく始まるかどうかを決める。
最近、俺はそのへんに妙に関わることが増えた。
自分では別に、そんな役割を引き受けた覚えはない。
あるのは文句とため息くらいだ。
それでも、朝の流れや、出かける前の空気や、子どもたちの小さい不安の中に、いつの間にか自分の席ができている。
そのことを、その日、俺はひどく何でもない一言で思い知らされた。
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朝。
一階へ下りた時点で、家はすでに今日を始めていた。
富子が台所。
味噌汁の匂い。
父は和室の前で新聞。
良子はひなの髪を結んでいる。
ひなは鏡を見ながら少しだけじっとしていて、テーブルの上にはノート、水筒、ティッシュ、小さい巾着。
生活の準備とは、だいたいこういう光景のことだ。
「お兄ちゃん、おはよ」
と良子。
「おはよ」
「太郎、ちょっと見て」
と富子。
出た。
朝一番の“ちょっと見て”である。
最近ほんとうに、俺はこの家の“見る担当”になりつつある気がする。
「何」
「ひなの目覚まし、時間ちょっと合ってる?」
「知らん」
「見ればわかるでしょ」
その理屈はやめろ。
だが時計を見る。
壁の時計と五分ずれていた。
昨日の電池交換のあと、合わせ方が半端だったらしい。
「五分早い」
「あら」
と富子。
「じゃあ直して」
「何で俺」
「今見たから」
最近ほんとうにそうだ。
最初に見た人間へ、そのまま修正作業まで流れてくる。
非常に良くない。
だが、俺は目覚ましを手に取り、ボタンを押して時間を合わせた。
そして元の場所へ戻す。
「ほら」
「ありがと」
と富子。
「おじさん、ちゃんとしてる」
とひな。
「その評価毎回だな」
「だってほんとだもん」
そこへ父が新聞から目を上げて言う。
「切手は今日いらん」
「誰も聞いてない」
「念のためだ」
念のためって何だよ。
だがこの人も最近、こういう“生活の一言”が増えた。
説明ではなく連絡。
その短さが、今は妙に自然だ。
良子がひなの髪を結びながら言う。
「お兄ちゃん、これどっちがいいと思う?」
「またか」
「最後だけ。
リボンきつい方と、少しゆるい方」
「本人に聞け」
「聞いてる」
と良子。
ひなが鏡越しに俺を見る。
「……きつい方」
「やっぱり」
と良子。
「でしょ」
とひな。
「何で俺に聞く前にもう決まってるんだよ」
「確認だよ」
と良子。
「お兄ちゃん見ると、ちゃんと決まる感じあるし」
その言い方も、最近だいぶ増えた。
今日の流れはもうこの時点でかなり嫌な予感がする。
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朝ごはんを食べていると、玄関が開いた。
「オレも来た!」
健太である。
朝から元気がうるさい。
「何でいるんだよ」
「公園行く前!」
「何でここ寄るんだよ」
「だっておじさんいるかと思って!」
そこをそんなに当然みたいに言うな。
健太は靴も脱ぎきらないまま、テーブルの端へ来た。
「おじさん、これ見て!」
手には虫取り網。
いや、まだ朝だぞ。
どこからそのテンションが出るんだ。
「網がどうした」
「ゆるい!」
たしかに接続部が少し緩んでいる。
だが、それくらい自分の親に頼め。
「母さんは」
と俺。
「出かけた!」
「父さんは」
「知らん!」
最後の回答が雑すぎる。
「……ドライバー」
俺がそう言うと、健太がすぐに走る。
どこへ行くのかと思ったら、俺の家の工具箱の場所を知っている顔だった。
お前は何でそこまで把握してるんだ。
「はい!」
「早いな」
「だって、ここ!」
ここ。
つまり、この家、この工具箱、この流れ。
全部がもう健太の中で“とりあえずおじさんルート”として定着しているのだろう。
少し締める。
終わり。
「ほら」
「やった!」
「それで今日の虫取り人生が変わるのか」
「変わる!」
元気よく答えるな。
その勢いが少しだけ羨ましい時もある。
ひなが横から静かに言う。
「けんたって、来ると今日始まる感じするよね」
「お前もな」
と俺。
「おじさんも」
と健太。
「何でだよ」
「いると、ちゃんと始まるじゃん!」
その一言を、その時はまだ冗談だと思っていた。
健太は基本的に、言葉の重さをそこまで気にしない。
勢いで投げて、勢いで走っていく。
「じゃあ行ってくる!」
本当にそのまま走っていった。
虫取り網を持って。
今日も世界は平和だなと思う。
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昼前。
良子とひなが出かける準備をしていた。
英語教室だったか、何かの買い物だったか。
最近はそのへんの予定がかなり生活の中に溶けているので、一つずつ記憶していると逆に疲れる。
ひながバッグを肩にかける。
良子が最後に中身を確認する。
「ノートある」
「ある」
「筆箱」
「ある」
「ハンカチ」
「ある」
そこで良子が少しだけ止まる。
「……ティッシュ」
ひながバッグの中を見る。
手を入れる。
少し間。
それから、反射みたいに俺を見る。
「おじさん」
「何」
「ティッシュ入れたっけ」
「知らん」
「でもおじさん見た」
「万能じゃないんだよ俺は」
だが、さっき朝の支度の時にテーブルの端へ置いてあったのを覚えていた。
「テーブルの左」
ひながすぐ振り返る。
見る。
ある。
「あった」
「だろ」
「何でわかるの」
と良子。
「見たからだよ」
当たり前だ。
当たり前なのだが、この家では最近そういう“当たり前の観測”すら役割へ変換されがちである。
ひながティッシュをバッグへ入れて、何でもない顔で言った。
「おじさんがいると、ちゃんと出かける感じになる」
その言葉は、今度は健太の時と違って妙に静かだった。
静かだったからこそ、かなり本気に聞こえた。
「……何だそれ」
思わずそう返す。
「ちゃんと忘れないし」
とひな。
「迷わないし」
と良子。
「何で二人で重ねるんだよ」
「だってそうなんだもん」
とひな。
ひなの“だってそうなんだもん”は、もうほぼ最終兵器に近い。
盛っていない。
本人の中で本当にそうだから、真正面から来る。
良子は少しだけ笑ったあと、でも今日はからかいを少し抑えた声で言った。
「お兄ちゃん、いると今日が流れ出す感じあるんだよね」
その整理はきれいすぎて困る。
「……大げさだろ」
「大げさじゃないよ」
と良子。
「“役に立つ”とはちょっと違うんだよ。
いると、ちゃんと今日になるって感じ」
そこで、さっき健太が勢いで言っていた言葉と、今ひなと良子が落ち着いて言った言葉が一本に繋がる。
ちゃんと今日になる。
それはたぶん、便利とか助かるよりもう少し深い。
生活のリズムそのものに少し関わっている言い方だ。
「……重いんだよ、それ」
ようやくそう言うと、ひなは首をかしげた。
「何で?」
「何でもだよ」
説明できない。
できないが、確かに重い。
役に立つならまだ外側だ。
でも“今日になる”は、中へ入りすぎている。
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午後。
駅前へ出て、スーパーへ寄る。
富子に頼まれた料理酒と、父に頼まれた小さい電球。
ついでにエナジードリンク。
最近ほんとうに買い物かごの中身が、他人の生活と自分の生存戦略でできている。
レジを済ませて店を出ると、少し先に凛がいた。
紙袋を持って歩いている。
このくらいの遭遇頻度も、もうかなり日常だ。
「よう」
声をかけると、凛が振り向く。
「こんにちは」
「買い物?」
「見ればわかると思います」
「もうそれ便利ワードすぎるだろ」
「事実なので」
並んで少し歩く。
風が弱い。
空は少し曇っている。
駅前通りの車の音。
「今日は何ですか」
と凛。
「料理酒と電球」
「かなり家です」
「最近そればっかり言うな」
「だってそうですし」
そこで、何となく昼の言葉が頭へ戻る。
ちゃんと今日になる。
いると流れ出す。
ああいうやつ。
「なあ」
と俺。
「何ですか」
「俺ってそんなに“今日を始める人”っぽいか」
自分で言っていてかなり妙な質問だと思う。
だが、昼からずっと頭の端に残っていた。
凛は少し考えてから言った。
「始める、というより」
「ちゃんとつながる、じゃないですか」
「何が」
「朝の準備とか、出かける前とか、帰ってきたあととか」
その整理も、かなり近い。
やっぱりこの人は妙なところをちゃんと拾う。
「……お前までそう言うのか」
「見てるので」
「便利ワードで逃げるな」
「逃げてないです」
凛はそこで、ほんの少しだけ声をやわらげた。
「でも、たしかにそういう位置だと思います」
その言い方が、コンビニの店員としての観察でもなく、にぼし姫としての刺しでもなく、かなりまっすぐだった。
そういう位置。
生活の中で、今日をちゃんとつなぐ位置。
「……重いな」
俺がそう言うと、凛は少しだけ目を細めた。
「そういうのは、軽い人には来ないと思います」
その返しがずるかった。
励ましているわけではない。
持ち上げすぎてもいない。
でも、ちゃんと受け取る側の言葉になっている。
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家へ戻ると、富子が料理酒を受け取り、父が電球を見て「これだな」と頷き、ひなは「おかえり」とだけ言った。
その“おかえり”が、今日は少しだけ妙に聞こえる。
良子が冷蔵庫の前から顔を出す。
「お兄ちゃん」
「何」
「今日のやつ、まだ気にしてるでしょ」
「何が」
「“ちゃんと今日になる”」
こいつは本当に嫌なところへ気づく。
「別に」
「それ弱い時の別に」
ひながその横で、まっすぐ言う。
「でもほんとだよ」
ほんとうに、今日はそこを何度も重ねてくるな。
「おじさんいると、忘れないし」
とひな。
「聞けるし」
と良子。
「決まるし」
とひな。
「流れるし」
と良子。
「だから読み上げるなって」
二人がこういう時だけ妙に息ぴったりなの、ほんとうに困る。
---
夜。
自室。
椅子に座る。
エナジードリンクを開ける。
扇風機の風。
部屋の静けさ。
「おじさんがいると、ちゃんと今日になる、か……」
その言葉を、もう一度口に出してみる。
かなり重い。
かなりだ。
助かるより重い。
安心するより重い。
役に立つより、もっと生活に近い。
朝の流れ。
出かける前の確認。
持ち物。
迷い。
待ち時間。
帰ってきた後の一息。
そういう“今日”の細かい接続点へ、自分が少しずつ入っている。
「……そこまで来たのかよ」
ぽつりとそう呟く。
たぶん来たのだろう。
それは急にではない。
何度か見て、何度か答えて、何度か付き添って、その積み重ねでこうなった。
だから、本物っぽい。
そして本物っぽいから、簡単には流せない。
「面倒なんだよなあ……」
そう言って、少しだけ笑う。
面倒だ。
とても面倒だ。
でも、完全に嫌ではない。
そこがやっぱり一番ややこしい。
もし本当に嫌なら、“今日になる”なんて言葉にここまで引っかからない。
だが実際には、夜の部屋でこうして反芻している。
「…こういう一言で締まっていくんだろうな」
そう呟く。
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