にぼし姫、お前は最初からいたんだな
人との距離は、ある日いきなり変わるものではない。
少なくとも、俺の人生ではだいたいそうだ。
劇的な事件があって、雷に打たれたみたいに何かが変わる。
そういうのは物語の中では強いが、日常の中では案外少ない。
実際にはもっと地味だ。
何度か会う。
何度か話す。
最初は妙に意識していたことが、少しずつ普通になる。
普通になったあとで、逆に“あれ、これ普通じゃないな”と気づく。
それがいちばん厄介だ。
なにしろ、こちらが気づいた時には、もうだいぶ進んでいる。
最初の一歩がどこだったのか、あとからうまく思い出せない。
でも、たしかに積み重なっている。
そして、その積み重ねが誰か一人に対してだけ妙に濃いと、人はようやくそこで“特別”の輪郭を見始める。
にぼし姫。
風間凛。
この二つの名前の間にも、たぶんそういう積み重ねがあった。
その日、俺はそれをかなり静かな形で思い知ることになった。
---
夜。
自室。
机。
ノートPC。
扇風機。
エナジードリンク。
かなりいつもの布陣だった。
この部屋へ戻ると、やっぱり一日の余計なざわつきが少しずつ下へ沈む。
それは変わらない。
むしろ、外側の生活圏が広がったぶんだけ、この部屋へ戻る意味は前より少し強くなっている気さえする。
「……入るか」
そう呟いてログインする。
白狼77。
いる。
にぼし姫。
いる。
この並びも、もう見慣れた。
以前なら、この画面を開いた時点で少しだけ身構えていた気がする。
今はもう違う。
白狼77はうるさい。
にぼし姫は刺してくる。
その前提でわりと普通に入れる。
すぐに白狼77が飛んできた。
『太郎、今日ちょっと遅いな』
『別に』
と返す。
『出た別に』
『最近その返し多いぞ』
と白狼77。
にぼし姫が短く入る。
『今日は静かですね』
その一言で、俺は少しだけ笑った。
『お前、そこ毎回拾うな』
と打つ。
『見てるので』
とにぼし姫。
『便利な言葉だな』
と俺。
『そっちも便利な言い訳ばっかりです』
とにぼし姫。
そこへ白狼77が割り込む。
『何だよこの安定感』
『お前らもう漫才の型できてるじゃん』
『外野うるさい』
と俺。
『はいはい』
と白狼77。
会話のテンポが、前よりずっと自然だ。
いや、自然というより、もう生活に近い。
ログインして、白狼77が雑に振って、にぼし姫が妙な角度から刺して、俺が面倒くさそうに返す。
その流れがほぼ日課みたいになっている。
それが妙に引っかかった。
『なあ』
と俺は打った。
『何ですか』
とにぼし姫。
『お前って、最初からこんな感じだったか?』
白狼77が即座に反応した。
『何その聞き方』
『重いぞ急に』
『うるさい』
と返す。
にぼし姫は少しだけ間を置いてから返した。
『どんな感じですか』
そこを聞き返すのか。
いや、にぼし姫らしいといえばらしい。
『こう……普通にいる感じ』
と打つ。
『前はもっと当ててきただろ』
『今は何か、もう生活の一部みたいな』
送ってから、自分で少しだけ止まる。
かなり本音だった。
そして、かなり言いすぎた気もする。
白狼77が大騒ぎし始めた。
『うわ出た』
『生活の一部だってよ』
『お前それ自分で言うのかよ』
『外野席は黙ってろ』
と俺。
にぼし姫は意外とすぐには返さなかった。
珍しく、少し長めに間が空く。
その間が、画面越しなのに妙に濃い。
やがて、短く返ってきた。
『最初からいたと思います』
その一文で、今度は俺が止まる。
最初からいた。
その言い方は、かなり静かで、かなり強かった。
『何だよそれ』
と打つ。
『チャットにもいたし』
『生活圏にもいました』
とにぼし姫。
『そっちが気づくのが遅かっただけじゃないですか』
その返しは、反論しづらいどころか、かなり正しい気がした。
最初の頃の俺は、にぼし姫を“当ててくる相手”としてしか見ていなかった。
凛のことも、“コンビニの店員”として妙に意識していた。
でも実際には、その二つは最初からかなり近いところにいたのかもしれない。
コンビニ。
帰り道。
チャット。
生活の愚痴。
買い物袋。
疲れた顔。
そういう、小さい日常のそばに、たしかにずっといた。
『……それは、まあ』
と俺が打つ。
『たしかにそうかもな』
白狼77がそこへまた騒ぐ。
『はい出た』
『今日は素直祭りかよ』
『うるさい』
と返す。
だが、白狼77の茶化しを抜いても、今の感覚はかなり本物だった。
にぼし姫は、あとから突然現れた何かではない。
最初から、生活の近いところにいた。
こちらがそれを、変な角度からばかり見ていただけだ。
『お前さ』
と俺はもう一度打つ。
『何ですか』
とにぼし姫。
『最初からそこにいたんだな』
また、少しだけ間が空いた。
今度の返事は、短い。
『いましたよ』
それだけ。
でも、それで十分だった。
白狼77が今度はわりと静かに言う。
『何か今日、いい感じに進んでんな』
その言い方が少し可笑しくて、俺は小さく笑った。
『進んでるっていうか』
と俺は打つ。
『今さら確認してるだけだろ』
『今さらなのはほんとそうですね』
とにぼし姫。
『遅いです』
『うるさい』
と返す。
『でも、遅くても気づいたならいいんじゃないか』
と白狼77。
お前がそういうまとめ方をすると、妙に腹立つな。
だが、たしかにそうかもしれない。
遅い。
かなり遅い。
でも、気づかなかったままよりはずっといい。
---
チャットを閉じたあと、部屋は静かだった。
扇風機の音。
窓の外の虫の声。
机の上の缶。
いつもの夜。
でも、そのいつもの夜の中に、今のやり取りだけが少し違う温度で残っていた。
「にぼし姫、お前は最初からそこにいたんだな……」
思わずそのまま口に出す。
チャットの相手として。
コンビニの店員として。
生活圏の中で何度も会う人として。
疲れを拾う人として。
返事の雑さに気づく人として。
最初からいた。
ずっと近いところに。
そして、その近さがじわじわ積み重なって、今の“少し違う”になった。
「……そう考えると、かなり長いんだよな」
ぽつりとそう呟く。
派手な告白はない。
何かが劇的に決まったわけでもない。
でも、最初からずっとそこにいて、今もまだそこにいる。
それは、たぶんこの作品における恋愛のかなり大きな答えなのだろう。
「悪くない、どころじゃないのかもな」
そう言ってから、少しだけ自分で照れくさくなる。
ここで一気にきれいな言葉へ飛ぶのは、たぶんまだ違う。
俺は最後まで俺のままでいいし、この物語も最後まで日常の温度で締めた方がいい。
それでも、今日ここで一つはっきりした。
凛は、あとから急に特別になったわけじゃない。
最初からずっと近くにいて、そのまま少しずつ特別になっていったのだ。
その静かな重さが、今の俺にはかなりちょうどよかった。
---
翌日、夕方。
コンビニへ寄る。
エナジードリンク一本。
ついでにスナック菓子。
レジには凛がいる。
「いらっしゃいませ」
「……どうも」
商品を置く。
ピッ。
いつもの流れだ。
凛は何でもない顔で言った。
「今日は早いですね」
「たまたま」
「そうですか」
短い。
普通だ。
でも昨日の会話のあとだと、その普通さが妙に心地いい。
「お前さ」
と俺は言う。
「何ですか」
と凛。
「まあ……昨日のあれ」
「はい」
「いたなら、しょうがないな」
我ながら何の言い方だと思う。
もっとマシな伝え方はあった気がする。
でも今の俺から出たのは、それだった。
凛は一瞬だけ止まって、それから少しだけ口元をゆるめた。
「そうですね」
それだけ。
でも、その“そうですね”がやけにきれいに落ちた。
レジ袋を受け取って店を出る。
ガラスの自動ドアが閉まる。
夕方の光。
駅前通りのざわつき。
何かが大きく変わったわけではない。
でも、昨日までより少しだけ、線が一本きれいにつながった気がした。
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