「そのエナジードリンク、前も買ってましたよね」
人は、他人に見られていないと思うことで、どうにか日々を生きている。
もちろん、現実には見られている。
道ですれ違う人間も、レジの店員も、近所のおばちゃんも、こっちが思う以上にこちらの顔や行動を記憶していることがある。
だが、それを真正面から意識してしまうと生活が崩れるから、人はだいたい“まあ覚えられてないだろう”という前提で日常をやり過ごしているのだ。
少なくとも、俺はそうだ。
そうだった。
その夜までは。
深夜のコンビニは、本来なら比較的安全な場所である。
人が少ない。
会話が短い。
目的が明確。
店員も客も、必要以上に他人へ興味を持たない。
外の世界の中ではかなりマシな部類だ。
もちろん、風間凛という不確定要素がいる時点で完全な安全地帯とは言い難いが、それでも昼間の住宅街や親戚の集まりに比べればはるかに戦いやすい。
そのつもりだった。
俺は夜の十一時半過ぎ、いつものように静かに家を出た。
このところ、冷蔵庫の中身を夜に補充することが微妙に習慣化している。
良くない傾向だとは思う。
だが、日中に出るよりはずっとましだし、深夜にカップ麺や飲み物を選ぶ行為には独特の安らぎがある。
富子はすでに寝ていた。
リビングの明かりも消えている。
家の中は静かで、夜の空気は少しだけひんやりしていた。
俺はパーカーを羽織り、財布とスマホをポケットに入れる。
今夜の目的は明確だった。
エナジードリンク。
それから、軽めの夜食。
できれば会話イベントは最小限で済ませたい。
コンビニに着くまでの道は、ここ最近ではもう慣れたものだ。
街灯の位置。
足音の響き方。
どの家の前で犬が鳴きやすいか。
全部とまでは言わないが、だいたい把握している。
こういう“慣れ”は悪くない。
少なくとも、自分の行動範囲の中で不確定要素が減るのは精神衛生上いいことだ。
問題は、その先だった。
自動ドアが開く。
店内は静かで、客は少ない。
理想的だ。
だがレジを見ると、やはり凛がいた。
「…いるよな」
小さく呟く。
もはやこの時間帯にこの店へ来ると、凛がいることを前提に考えた方がいいのかもしれない。
いや、実際にはもっといろいろな店員がいるのだろうが、こちらの記憶に残るのが凛ばかりというだけか。そう考えると余計に嫌だな、と俺は思った。
凛はレジで何かのレシートをまとめていた。
髪は後ろでひとつに束ねられていて、いつものように無駄な動きがない。
落ち着いている。
こちらが勝手に落ち着かなくなるだけで、向こうは毎回変わらない。
俺はなるべく平常心を装いながら、店内を回った。
飲み物棚の前で立ち止まる。
いつもの銘柄を探す。
銀色と黒の缶。糖分高め。味は好きだが、頻繁に買っていると生活の偏りが丸見えになる危険もある。
――いや、別に丸見えになったところで困る相手などいない。
コンビニ店員は客の生活をいちいち評価したりしない。
そういう理屈は理解している。
それでも、同じものばかり手に取るのは何となく恥ずかしい。
俺は一度棚の前で迷い、別の新商品らしき缶も見た。
だが、結局いつものエナドリを手に取る。
飲み慣れた味には勝てない。
それから、棚を移動してカップ麺を一つ。
スナック菓子を一袋。
今夜はこれでいいだろう。
レジへ向かう。
並んでいる客はいない。
逃げ道はない。
俺は商品を置いた。
「いらっしゃいませ」
凛の声はいつも通り平坦だった。
「…どうも」
また言った。
もう駄目だ。
これは治らない。
こっちの“どうも”に何の意味があるのか、自分でもわからないのに毎回出る。ほとんど反射だ。
凛が商品を一つずつスキャンしていく。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
エナドリの缶が読み取られた瞬間だった。
「そのエナジードリンク、前も買ってましたよね」
世界が一瞬止まった。
俺は顔を上げた。
「え」
間抜けな声が出た。
凛は別に何でもない顔をしている。
客と店員の間で交わされる、たまたま口に出た程度の会話。
それ以上でも以下でもない、という空気だった。
だが、こちらの内心は大変なことになっていた。
覚えられている。
俺の。
買い物内容が。
いや、もちろん理屈ではわかっている。
店員は毎日たくさんの客を見ているし、その中で特徴的な購入パターンは自然と残ることもあるだろう。
それは別に異常なことではない。
おかしなことでもない。
それでも、“前も買ってましたよね”という直接的な確認は、俺のような人間には思った以上に重い。
「あ、ああ…まあ」
何とか声を絞り出す。
最悪だ。
言い訳っぽい。
しかも自分でも何に対する“まあ”なのかわからない。
凛は気にした様子もなく続ける。
「人気ありますよね、それ」
「…そうなのか」
「よく売れてます」
それが救いになるのかどうか、微妙なラインだった。
つまり俺だけじゃない、と言いたいのかもしれない。
あるいは本当にただの商品情報か。
どちらにせよ、こちらはすでに平常心を失い始めている。
俺は無意識にレジ台の端へ視線を落とした。
前も買っていた。
それは事実だ。
たぶん前回も前々回も、似たような構成だった。
エナドリ。夜食。何かしらしょっぱいもの。
それはつまり、この店、この時間帯、この店員の前で、俺の深夜生活の一部が繰り返し露呈していたということになる。
まずい。
別に違法ではない。
社会的にもそこまで逸脱していない。
なのに、なぜこんなにもまずい気がするのか。
凛が次の質問をする。
「袋、どうしますか」
「あ、お願いします」
すぐ答えられた。
だが、心ここにあらずだ。
「ポイントカードありますか」
「ないです」
「温めますか」
「大丈夫です」
会話はいつも通り進んでいる。
進んでいるのに、さっきの一言のせいで全部の意味が変わってしまった気がした。
凛は会計を打ちながら、何気なく言う。
「毎回違うの試してる人より、同じの選ぶ人のほうが記憶に残るかもです」
それはもう追撃だった。
俺は顔を上げることができなかった。
「…そうですか」
「はい」
短い返答。
そこに深い意味はない。
ないのに、こちらは勝手に深読みする。
毎回同じのを買ってる客。
深夜帯に来る。
エナドリ率高め。
たまにカップ麺。
会話は微妙。
どう考えても、あまり健康的でも爽やかでもない。
俺は財布から金を出した。
指先が少しだけ滑る。
だがここで落とすわけにはいかない。これ以上情けない要素を増やすわけには。
会計を済ませる。
「ありがとうございました」
「…どうも」
それしか言えないのか、俺は。
商品を受け取り、店を出る。
夜の空気がさっきよりぬるく感じた。
自動ドアが閉まってから、ようやく俺は立ち止まった。
「…覚えられてたのか」
口に出してみると、余計に実感が増す。
覚えられること自体は不思議ではない。
理屈はわかる。
だが、“わかる”と“平気”は違う。
俺は袋をぶら下げたまま歩き出した。
頭の中で、さっきの会話が繰り返される。
“前も買ってましたよね”
何でもない言い方だった。
責めてもいないし、笑ってもいない。
だからこそ逃げ場がない。
悪意があるなら、こっちも被害者面できる。
だが、善意でも悪意でもなく、ただ事実として認識されている状態は、一番居心地が悪い。
帰り道の途中で、俺はスマホを取り出した。
歩きながらチャットを開く。
『聞いてくれ』
送る相手は白狼77。
数十秒で返ってきた。
『また何』
『コンビニでエナドリ覚えられてた』
『店員に前も買ってましたよねって言われた』
既読。
すぐに返事。
『草』
予想通りすぎて腹が立つ。
『笑い事じゃない』
『買い物パターン記憶されてるの普通にきつい』
『いや普通だろ』
『レジやってたら覚えるわそんなの』
『毎回同じ時間に来て同じの買ってる客とか』
それをそのまま言うな。
『だとしても口に出すか普通』
『別に嫌味じゃないならいいだろ』
『お前自意識過剰なんだよ』
雑に切るな。
しかし完全には否定できないのがまた腹立たしい。
俺は次に、にぼし姫へもメッセージを送った。
『コンビニの店員に買うもの覚えられてたんだが』
『これ普通なのか?』
既読がつくまで少し間があった。
その間に家へ着き、玄関を開ける。
リビングは暗く、富子はもう寝ている。
静かな家の中で、スマホだけが小さく光った。
『普通です』
即死である。
『いや普通って』
『毎回エナドリ買ってるの覚えられてたんだぞ』
『同じ時間に来る客で、同じもの買ってたら覚えますよ』
またしても、あまりにも正しい。
『でも口に出すか?』
『会話の取っ掛かりでは』
『取っ掛からなくていいだろ』
『それはあなたがそう思ってるだけです』
冷たい。
いつものことだが冷たい。
俺は靴を脱ぎながら、なおも食い下がる。
『自分が店員だったらそういうの言うか?』
しばらく間があった。
その沈黙に、なぜか嫌な予感がした。
返ってきたのは、短い一行だった。
『相手が嫌そうなら言いません』
俺は立ち止まった。
何だその言い方。
ただの一般論か。
それとも何かを踏まえているのか。
いや、踏まえていたとしてもおかしくはない。こっちは今まで何度もコンビニへ行っているし、店員というのは客の顔色を見るものだろう。
…待て。
何で今、その想像がそこまで具体的なんだ。
俺はその考えをすぐに振り払った。
気のせいだ。
にぼし姫がたまたまそう返しただけで、そこに特別な意味はない。
意味を作り始めたら終わる。
俺は自室へ戻り、机に商品を広げた。
エナドリ。カップ麺。スナック菓子。
さっきまで普通だった布陣が、急に“記憶されている生活習慣”として見えてくるから不思議だ。
「…何買えば自然なんだよ」
思わず呟く。
毎回違うものを買えばいいのか。
だが、そうすると今度は“無理してる感じ”が出る気もする。
いっそエナドリをやめるか。
しかし、飲みたいものを他人の認識で変えるのも負けた気がする。
面倒くさい。
我ながら実に面倒くさい。
だが、人目というのはそういうものだ。
たとえ相手に悪意がなくても、自分の生活が輪郭を持って他人の中に残っているとわかるだけで、急に動きづらくなる。
スマホがまた震えた。
にぼし姫から続きが来ている。
『まあでも』
『別に変じゃないと思いますけど』
俺は画面を見たまま、少しだけ固まった。
それは慰めなのか。
単なる事実なのか。
あるいは“その程度で気にしすぎ”という意味なのか。
どれでもありそうで、どれとも断定できない。
数秒考えてから、俺は短く返した。
『何が』
既読。
すぐ返ってくる。
『エナドリ買うことです』
『深夜にコンビニ来ることも』
俺はしばらく無言だった。
別に変じゃない。
その言葉自体はありがたい。
ありがたいが、そこで素直に救われるほど単純でもない。
『そうか』
とだけ返す。
にぼし姫からは、それ以上来なかった。
部屋は静かだ。
モニターの明かり。
机の上のエナドリ。
開けてもいないのに、今日は妙に存在感がある。
俺は椅子に座り、缶を手に取った。
プルタブに指をかける。
覚えられていた。
だが、別に変じゃないらしい。
その二つの事実が、うまく頭の中で一つにならない。
結局、人は他人の評価ではなく、自分の恥ずかしさで動揺するのだろう。
向こうがどう思っているかより、“見られた”と自分が認識したことの方が大きい。
俺は缶を開け、一口飲んだ。
甘い。
飲み慣れた味だった。
「…別にいいだろ」
誰に向けるでもなく、そう言う。
自分にか。
凛にか。
にぼし姫にか。
よくわからない。
ただ、今後この店に来るたび、少しだけ意識してしまうのはもう確定だった。
それが厄介で、そして、少しだけ情けない。
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