梅子さん、俺の担当範囲を勝手に決めないでください
世の中には、勝手に決まるものがある。
天気とか。
花粉の飛散量とか。
近所のおばさんネットワーク経由で共有される情報とか。
そういうものは、本人の意思とは関係なく、気づいた時にはもう確定している。
そして最近、俺の担当範囲もどうやらそのカテゴリに入りつつあった。
いや、正確に言うなら、**俺以外の人間の中ではもうかなり確定している**。
家の中だけでも嫌なのに、これが近所と会館と商店街にまで広がっているのだから、本当に質が悪い。
しかも、こういうのを推し進めるのはたいてい悪人ではない。
むしろ逆だ。
感じがいい。
明るい。
善意で動く。
だから断りづらい。
その代表格が、言うまでもなく田村梅子さんである。
その日も俺は、家の前でそれを思い知らされていた。
---
昼前。
俺は玄関の脇で、父の自転車のチェーンに油をさしていた。
別に趣味ではない。
少し前から漕ぐたびにしゃりしゃり音がすると父が言っていて、さっき見たらたしかに乾いていた。
そういう、小さくてすぐ終わる作業が最近やたら多い。
スプレーを軽く吹く。
ペダルを回す。
もう一度吹く。
確認。
終わり。
「……こういうのだけは、すぐ終わるんだよな」
そう呟いた瞬間だった。
「あらあら、太郎さん」
声でわかる。
明るい。
やわらかい。
そして、かなり危険だ。
顔を上げると、やっぱり梅子さんだった。
トートバッグ。
帽子。
にこにこしている。
この人がにこにこして近づいてくる時、こちらの平穏はだいたい終わる。
「こんにちは」
「こんにちはあ。
ちょうどよかったわ」
始まった。
その入りを本当にやめてほしい。
「何ですか」
「会館の掲示板ね、今日ちょっと貼り替えなのよ」
「知りません」
「そうだったかしら」
「聞いてません」
「でもまあ、大丈夫よね」
何が大丈夫なんだ。
会話の流れだけで人員を確保するな。
「何で俺なんですか」
「だって、太郎さん担当でしょ」
俺はその場で本気で止まった。
「……何の」
「このへんの、ちょっとしたこと」
雑すぎる。
そして、かなり核心でもある。
そこをそんな軽さで言い切るな。
「担当じゃないです」
「あら、でもみんなそう思ってるわよ」
言うな。
さらっと言うな。
かなり効くからな。
そこへ、近所のおばさんがちょうど通りかかる。
「あら、太郎さん。
会館行くの?」
「今初めて聞きました」
「え、そうなの?」
とおばさん。
「でも来るわよね?」
と梅子さん。
「その前提が嫌なんですよ」
おばさんは少し笑いながら言う。
「でも、太郎さんいると早いしねえ」
「それなんですよ。
その評価を免罪符みたいに使うの」
梅子さんはきょとんとしていた。
「免罪符って何」
「勝手に担当範囲を広げる時のやつです」
「広がってるというか、もうそのへん全部じゃない」
とおばさん。
やめろ。
本人の前で地図を広げるな。
---
結局、会館へ行く流れになった。
断れなかった。
というより、断るタイミングがまたしても消えた。
梅子さんはそのへんが本当にうまい。
確認より先に、周囲の認識を固める。
そして“え、違うの?”みたいな顔をする。
善意の包囲網としてかなり完成度が高い。
会館前に着くと、すでに二人ほどのおばさんがいた。
掲示板の前に、紙の束と透明ファイル。
脚立まで出ている。
嫌な予感がする。
「あ、太郎さん来た」
と会館のおばさん。
「こんにちは」
「助かるわあ。
上のとこ、ちょっと留め直したくて」
見ろ。
もう完全に人員扱いだ。
「脚立は自分で上ってください」
「上るのは上るけど、押さえてくれる人いた方が安心でしょ」
そこも地味に断りづらい理屈だ。
掲示板の前に立つ。
会館のおばさんが脚立へ上る。
俺が下を押さえる。
梅子さんが紙を渡す。
別のおばさんが順番を確認する。
この光景のどこをどう見ても、俺だけが外部の人間ではない。
かなり普通に組み込まれている。
「これ剥がして」
と上から声がする。
「はいはい」
「次これね」
と梅子さん。
「順番逆じゃない?」
と別のおばさん。
「いやそれはこの前ので」
と俺。
三人が一瞬こっちを見る。
「太郎さん、わかるの?」
と梅子さん。
「前の貼り方がそうだったからです」
「ほらやっぱり」
と梅子さん。
その“ほらやっぱり”が最悪だった。
当たってほしくないところほど、きれいに当ててくる。
掲示板の紙を貼り終える。
脚立を畳む。
それで終わりかと思ったら、会館のおばさんが振り返った。
「太郎さん、そのついでにこっちの箱もちょっとだけ寄せてもらえる?」
始まった。
枝が増えた。
「何で増えるんですか」
「だって今いるし」
と梅子さん。
もうほんとうに、その理屈を地域で統一ルールみたいに使うのやめてくれ。
---
箱を寄せて、ついでに花壇の札も立て直して、やっと一段落した頃には、俺は会館前のベンチに座っていた。
紙コップの麦茶を渡される。
「はい、太郎さん」
「どうも」
「ほんと助かるわねえ」
と会館のおばさん。
「担当だから」
と梅子さん。
「担当じゃないです」
と俺。
「え、違うの?」
と会館のおばさん。
「違います」
「でも、会館まわりと、商店街ちょっとと、家のことと、子どもたちのことはやってるじゃない」
と梅子さん。
そこで俺は紙コップを持ったまま固まった。
会館まわり。
商店街ちょっと。
家のこと。
子どもたちのこと。
それをそんなふうに分類されると、妙に具体的で困る。
しかも、言われてみればたしかにそうなのだ。
「……勝手に業務範囲を整理しないでください」
そう言うと、おばさんたちは笑った。
笑うな。
かなり本気なんだぞ。
そこへ、商店街の文房具屋の店員が通りかかった。
「あ、太郎さん。
今日は会館ですか」
「今日は、って何だよ」
「このへん全部にいる感じしますよね」
そこまで言うか。
文房具屋側からもその認識なのか。
「だからそれなんですよ」
と俺。
「俺の担当範囲を、勝手に確定しないでください」
店員さんは少し笑ってから言った。
「でももう、かなり確定してるように見えますよ」
本人以外の全員が、同じ見解を持っている。
それが一番怖い。
---
少しして父が会館の前を通った。
「ああ、いたのか」
と父。
「いたよ」
「梅子さんに捕まったか」
「そうだよ」
父はそれを聞いても驚かなかった。
ただ、会館前の掲示板を見て、箱の位置を見て、それから短く言った。
「きれいになったな」
「俺がやったからな」
「そうだろうな」
その一言もまた、妙に自然だ。
父にとってもたぶん最近、俺がこういう場にいるのはそこまで不思議ではなくなっている。
それが少し面白くて、少し落ち着かない。
「お父さんもそう思うでしょ?」
と梅子さん。
「太郎さん、このへん担当よねえ」
父は少しだけ考えてから言った。
「まあ……その辺はそうかもな」
「父さんまで!」
そこで親まで認定側へ回るなよ。
でも、父のその言い方は、適当な同意ではなかった。
短いが、本当にそう見ている声音だった。
「家のことも見るし」
と父。
「外も少し見る」
「それはそうだけど」
「ならまあ、その辺だろ」
雑だ。
だが、この家の人間はみんな、核心に近い時ほど雑な言い方をする。
そこがずるい。
---
会館を出た帰り道、商店街の途中で良子とひなに会った。
「あ、お兄ちゃんいた」
と良子。
「いたよ」
「ほんと会館まで行ってたんだ」
とひな。
「行ってた」
良子は会館の方を見て、すぐに状況を理解した顔をした。
「また梅子さんルート?」
「まただよ」
「担当だねえ」
「お前まで言うな」
ひなはそこで、かなり当然みたいに言った。
「でも、おじさんの担当範囲ってそのへん全部だと思う」
「だから勝手に広げるなって」
「広げてないよ」
とひな。
「最初からそう」
その言い方は、ある意味いちばん強かった。
最初からそう。
ひなの中では、もうそういう見え方をしているのだろう。
「家と」
とひな。
「健太と」
と良子。
「駅前と」
とひな。
「商店街と」
と良子。
二人で読み上げるな。
担当表みたいにするな。
「……ほんと、嫌な連携だなお前ら」
そう言いながらも、少しだけ笑ってしまった。
ここまでくると、完全に否定するのも難しい。
実際、そのくらいにはもう広がってしまっている。
---
夜。
自室。
椅子に座り、エナジードリンクを開ける。
炭酸の音。
静かな部屋。
やっぱり最後はここへ戻る。
「俺の担当範囲を、勝手に確定しないでください……か」
改めて口に出す。
会館。
商店街。
家。
子どもたち。
駅前。
凛。
父。
富子。
良子。
ひな。
健太。
全部を一つの地図にすると、思っていたよりずっと広い。
そして、そのほとんどで“太郎がいると回る”みたいな認識ができてしまっている。
「……勝手にだよな、ほんとに」
そう呟いて、少しだけ笑う。
勝手に決まった。
勝手に広がった。
でも、完全に嫌なら、もっと前で切っていたはずだ。
会館にも行かない。
掲示板も触らない。
商店街で会釈も返さない。
そういう選択肢だって、たぶんあった。
それをしなかったのは、結局のところ自分なのだろう。
背もたれに体を預ける。
世界の担当ではない。
そんな大それたものじゃない。
でも、この生活圏の中の、かなり広い“そのへん”については、もう俺の担当と言ってしまっていいのかもしれない。
まだ完全には認めたくない。
でも、もうほとんどそうだ。
その中途半端さが、今の俺にはちょうどよかった。
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