父は、何も説明しないで俺を呼ぶ
人との距離が縮まる時、最初に変わるのはたぶん沈黙の扱いだ。
よく喋るようになるとか、相談が増えるとか、そういうわかりやすい変化ももちろんある。
だが、それより先に起きる地味な変化がある。
説明が減る。
前置きが減る。
いちいち全部言わなくても、途中まで通じるようになる。
そして、その沈黙が気まずさではなく、ただの省略になる。
これは少し怖い。
なにしろ、省略というのは前提がないと成立しないからだ。
つまり相手は、こちらが“もうそこまでわかる側”にいると思っている。
父との関係も、たぶん最近そこへ入っていた。
劇的な和解なんてものはない。
酒を飲みながら腹を割って話すようなイベントもない。
あるのはもっと地味なものだ。
短い一言。
玄関先。
道具箱。
金物屋。
そういう生活の細い線の上で、気づけば会話の省略が増えている。
その日、俺はその完成形みたいなものを見た。
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朝。
俺が一階へ下りると、父はすでに玄関のたたきにしゃがんでいた。
靴箱の横。
工具箱が開いている。
ドライバー。
小さいネジ。
蝶番みたいな金具。
そして、玄関収納の扉が半開きになっていた。
なるほど。
何かがズレたのだろう。
俺はまだ何も聞いていない。
聞いていないのに、その絵面を見た瞬間、頭の中でだいたいの状況が組み立てられる。
最近はこういうことが増えた。
増えたのが、少し嫌で、少しだけ自然でもある。
父は顔を上げずに言った。
「太郎」
「何」
「それ」
短い。
あまりにも短い。
だが、何を指しているのかはわかった。
工具箱の横に、少し長めのプラスドライバーが置いてある。
俺はそれを拾って父へ渡した。
「これか」
「ああ」
受け取って、父がネジへ当てる。
回す。
止まる。
「なめてるな」
「なめてるな」
会話が雑すぎる。
しかし通じている。
「長い方」
と父。
「はいはい」
今度は柄の細いドライバーを取る。
渡す。
父が少し力を入れて回す。
きゅっと音がして、ネジが動いた。
「よし」
「取れたか」
「取れた」
そこでようやく、父は少しだけ立ち上がった。
俺は玄関収納の扉を手で支える。
「押さえとけ」
「最初からそう言え」
「押さえてるだろ」
それはそうだ。
もう押さえている。
最近ほんとうにこういうのが多い。
富子が台所から顔を出した。
「あら、始まってるのね」
「始まってるよ」
「お父さん、お兄ちゃん呼んだの?」
「呼んだ」
と父。
「呼ばれた」
と俺。
良子まで来て、玄関を覗き込んだ。
「うわ、会話短いなあ」
「うるさい」
「でもすごいね。
もうそれで通じるんだ」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
たしかにそうかもしれない。
前なら、父の“それ”では何もわからなかった。
今は、少なくとも玄関収納の修理の流れの中では通じてしまう。
ひなも後ろから覗いていた。
「おじさん、押さえる係?」
「今はな」
「向いてる」
「何でだよ」
「ちゃんと押さえてるから」
評価が雑だな。
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蝶番を外してみると、木のネジ穴が少しゆるんでいた。
「これ、穴広がってる」
と俺。
「そうか」
と父。
「その“そうか”で済ませるな。
詰めないと無理だぞ」
「何詰める」
そこももう少し具体的に聞け。
いや、父にそこまで求めるのも違うのかもしれない。
「爪楊枝とか木片。
奥埋めて、もう一回締める」
「あるか」
「あるだろ」
「取ってくる」
と父。
父が立って台所の方へ行く。
そのすれ違いざま、富子が俺に言った。
「お父さん、最近ほんと普通に太郎呼ぶわよね」
「普通に呼ばれるよ」
「前はもう少し、一人でやろうとしてた気がする」
それはそうかもしれない。
父はもともと、家の細かい作業を自分で済ませるタイプだった。
頼めば手伝えと言うこともあったが、“最初から太郎を組み込む”感じは今ほど強くなかった気がする。
良子が笑う。
「最近のお父さん、ほんと説明しないよね」
「しないな」
「でも、お兄ちゃんも通じてる」
「通じたくて通じてるわけじゃない」
「でも通じてる」
そこが一番困るんだよ。
父が爪楊枝を持って戻ってくる。
無言で渡す。
俺が折って穴へ詰める。
父が蝶番を合わせる。
俺が扉を少し上へ支える。
父がネジを締める。
作業の最中、会話はほとんどない。
でも、必要な手順は全部流れていく。
誰が今どこを持って、何を次にやるか。
それがわりと自然に噛み合っている。
「……何か、普通にやってるな」
と俺は小さく言った。
「何が」
と父。
「いや」
うまく言葉にならない。
親子で玄関収納の蝶番を直している。
それだけのことだ。
でも、前ならもう少しぎこちなかった気がする。
少なくとも、ここまで説明なしには動けなかった。
「締めるぞ」
と父。
「はいはい」
最後のネジが入り、扉をゆっくり閉める。
開ける。
閉める。
ちゃんと動く。
「直ったな」
と父。
「直ったな」
そこで二人とも手を離した。
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作業が終わると、父は工具箱を閉じた。
俺は玄関の床に落ちた木屑を拾う。
それも何となく自然だった。
父が立ち上がって言う。
「ついでに駅前行くか」
「何でだよ」
「金具、予備ほしい」
「今直っただろ」
「またなるかもしれん」
たしかにそうだ。
玄関収納はよく使う。
予備を買っておいてもおかしくはない。
だが、問題はそこではない。
「何で俺も入ってるんだよ」
俺が言うと、父は少しだけ首をかしげた。
「いるだろ」
「その“いるだろ”が雑なんだよ」
「さっきいた」
「今もいるけど」
「じゃあいいだろ」
その理屈で全部押し切るの、本当に父娘そっくりだなこの家。
良子が横で吹き出した。
「お父さん、それかなり強いよ」
「何がだ」
と父。
「“今いるからそのまま一緒に行く”理論」
「だめか」
と父。
その問い方が少しだけ素だったので、俺は返事に詰まった。
だめか。
そう聞かれると、そこまで強く拒否しづらい。
「……だめってほどじゃないけど」
「じゃあ行くぞ」
決定が早い。
そして最近ほんとうに、この人は俺の返事の隙間を拾うのがうまい。
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玄関を出て、父と並んで歩く。
住宅街。
少し曇った空。
遠くの犬の声。
商店街へ向かう道。
「さっきのさ」
と俺が言う。
「何だ」
と父。
「“それ”とか“長い方”とか、あれで通じるの、だいぶどうかと思うぞ」
父は少しだけ黙ってから、短く言った。
「通じただろ」
「通じたけど」
「ならいい」
それが父なのだ。
結果が出ればいい。
その途中の会話密度にはあまりこだわらない。
でも、今日の俺は少しだけそこへ踏み込んでみたくなった。
「前はあそこまでじゃなかった気がする」
父がこっちを見る。
「何が」
「通じ方」
数秒の沈黙。
その沈黙も、今はただの沈黙だ。
昔なら、もっと何かが詰まっていた気がする。
父は前を向いたまま言った。
「前は、お前がそこにいなかったからな」
その一言が、歩きながら妙にまっすぐ入ってきた。
「……いたよ」
「家にはな」
短い。
でも、それで十分だった。
家にはいた。
でも、たぶん“そこ”にはいなかった。
玄関の修理の流れの中にも、生活の細かい作業の中にも、駅前の金物屋の予備購入の中にも。
そういう位置に、以前の俺はまだ入っていなかったのだろう。
「最近はいる」
と父。
「だから呼ぶ」
それだけ。
ほんとうにそれだけ。
でも、そこに妙に無駄がなくて、妙に本当っぽかった。
「……説明なしかよ」
「必要か」
「もう少しあってもいい」
「そうか」
父はそう言って、少しだけ笑った気がした。
ほんの少しだけ。
でも、たぶん見間違いではなかった。
---
金物屋では、予備の金具とネジを見た。
棚の前で父が一つ持ち上げる。
「これか」
「穴の位置違う」
「こっちか」
「たぶん」
「たぶんか」
「でも近い」
「じゃあこれだな」
また会話が短い。
だが、ちゃんと回る。
店員にも「親子で来てるんですね」と言われる。
俺は軽く頭を下げ、父は「ああ」とだけ答える。
その短さも含めて、もうかなり自然だ。
帰り道、商店街の途中で父が不意に言った。
「太郎」
「何」
「さっきは助かった」
その言い方は、あまりにも普通だった。
だからこそ少しだけ止まる。
「……玄関か」
「ああ」
「別に」
「それで通じるからな」
その最後の一言が、今日いちばん深く残った。
それで通じるから。
説明が減る。
前置きが減る。
そして短い言葉だけが残る。
それは、きっと信頼の形の一つなのだろう。
不器用で、短くて、かなり父らしいやつだ。
---
家へ戻ると、富子が玄関の扉を開け閉めして確認していた。
「あら、直ってる」
「直した」
と父。
「予備も買った」
と俺。
「ほんと、二人いると早いわねえ」
その評価をそのまま置くな。
かなり効く。
良子が後ろから顔を出した。
「おかえり。
どうだった?」
「短い会話で全部進んだ」
と俺。
「何それ」
と良子。
「お父さんが“それ”って言って、お兄ちゃんが拾うやつでしょ」
と富子。
「そうそう」
と良子が笑う。
「最近ほんとにそうだよね」
家の中から見てもそうなのか。
それが少しだけ面白くて、少しだけ落ち着かない。
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夜。
自室。
椅子に座る。
ドアを閉める。
机の上のエナジードリンクを開ける。
「父はもう、何も説明しないで俺を呼ぶ、か……」
口に出してみる。
たぶんそれが、今の父との完成形なのだろう。
長く話すわけではない。
感動的な言葉もない。
でも、一言で呼ばれて、一言で通じて、一緒に動いて、短く終わる。
昔の俺なら、それを雑だとしか思わなかったかもしれない。
今はもう、そこに少し別のものが見える。
「説明が減るって、距離の縮み方としては地味すぎるんだよな」
そう呟いて、少しだけ笑う。
でも、この作品にはそのくらいが合っている。
親子が急に何かをわかり合いすぎるより、玄関の蝶番の前で“それ”と“長い方”だけで通じる方が、ずっとらしい。
「……悪くないんだよな、あれ」
それが結局、いちばん正確な感想だった。
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