風間凛、この日常の中でお前だけ少し違う
特別、という言葉は扱いが難しい。
重いからだ。
その一語だけで、急に世界がきらきらしたり、逆に湿っぽくなったりする。
恋愛ものの主人公たちは、たぶんそのへんを雑に突破しがちだ。
「お前は特別だ」
とか何とか、勢いで言ってしまう。
言われた側も顔を赤くして、ついでに読者も盛り上がる。
そういう流れはたしかに強い。
だが現実寄りの日常でそれをやると、たいてい空気が変になる。
まして俺みたいな人間がそんな単語を軽々しく口にしたら、かなりの確率で自爆する。
だから、そういうことは普通、もっと手前で止まる。
少し違う。
なんか違う。
見てる角度が違う。
そういう曖昧なまま、でも自分の中でだけ少しずつ形になっていく。
風間凛に対して感じているものも、たぶんずっとそうだった。
店員。
にぼし姫。
生活圏でたまに会う人。
チャットで妙に刺してくる相手。
それらが少しずつ重なって、気づけばもう他の誰とも同じ場所には置けなくなっている。
そのことを、その日、俺はかなり静かな形ではっきり思い知ることになった。
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夕方。
俺は駅前の本屋から出てきたところだった。
袋の中には、ひなのノート、良子に頼まれた雑誌、それから自分用のラノベが一冊。
生活感とオタク感の配分が今日も妙だ。
ついでに富子から料理酒も頼まれていたので、このあとスーパーへ寄る必要がある。
最近の外出は本当に、“誰かの用事”と“自分の用事”が混ざっている。
前ならそれをもっと嫌がっていた気がする。
今も好きではないが、嫌がり方の質が変わったというか、もう少し生活に馴染んだ面倒くささになっている気がした。
駅前通りは、人が多かった。
夕方前の、中途半端に混む時間だ。
学生。
買い物帰りの人。
自転車。
信号待ち。
店から漏れる音楽。
その流れの中に、見慣れた後ろ姿があった。
凛だった。
制服ではない。
薄いベージュのカーディガンに、暗い色のスカート。
片手に小さい紙袋。
もう片方の手でスマホを見ている。
以前なら、ここで少し立ち止まっていたかもしれない。
声をかけるか迷って、変に意識して、結果として妙なタイミングになる。
でも今は、前ほどその手前で固まらない。
「……よう」
自然、とまでは言い切れない。
だが、かなり滑らかに声は出た。
凛が顔を上げる。
一瞬だけ目が丸くなる。
でもすぐに、いつもの温度へ戻る。
「こんにちは」
「本屋か」
「見ればわかると思います」
その返しに、少しだけ笑った。
「それ便利だな」
「便利です」
そこは迷わないんだな。
凛はスマホをバッグへしまって、俺の袋を見た。
「今日はノートと本ですね」
「雑誌も」
「混ざってますね」
「最近な」
そう返しながら、少しだけ思う。
凛はこういう“袋の中身から生活を読む”のが本当にうまい。
いや、うまいというか、もう普通に見ている。
「そっちは」
俺が紙袋へ視線を向けると、凛は少し持ち上げた。
「パンです」
「見ればわかると思います、とは言わないんだな」
「袋だけだと微妙なので」
その切り返しが妙に可笑しい。
並んで歩き出す。
スーパーの方向までは同じだ。
そのことを、どちらもあえて言わない。
でも、足が自然に揃う。
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駅前のざわつきの中、会話は小さい。
「今日は何冊ですか」
と凛。
「一冊」
「珍しいですね」
「ひなのノートと良子の雑誌があるからな」
「かなり生活です」
「お前、その評価好きだな」
「事実なので」
またその言い方だ。
にぼし姫もそうだが、凛は“事実なので”とか“見えてるので”で妙なところを押し切る。
しかも、その言い方がだんだんこちらの中で通じるようになってしまっているのが厄介だった。
少し歩いたところで、凛が何でもない顔で聞いた。
「最近、前より普通ですね」
「何が」
「こういうの」
こういうの。
つまり、店の外で会って、少し歩いて、短く話すこと。
たしかにそうだ。
前ほど変な緊張はない。
まったくないわけではないが、少なくとも妙にHPを削られる感じはかなり減っている。
「まあな」
そう答える。
それから少しだけ考えて、続けた。
「前はもっと、いちいち意味がありそうに見えてた」
凛が少しだけこちらを見る。
「今は?」
「今は、普通にお前がいる感じ」
言ってから、少しだけ自分で引っかかった。
今の言い方は、わりと本音に近かった。
凛は数秒だけ黙ってから言う。
「それならよかったです」
「何で」
「その方が話しやすいので」
そこもかなり本音なのだろう。
大げさではない。
でも、ちゃんとそう思っている温度だ。
信号待ちで止まる。
横断歩道の向こうで、子どもがアイスを食べている。
風が少しだけ強くなって、凛の前髪が揺れた。
「お前さ」
「何ですか」
「見てる角度、ちょっと違うよな」
自分でも驚くくらい、するりと出た。
もっとぼかすつもりだった。
でも、今はそれを少しだけ言葉にしてみたくなった。
凛はすぐには返さなかった。
信号が青になって、人が歩き出す。
俺たちもそれに混ざって、また進く。
「どう違いますか」
と凛。
「家族とか、近所とか、子どもたちとか……あいつらは生活の中で俺を見るだろ」
「はい」
「でもお前は、もう少し変なとこ見る」
「変、ですか」
「返事の雑さとか。
歩き方とか。
疲れてるとか。
そういう、もう一段内側」
口にしてしまうと、かなり具体的だ。
でも実際、そうだった。
富子は用事の流れで俺を見る。
良子は変化を観察して軽口にする。
ひなは迷った時に見る。
健太は困った時に呼ぶ。
父は必要な時に前提へ入れる。
でも凛だけは、そこへ“今日ちょっと雑ですね”とか、“少し疲れてます?”とか、そういう別の角度を持ち込む。
凛は少しだけ目を伏せてから言った。
「見てるからだと思います」
「そこはもう迷わないんだな」
「迷う必要ありますか」
「普通はもう少し隠すだろ」
「今さらですし」
その返しに、また少しだけ笑ってしまう。
「今さら、ね」
「今さらです」
凛はそう言い切ってから、ほんの少しだけ声をやわらげた。
「そっちの生活、前よりちゃんと見えるようになったので」
その言い方は、思っていたより静かで、思っていたより深かった。
前よりちゃんと見えるようになった。
それはたぶん、コンビニの店員としての観測ではない。
にぼし姫としてのやり取りも含めた、生活全体の見え方なのだろう。
「……それ、かなり重いぞ」
と俺は言った。
「そうですか?」
「お前、時々そういうのを何でもない顔で言うよな」
「何でもない顔はしてます」
「そこじゃないんだよ」
スーパーの前まで来る。
自動ドアの手前。
人の出入り。
買い物かご。
どこまでも普通の風景だ。
なのに今の会話だけ、少しだけ温度が違った。
「この日常の中でさ」
と俺は言った。
凛がこちらを見る。
ここで言い切るのは、たぶん少しだけ怖かった。
でも、今はたぶん、このくらいまでは言っていい気がした。
「お前だけ、少し違うんだよな」
言ってしまったあと、妙に静かになった気がした。
もちろん周囲は普通に騒がしい。
車も通る。
買い物客も出入りする。
でも、自分の中の空気だけ一段変わる。
凛はすぐに返さなかった。
少しだけ目を細めて、それから小さく言った。
「そうですか」
否定はしない。
驚きすぎもしない。
ただ、その言葉をちゃんと受け取った声だった。
「そっちは違わないんですか」
そこで聞き返してくるのが、かなり凛らしい。
「知らん」
「そこは逃げるんですね」
「今のはそっちのターンだろ」
「何ですかそれ」
少しだけ笑う。
少しだけ、いつもの軽口に戻る。
でも、もう言ってしまった言葉は消えない。
「……でも」
と凛が言う。
「何」
「悪くないです」
その短い返事が、かなりちょうどよかった。
うれしい、とか。
ありがとう、とか。
そういう整った言葉じゃない。
でも、ちゃんと前向きな温度がある。
この作品の二人には、そのくらいがいちばん似合う。
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スーパーへ入る直前、凛が立ち止まった。
「私はこっちなので」
「パン屋?」
「そうです。
あと、もう一件」
「そうか」
短い別れだ。
それでいい。
「じゃあまた」
凛が言う。
その“また”は、もうかなり自然だ。
「……また」
俺も返す。
凛は軽く手を上げて、駅前通りの方へ歩いていった。
俺はしばらくその背中を見て、それからスーパーの自動ドアをくぐった。
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料理酒をかごへ入れながら、少しだけぼんやりする。
この日常の中で、お前だけ少し違う。
我ながら、かなり踏み込んだ気がする。
でも、間違ってはいない。
家族とも違う。
近所とも違う。
子どもたちとも違う。
凛は、生活圏の中にいるのに、その中で一人だけ別の角度を持っている。
しかもその違いは、派手ではない。
特別扱いを要求するようなものでもない。
ただ、少し深く見ている。
少し違うところに触る。
その積み重ねで、気づけばもう同じ場所へは置けなくなっている。
「…こういうとこなんだろうな」
ぽつりとそう呟く。
いきなり大告白で決まるわけではない。
でも、日常の中で少しずつ位置が固まって、最後にようやく“違う”と言える。
この作品には、そのくらいがたぶんちょうどいい。
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家へ戻ると、富子が料理酒を受け取った。
「ありがと」
「うん」
良子は雑誌を見て「これこれ」と言い、ひなはノートを抱えて満足そうだった。
父は和室から顔を出して「切手は?」とか別件を言いそうだったが、今日はなかった。
それだけで少し助かる。
「お兄ちゃん、何かあった?」
と良子。
「何で」
「顔。
ちょっとだけ変」
「失礼だな」
「いや、悪い意味じゃなくて」
そこへ、ひなが当然みたいに言う。
「おじさん、ちょっと考えてる顔」
お前はそういうところだけ本当に鋭い。
「別に」
「出た」
と良子。
「その“別に”弱い」
今日は深掘りされたくない気分だったので、俺はそれ以上何も言わずに自室へ戻った。
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夜。
ドアを閉める。
椅子へ座る。
机の前。
エナジードリンクを開ける。
「この日常の中で、お前だけ少し違う、か……」
改めて口に出す。
かなり恥ずかしい。
でも、かなり本音だ。
違う。
ほんとうに少しだけ。
生活の中にいる。
でも生活の人たちとは違う。
近い。
でも家族ではない。
いつもいる。
でも空気に埋もれない。
見ている。
しかも、妙なところまで。
「……ずっと、同じ場所じゃなかったんだよな」
ぽつりとそう呟く。
コンビニの店員。
にぼし姫。
生活圏で何度も会う人。
それらが全部、一つの線になったあとも、この人だけは少し違うままだった。
たぶんその“違う”が、恋愛とか好意とか、そういう整った言葉へ完全に変わる手前の、いちばんこの作品らしい答えなのだろう。
「悪くないです、か」
凛の返事を思い出す。
短くて、でもちゃんと受け取っていた。
ああいう返し方をされると、こっちも少しだけ救われる。
大げさに広げられない。
でも、なかったことにもされない。
「……たぶん、それで十分なんだよな」
今のところは、ほんとうにそれで十分だった。
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