健太、お前の中で俺の職業はどうなっているんだ
子どもの認識は、時々とんでもなく雑で、時々びっくりするほど本質的だ。
この二つは矛盾しない。
むしろ子どもというものは、その両方を同時にやる。
語彙は足りない。
説明も雑。
でも、だからこそ妙な遠慮がなくて、こちらがうまくぼかしていた部分へ平然と手を突っ込んでくる。
たとえば、大人ならもう少し回りくどく言うことがある。
助かっているとか。
頼りにしているとか。
いてくれると安心とか。
そういう、表面の整った言葉で包む。
だが子どもは違う。
もっと雑に言う。
もっと短く言う。
しかも本人の中でそれが百パーセント自然なので、こちらが妙に傷を負う。
その日、健太はまさにその手のやつを、ほぼ満点に近い形でやってのけた。
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午後。
俺は自室で、かなり正しい休日を過ごしていた。
ベッド。
スマホ。
机の上には開きかけのラノベ。
部屋の空気は少しぬるい。
だがそれもまた夏の終わりらしくて悪くない。
今日は静かだな、とその時は思っていた。
この作品においてその感想は、だいたい死亡フラグである。
ドン。
ドアが勢いよく開いた。
「おじさん!!」
知ってた。
いや、知っていたわけではないが、この音量と開き方はだいたい健太だ。
「ノックしろ」
「した!」
「しながら開けるな」
「緊急!!」
その“緊急”は体感で三割くらいしか信用していない。
だが今日は声がいつもより一段高かった。
つまり、本人の中ではかなり大きい出来事なのだろう。
「何だよ」
「虫!!」
広い。
「どこに」
「オレの家!!」
さらに広い。
俺はベッドの上で片目を開けたまま言う。
「母さんいるだろ」
「いない!」
「父さんは」
「まだ!」
「何の虫だよ」
「でかいやつ!」
最悪の説明だな。
そこへ、廊下からひなの声がした。
「けんた、ちゃんと言わないとわかんない」
「ちゃんと言ってる!」
「言ってないよ」
さらに少し遅れて、良子の声も近づいてくる。
「何の騒ぎ?」
「虫」
と俺。
「あー」
と良子。
その“あー”で済ませるな。
「でかいやつ!」
と健太が重ねる。
「黒くて、こうで、羽あって、速いやつ!」
「全部嫌だな」
と俺。
「ゴキじゃないの?」
と良子。
「ちがう! たぶんカナブンみたいな!」
と健太。
だいぶ違うじゃねえか。
いや、本人の恐怖としては同じカテゴリなのかもしれないが。
ひなが部屋の入口から顔を出した。
「けんたの家のリビングに入ったんだって」
「最初からそう言え」
「言った!」
「言ってない」
健太は両手をぶんぶん振りながら続ける。
「で、出られなくて! でもオレのカードゲームあって! でも入れなくて!」
なるほど。
ようやく見えた。
虫が嫌なのではなく、自分の物が部屋の中にあるのに取れないのが問題なのだ。
いや、虫も嫌なのだろうが。
「良子に頼め」
と俺。
「えー」
と健太。
「何でだよ」
「おじさんの方が早いし!」
出た。
最近ほんとうにこの返し多いな。
「だから何で最初が俺なんだよ」
俺がそう言うと、健太はそこで少しだけ不思議そうな顔をした。
「だって、おじさんの職業それじゃん」
俺は一瞬、本気で黙った。
「……何?」
「え?」
「今、何て言った?」
「だから、おじさんの職業」
こいつは今、ものすごく自然に何を言った?
良子がもう笑いをこらえきれていない。
ひなは少しだけ目を丸くしている。
俺だけが会話に遅れていた。
「俺の職業、何なんだよ」
ゆっくりそう聞くと、健太はきょとんとしてから、当たり前みたいに答えた。
「生活圏レスキュー」
意味がわからない。
いや、意味はわかる。
わかるのがいちばん嫌だ。
「何だその肩書き」
「だってそうじゃん!」
健太は全力で本気だった。
「何かあったら来るし!」
「すぐ見るし!」
「だいたい何とかなるし!」
やめろ。
語尾が全部雑すぎる。
良子が完全に吹き出した。
「生活圏レスキュー、やばい。
めちゃくちゃ健太くんっぽい」
「笑うな」
と俺。
「でもちょっとわかる」
とひな。
お前まで乗るな。
「わからなくていい」
「でも、おじさんってそういう感じ」
とひな。
待て。
何で子ども二人の中で、そんな肩書きがすんなり通るんだ。
「違うからな」
と俺。
「違うの?」
と健太。
「違うよ!」
「でも虫の時来てくれるじゃん!」
「来たことないだろ!」
「今日来る!」
「今決めるな!」
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結局、俺は健太の家まで連行された。
いや、連行と言うと語弊があるかもしれないが、本人の中ではたぶん合っている。
こっちは終始“何で俺なんだ”と言っていたのに、向こうは最初から連れていける前提だった。
健太の家の玄関前。
「どこ」
「リビング!」
「本当にカナブンか?」
「たぶん!」
その“たぶん”が一番怖い。
中へ入る。
たしかにリビングのカーテンのあたりで、何かがぶつぶつと窓へ当たっていた。
「あ、ほんとにカナブンだ」
と良子。
「カナブンだな」
と俺。
「でかい!」
と健太。
いや、普通だよ。
お前の恐怖倍率が高いだけだ。
「で、カードゲームは」
「机!」
「じゃあお前が行け」
「むり!」
「何で!」
「飛ぶから!」
子どもの世界において、“飛ぶ虫”の格はかなり高いらしい。
ひなが静かに言う。
「けんた、虫こわい時すごくこわいから」
知ってる。
今見ればわかる。
俺はリビングの隅にあった丸めたチラシを一本取り、カーテンに止まったカナブンを軽く窓の方へ追った。
数秒。
窓を開ける。
ぶーん、とそのまま外へ出る。
「ほら」
終わりである。
「あっ」
健太が目を見開く。
「終わった!」
「終わったよ」
「すげえ!」
「すごくはない」
カードゲームの箱を取って渡す。
「はい」
「おじさんすげえ!」
「だから普通だって」
「いやすごい! 生活圏レスキューだ!」
またそれ言うのかよ。
良子は壁にもたれて肩を震わせていた。
ひなは少しだけ笑っている。
「おじさん、ぴったりかも」
とひな。
「やめろって言ってるだろ」
「でも、虫も、ノートも、帽子も、買い物も」
と健太。
「全部やるじゃん!」
やるじゃん、で一括りにするな。
カテゴリが広すぎる。
「それはたまたまだ」
「たまたまじゃない!」
と健太。
そこで、こいつは珍しくちょっとだけ言葉を探した。
目線を上に向けて、何かまとめようとしている感じ。
「なんかさ」
「何だよ」
「おじさんって、家とか、公園とか、お店とか、そのへん全部の、困った時の人じゃん」
そのまとめ方が、思っていたよりずっとまともだった。
雑だが、まともだ。
つまりやっぱり、本音だ。
「……それ職業じゃないだろ」
「じゃあ役目!」
「もっと嫌だな」
ひなはそこで、かなり静かに言った。
「でも、けんたの言ってること、ちょっとわかる」
お前までそういう方向で整理しに来るな。
「わたしも、何かあったら最初におじさん見るし」
「だってそうだもん」
良子がようやく笑いを少し収めて言った。
「お兄ちゃん、子どもたちの中でたぶんもう、“家にいる人”じゃなくて“何とかする人”なんだよ」
その整理もかなり正確で困る。
昔の俺なら、そこに強い拒否感があったかもしれない。
今ももちろん、全面的に受け入れたいわけではない。
でも、目の前で健太がカードゲームを抱えて本気で安心した顔をしていると、完全には流し切れない。
「……面倒なんだよな、そういうの」
思わずそう言う。
健太は即答した。
「でも、そういう職業でしょ」
「職業じゃない!」
そこだけは全力で否定した。
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結局そのあと、健太はカードゲームを持って公園へ行った。
出ていく直前まで、
「じゃあ行ってくる、生活圏レスキュー!」
と叫んでいたので、ほんとうにやめてほしい。
「二度と呼ぶなそれ」
と俺が言うと、
「でも合ってる!」
と返してきた。
元気だけは一流である。
静かになった健太の家のリビングで、俺は少しだけ天井を見た。
「……最悪だ」
良子が笑う。
「何が」
「変な肩書きがついた」
「でもすごく健太くんっぽいよ」
「そういう問題じゃない」
ひなは窓の外を見ながら言った。
「でも、おじさんにぴったりのやつ、子どもなりに言うとそうなるんだと思う」
その解説が妙に鋭い。
「ぴったりじゃなくていいんだよ」
「でも近いよ」
とひな。
「嫌な近さだな」
良子は少しだけ笑いを引かせて、やわらかい声で言った。
「でもさ、お兄ちゃん」
「何」
「健太くんって、ほんとに困った時の言葉、雑だけど嘘ないじゃん」
それは、わりとその通りだった。
大人の“助かる”には、社交辞令が混ざる時もある。
“ありがと”にも、流れで言うものはある。
でも健太の“生活圏レスキュー”には、たぶん一ミリも飾りがない。
本人の中で、本当にそういう存在だからそのまま言っている。
「……だから余計に困るんだよ」
それが本音だった。
---
家へ戻ると、富子がまず聞いた。
「何だったの?」
「虫」
「虫?」
「カナブン」
とひな。
「あらまあ」
と富子。
父が和室から顔を出す。
「それで太郎か」
「そう」
と良子。
「健太くんの中で、お兄ちゃんの職業が決まったらしいよ」
「おい」
お前それ共有するのかよ。
「何だ」
と父。
良子は笑いをこらえきれない顔で言った。
「生活圏レスキュー」
数秒の間があって、父が少しだけ口元を緩めた。
「……まあ、わからんでもないな」
「父さんまで乗るな!」
富子まで笑っている。
「いいじゃない。
ぴったりだわ」
「何でだよ!」
「だってほんと、最近そういう感じだもの」
そこへひなが静かに重ねる。
「おじさん、困った時の人だし」
その言い方も、結局かなり近い。
「もっと普通の言い方しろ」
「何て?」
とひな。
「知らん」
そこはほんとに、まだ知らなかった。
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夜。
自室。
椅子に座って、エナジードリンクを開ける。
炭酸の音。
机。
静かな部屋。
「生活圏レスキュー、ね……」
口に出すと、本当に最悪の語感だ。
ダサい。
子どもっぽい。
雑。
でも、その三つのせいで逆に本質へ近づいている感じがある。
家とか。
公園とか。
お店とか。
そのへん全部の困った時の人。
健太はそう言った。
雑に。
でも本気で。
「……職業じゃないんだよな」
そう呟いてから、少しだけ考える。
職業ではない。
もちろんそうだ。
給料も出ない。
履歴書にも書けない。
名刺もない。
社会的には、かなりよくわからない。
でも、生活の中には、たしかにそういう“役目みたいなもの”があるのかもしれない。
誰が決めたわけでもない。
でも、気づけばそこへいる人。
困った時に最初に浮かぶ人。
名前は変でも、中身はたぶん本物だ。
「……面倒なんだよなあ」
そう言って、少しだけ笑った。
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