ひなは、迷ったらおじさんを頼る
人が誰かを見る時、その視線にはだいたい理由がある。
呼びかける時。
確認する時。
怒られるかどうかを探る時。
助けてほしい時。
それから、**答えがほしい時**。
最後のやつが、いちばん強い。
言葉にする前に目が向く。
どうしよう、と声に出す前に、先にそっちを見る。
つまりその相手は、もう“相談する人”ではなく、半分“判断の一部”になっている。
それはかなり重い。
いや、本当に。
なにしろ、こっちはただそこにいただけなのに、向こうの中ではすでに“見れば決まる人”として配置されているわけだから。
そんな役割、聞いていない。
だが、ひなは最近、わりと平気でそれをやる。
その日も俺は、かなり何でもない場所で、それを食らっていた。
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午後。
良子に付き合わされて、駅前の少し手前にある子ども用品店へ来ていた。
理由は単純だ。
ひなの上履き入れと文具と、ついでに靴下を見たいらしい。
“ついでに”という言葉の中に何品目も入れるの、本当にやめてほしい。
店内は明るかった。
子ども服の棚。
文具のワゴン。
壁沿いに並ぶバッグや水筒。
ところどころに、やたら笑顔の動物キャラがいる。
ああいう空間に長くいると、何となく体力が削られるのは俺だけだろうか。
「お兄ちゃん、これとこれどっちがいいと思う?」
良子が、ひなの上履き入れを二つ持ってくる。
片方は紺でシンプル。
片方は少し水色が入っていて、ワンポイントで星がついている。
「知らん」
「知らんじゃない」
「お前が決めろ」
「でもひなが使うから」
その理屈もわかる。
わかるのが腹立つ。
ひなは少し離れた棚の前に立っていて、今は靴下を見ていた。
白。
紺。
ワンポイントつき。
あいつは物を選ぶ時、意外と時間をかける。
勢いで取らない。
ちゃんと見て、少し考えて、それから決める。
「ひなー」
と良子。
「どっちー?」
ひなが顔を上げる。
そして、すぐには答えなかった。
最初に、俺の方を見た。
ほんの一秒とか、そんなものだったと思う。
でも、十分だった。
「……何だよ」
思わず言う。
「まだ何も言ってない」
とひな。
「目で言ってた」
「言ってないよ」
「言ってた」
良子がそこで吹き出した。
「ほんとだ。
お兄ちゃんの方見た」
「何でだよ」
ひなは少しだけ首をかしげた。
「なんとなく」
出た。
子どもの“なんとなく”。
だが、こういう時のそれは、たいてい本人の中ではかなり自然な本音だ。
「おじさんなら、どっち」
「俺かよ」
「うん」
そこで即答するな。
悩む素振りくらい見せろ。
俺は二つを見比べる。
紺は無難で長く使えそうだ。
水色の星は今っぽいが、ひなの服の感じだと少し甘い気もする。
「……紺」
「やっぱり」
と良子。
「でしょ」
とひな。
「何で最初から決まってるんだよ」
俺が言うと、ひなは平然としていた。
「迷ったら、おじさん見るから」
その言い方は、かなりさらっとしていた。
だが内容はさらっとしていない。
「それはやめろ」
「何で?」
「重いからだよ」
「何が?」
本人に自覚がないのが一番きつい。
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上履き入れが決まり、今度は文具コーナーへ移動する。
ひながノートを一冊取る。
消しゴムを一つ見て、戻す。
シャープペンはまだ早いらしい。
そのあたりの判断が妙にちゃんとしている。
「これでいいかな」
ひなが小さいメモ帳を手に持つ。
表紙に白い猫が描いてある。
いかにも女子小学生が好きそうな感じだ。
「知らん」
「またそれ」
「俺に毎回決めさせるな」
「でも、おじさん見たら決まることある」
そこを何でもない顔で言うなよ。
良子は横で笑っている。
「ひな、最近ほんとそうだよね」
「そう?」
とひな。
「そうだよ。
迷った時、まずお兄ちゃん見てる」
「だって、いるし」
その理屈、本当に強いな。
いるから見る。
見たら少し決まる。
そういう流れが、もうひなの中ではかなり自然なのだろう。
俺は棚の前でため息をついた。
「……別に、俺が決めてるわけじゃないだろ」
「でも、おじさん見たら“こっちかな”ってなる」
とひな。
「どういう仕組みだよ」
「わかんない」
わからないのに使うな。
かなり困る。
その時、少し先のワゴンの前で、小さい女の子が泣きそうな顔をしていた。
母親が横で「こっちにしよ?」と言っているが、本人はまだ納得していないらしい。
ひなはそれをちらっと見て、それから小さく言った。
「ああいう時、おじさんいたら決まりそう」
「何だその理屈」
「だって、ママと違う方から言うから」
その視点は、少しだけ鋭かった。
たしかに、親の意見は親の圧がある。
だが、その横にいる別の大人は、少しだけ違う角度から見られる。
しかも、俺はそこまで強く押しつけない。
その曖昧さが、ひなにとってはちょうどいいのかもしれない。
「……面倒なんだよな、その役目」
思わずそう言うと、ひなは首をかしげた。
「でも、おじさん向いてるよ」
さらっと言うな。
かなり効くからな。
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会計を済ませて店を出る。
午後の光。
少しやわらかい風。
良子は袋の中身を確認しながら歩き、ひなはその横で新しいノートを見ていた。
駅前の方へ少し歩いて、三人で信号待ちをする。
ひなが突然、向かいの道の雑貨屋を見た。
「……あ」
「何」
と良子。
「ヘアゴム」
「何が」
「あっちのやつ、ちょっと見たい」
良子が少し迷う顔をする。
今日はもう上履き入れも文具も買った。
帰ってもいい。
でも、ついでに寄れなくはない。
そういう微妙なラインだ。
「どうしよっか」
と良子。
ひなはすぐに返事をせず、また俺を見る。
言葉より先だった。
ほんのわずか。
でももう完全に、癖みたいなものになっている。
「だから何だよその視線」
「見てないよ」
「見てる」
「……ちょっとだけ」
認めるのかよ。
「おじさん、どうする?」
「見たいなら見れば」
「それでいい?」
「別に駄目って言ってないだろ」
「うん」
ひなが頷く。
その頷きが、妙にすっとしていた。
良子がそこで笑いながら言った。
「ほら。
お兄ちゃんが“見れば”って言ったから、もう決まった」
「何だそれ」
「ひなの中ではそうなんだよ」
ひなは少しだけ考えてから、かなり正確に言った。
「迷った時、おじさんが“大丈夫”っぽい方になる」
その表現が、子どもらしくて、でも妙に本質を突いていた。
大丈夫っぽい方。
たぶんそれだ。
正解とか、不正解とかじゃない。
ひなにとっては、“こっちなら大丈夫そう”へ少し寄るための視線なのだ。
だから、こっちの一言で決まる。
そしてその役割は、思っていたよりずっと生活の中に入り込んでいる。
「……お前、それかなり重いからな」
「何が?」
とひな。
「そこまでわかってないならいいよもう」
説明しようとしても、きっと今はうまく言葉にならない。
---
雑貨屋でヘアゴムを見る。
結局、ひなは紺色の細いやつを一つ選んだ。
良子がレジへ持っていく。
その間、店の入口近くでひながぽつりと言った。
「おじさん」
「何」
「迷ったら見るの、だめ?」
その聞き方は少しだけ反則だった。
何でもない顔。
でもほんの少しだけ確認するみたいな声。
「……駄目じゃない」
それが精いっぱいだった。
「よかった」
ひなはそれだけ言って、ガラス越しに外を見た。
その“よかった”が、今日はやけに静かに残る。
たぶん俺は、“見るな”と言いたいわけではないのだ。
重いとは思う。
かなり思う。
でも、本当に拒絶したいわけでもない。
そこがややこしい。
---
帰り道。
駅前から住宅街へ戻る途中、ひなはヘアゴムの袋を小さく振りながら歩いていた。
「今日、いっぱい決まったね」
と良子。
「うん」
とひな。
「何が一番よかった?」
と良子。
ひなは少し考えてから言った。
「最初の紺」
「上履き入れ?」
と良子。
「うん」
「何で?」
「おじさん見たから」
その答え方がもう、ほとんど呼吸みたいに自然だった。
「……毎回それだな」
俺が言うと、ひなは少しだけ笑った。
「だってほんとだもん」
たぶん本当にそうなのだろう。
向こうにとっては、こちらが思うほど大げさな意味はない。
ただ、迷った時に見る。
見たら少し決まる。
それだけ。
でも、その“それだけ”が、生活の中ではかなり深い。
良子が横から言う。
「お兄ちゃんって、ひなにとって“答えの人”っていうより“決めても大丈夫な人”なんだろうね」
その整理は正確すぎた。
「……嫌な言語化するな」
「でも合ってるでしょ」
合っている。
かなり合っている。
だから嫌なのだ。
---
家へ戻ると、富子が台所から顔を出した。
「どうだった?」
「買えた」
と良子。
「上履き入れ、ノート、ヘアゴム」
「あら、いっぱい」
ひなが袋を見せる。
富子は嬉しそうに頷いて、それから何でもない顔で俺を見た。
「太郎、またちゃんと見てくれたのね」
「“また”って言うな」
「でもそうでしょ」
その“でもそうでしょ”が、家の中でも完全に定着してきた。
最近のこの作品、ほんとうにその言い方が多い。
良子が笑う。
「ひな、迷ったらお兄ちゃん見るしね」
「そうなんだ」
と富子。
「かなりそう」
と良子。
ひなはその会話の中心にいるのに、あまり気にしていない顔だった。
自分にとって自然なことだからだろう。
そしてその自然さが、今日一番重かった。
---
夜。
自室。
椅子に座る。
ドアを閉める。
机の前。
扇風機。
缶の音。
「迷ったらこっちを見る、か……」
口に出してみる。
頼られる。
待たれる。
いないと困る。
それも重い。
でも、“迷ったらこっちを見る”はまた少し違う。
それはもう、安心というより判断の一部だ。
言葉の前に目が向く。
つまり、ひなの中ではかなり深い位置に俺が入っている。
「……知らんうちに、そこまで来てたんだな」
ぽつりとそう呟く。
大げさな事件はなかった。
ただ、何度か付き添って、何度か見て、何度か短く答えて、その積み重ねでこうなったのだろう。
だからこそ、本物っぽい。
生活の中の変化というのは、たぶんこういうものだ。
「面倒なんだよなあ……」
そう呟いて、少しだけ笑う。
面倒だ。
かなり面倒だ。
でも、本気で“見るな”とは言えない。
そこがたぶん、今の俺の答えなのだろう。
ひなが迷ったらこっちを見る。
その役目を引き受けた覚えはない。
ないが、もうかなり自然にそこに立っている。
家族って、たぶんこういう完成の仕方なんだろうなと思った。
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