頼られるのは、少しだけ重い
頼られる、という言葉には妙な誤解がある。
たいていの人は、それをいいことだと思っている。
信頼されている。
必要とされている。
役に立っている。
そういう、明るい意味だけで語られがちだ。
もちろん、それは間違いではない。
誰にも頼られないよりは、たぶんいい。
少なくとも、人間関係の中で完全に透明になっているわけではないということだから。
だが、頼られるというのは、もっと生活的で、もっとじわっとした重さを持っている。
今これを言ったら向こうはどうするだろう、と考えること。
自分がいなかった時の空気を想像してしまうこと。
そして何より、相手が本当にこちらを前提にしていると知ってしまうこと。
その重さは、助かるとか安心するとか、そういうきれいな言葉の裏に普通に入っている。
そしてたいてい、夜になってから効いてくる。
その日、俺は一日かけてその重さを受け取っていた。
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朝から用事が細かく重なっていた。
富子が台所で、卵が足りないと言う。
父が和室の前で、工具箱の中のネジが合わないと言う。
良子からは、ひなのリボンを見てほしいとメッセージが来る。
健太は公園へ行く前に、自転車の空気を見てくれと言いに来る。
全部、小さい。
全部、十秒から五分で済む。
だからこそ断りづらい。
そして、こなせてしまう。
「おじさん、これゆるい」
健太が自転車の前輪を押しながら言う。
「お前、毎回乗る前に確認しろ」
「でもおじさんいるし」
その返しがもう駄目なんだよ。
空気入れを取り出して、数回押す。
タイヤはすぐ張る。
「ほら」
「やっぱ早い!」
「普通だよ」
健太はそれで満足して走っていく。
ひどく簡単だ。
簡単なのに、“やっぱり”が残る。
家へ戻ると、今度は父がネジを持っていた。
「これ見てくれ」
「何で俺が」
「前に似たの見てただろ」
それは見た。
見たが、覚えている前提で渡してくるな。
袋を開ける。
サイズを見る。
頭の形。
たしかに微妙に違う。
「これじゃない。
一本だけ長い」
「そうか」
「同じ箱に入れるなよ」
父は短く頷く。
「わかった」
それで終わる。
だが、その“見ればわかるだろう”という前提の短さが、やっぱり最近は少し変わっている。
昼前にはひなが来た。
良子も一緒だ。
「お兄ちゃん、これ見て」
ひなが髪につけるリボンを二本持っている。
片方は紺。
片方は少し明るい青。
どちらにするかで迷っているらしい。
「知らん」
「おじさんならわかる」
「何がだよ」
「今日の服に合う方」
そこまで役割に入れるな。
だが、ひなの服を見る。
白いブラウス。
紺のスカート。
まあ、紺の方がまとまりはいい。
「こっち」
「やっぱり」
ひなが頷く。
良子まで「だよね」と乗ってくる。
「お前ら、最初から思ってたなら聞くなよ」
「でも確認したいじゃん」
と良子。
「お兄ちゃんの“こっち”で決まる感じあるし」
その言い方もまた、地味に重い。
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午後、今度は梅子さんに捕まった。
「太郎さん、ちょっといい?」
ちょっとで済まないことをもう学んでいる。
「何ですか」
「会館の前の箱、少しだけ動かしたくて」
箱。
見ると、たしかに花壇用のプラスチックケースが二つ重ねてある。
少しずらしたいのだろう。
「誰かいないんですか」
「いるけど、太郎さんの方が早いじゃない」
何でそこで即答なんだ。
「その“早い”って評価、地味に逃げづらいんですよ」
「でも本当だもの」
それで終わるのが一番強い。
箱を持って移動させる。
数十秒。
本当にちょっとだ。
ちょっとなのに、終わったあと梅子さんはやっぱり言う。
「助かったわあ」
その声は明るい。
軽い。
でも、本当に助かっているのだろう。
会館の前を歩いていた別のおばさんも言う。
「太郎さんいると安心ねえ」
またそれだ。
“助かる”の次は“安心”。
便利とか早いとかではなく、生活の滑りをよくする側の言葉が増えていく。
「……重いんですよ、そのへんの言葉」
思わずそう漏らすと、梅子さんは首をかしげた。
「そう?」
「そうです」
「でも、頼ってるってことじゃない」
そこをあっさり言うな。
頼ってる。
その単語は、今の俺に対して思っていたよりまっすぐ刺さった。
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夕方。
コンビニへ寄る。
今日はエナジードリンクだけのつもりだった。
ほんとうに、それだけのつもりだった。
レジには凛がいた。
「いらっしゃいませ」
「……どうも」
缶を置く。
凛がそれを取る。
ピッ。
「今日は一個なんですね」
「今日はな」
「今日は、って言い方ですね」
細かい。
ほんとに細かい。
「今日は細かい用事が多かったんだよ」
何となくそう返すと、凛がレジ画面を見たまま言った。
「そういう顔してます」
「何だよその顔」
「ちょっとだけ、疲れてるけど回ってる顔です」
それはもはや詩か何かか。
いや、妙に正確なのが困る。
「お前、ほんとそこ見るな」
「見えるので」
それから、凛は少しだけ声を落とした。
「最近、頼られすぎじゃないですか」
そこで俺は少しだけ止まった。
レジの前。
コンビニの店内。
背後にはお菓子棚。
かなりいつもの風景のはずなのに、その一言だけ少し空気を変える。
「……何でそう思う」
「最近の返事の仕方です」
「またそこか」
「あと、歩き方と、ため息の数です」
やめろ。
そこまで見るな。
だが、たぶん合っている。
今日は頼られた。
かなり細かく。
家でも、外でも。
ひとつひとつは小さい。
でも、その小ささの連打が今も少し肩に残っている。
「別に、重いってほどじゃない」
何となくそう返す。
だがその時点で、たぶん少し嘘だった。
凛はレシートを差し出しながら言った。
「少しは重い顔してます」
その言い方が、妙にやさしかった。
こっちが認めたくない線を、向こうはわりと静かに認めてくる。
しかも、責めるでも励ますでもなく、ただそう見えると言うだけだ。
「……少しだけな」
そこで初めて、ちゃんと認めた。
凛はそれ以上追わなかった。
ただ短く頷いて、袋を差し出す。
「そのくらいなら、まだ大丈夫ですね」
「何だその判断」
「見た感じです」
ほんとに、この人は最後まで観測で押し通すな。
---
家へ戻った時には、もう外はだいぶ暗くなっていた。
玄関を開ける。
リビングの明かり。
台所の音。
和室からのテレビの音。
いつもの家だ。
でも今日は、そこへ一歩入った時点で少しだけ肩が落ちた。
疲れていたのかもしれない。
いや、疲れていたのだろう。
「おかえり」
富子が言う。
「うん」
「エナドリだけ?」
「今日はそれだけ」
その“今日はそれだけ”の中に、何か含まれていると感じたのか、富子は少しだけ俺の顔を見た。
「……何かあった?」
「別に」
いつもの返事だ。
だが今日はそれを、富子も深追いしなかった。
「ごはん、あとちょっとよ」
「うん」
父が和室から顔を出した。
「切手、ありがとう」
「ああ」
ひながソファの方から言う。
「リボンも」
「はいはい」
健太はいなかった。
たぶんもう帰っている。
その不在が少しだけ静かで助かった。
良子が食卓の椅子に座っていて、俺を見るなり言った。
「お兄ちゃん、今日ちょっと静かだね」
「そうか」
「うん」
それだけ。
それだけなのに、周囲はわりとちゃんと見ているのだとわかる。
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夜。
自室。
ドアを閉める。
机の前に座る。
エナジードリンクを開ける。
コンビニで買ったやつとは別に、ストックが一本ある。
こういう備蓄は大事だ。
「頼られるのは、少しだけ重い、か……」
思わずそう呟く。
大げさな重さではない。
本当に。
誰かの人生を背負うとか、そんな話ではない。
卵。
ネジ。
リボン。
箱。
エナジードリンク。
その程度の生活だ。
でも、その程度の生活の中で、いろんな人がこちらを前提にしている。
見ればわかると思っている。
聞けば決まると思っている。
いれば早いと思っている。
安心すると言う。
助かると言う。
頼っていると言う。
その全部が、本気で軽い顔をしている。
だからこそ重い。
「……少しだけ、なんだよな」
そこがたぶん今の救いだった。
すごく重いわけじゃない。
押しつぶされるほどではない。
でも、少しだけ重い。
ちゃんと夜まで残る程度には。
頼られるのは、うれしいのかもしれない。
少なくとも、完全に嫌ではない。
だが、それと同じだけ、責任でもある。
いなかった時の一拍の詰まりまで想像してしまうからだ。
「面倒なんだよなあ……」
その結論が、やっぱりいちばん俺らしかった。
面倒だ。
とても面倒だ。
でも、その面倒を完全に捨てたいわけでもない。
それがたぶん、今の俺なのだろう。
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