自宅警備員、生活圏の空気になる
空気になる、という言い方には少し抵抗がある。
何しろ空気は、たいてい感謝されない。
あって当然。
なくなるまで意識されない。
そして、なくなった瞬間だけ全員が困る。
そんな立場に人間がなりたいかと言われると、べつにそうでもない。
むしろ避けたい。
できればもっと、こう、適度に不在でも許される立ち位置がいい。
だが生活というものは時々、人を役割としてではなく、空気みたいに配置し始める。
いて当然。
その場にいる前提で話が進む。
いちいち名前を呼ばなくても、何となくそこへ入っている。
その状態になると、本人だけが少し遅れて気づく。
最近の俺は、たぶんかなりその領域に近づいていた。
そのことを、その日、俺は一日かけてじわじわと思い知ることになる。
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朝。
一階へ下りた時点で、もう空気の一部扱いは始まっていた。
富子が台所。
父が和室の前。
テーブルの上にはメモ。
そして、俺が来た瞬間に誰も驚かない。
まあ、自分の家なのだから当然と言えば当然だ。
だが問題はその先だった。
「太郎、あとでこれお願いね」
富子が言う。
振り向きもしない。
味噌汁をよそいながら、完全に流れ作業で言ってくる。
「何」
「電池。
ひなの鉛筆削りのやつ」
「何で俺」
「今日出るでしょ」
その“出るでしょ”が、もはや確認ではなく天気予報みたいな言い方になっている。
父が和室の前から一言足す。
「駅前行くなら切手も」
「だから何で俺前提なんだよ」
「いると思ってるから」
と富子。
「そうだな」
と父。
会話が軽い。
軽すぎる。
この軽さが逆に効く。
そこへ、良子まで来た。
「おはよー。
お兄ちゃん、ひなのノートもう一冊お願い」
「増やすな」
「え、でも今日駅前でしょ?」
「まだ確定してない」
「でもそうなるんでしょ」
何なんだこの家は。
誰一人として、“行ける?”とか“お願いしていい?”の段階を踏まない。
最初から、そこに俺がいる流れで話してくる。
ひなも来た。
バッグを抱えたまま、当然のように言う。
「おじさん、帰りプリンある?」
「知らん」
「でもたぶんある」
お前のその確信は何なんだ。
健太まで来た。
朝から本当にお前は元気だな。
「おじさん!
今日公園来る?」
「行かない」
「でもたぶん来る!」
「何でだよ!」
「だってなんか来そう!」
その理屈はさすがに雑すぎる。
だが、ここまで来るともう、俺はこの家と近所の中で“何となくいる人”として扱われ始めているのかもしれない。
「……空気みたいに言うなよ、ほんと」
思わずそう漏らす。
良子がそこで笑った。
「空気というか、生活圏の標準装備?」
「もっと嫌だなそれ」
「でも近いかも」
とひな。
やめろ。
お前まで納得するな。
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結局、昼前には駅前へ出ていた。
富子の電池。
父の切手。
ひなのノート。
ついでに自分の飲み物。
相変わらず、家族の細かい生活と自分の用事が一つの袋に詰め込まれている。
駅前へ向かう道も、最近は前ほど“行くぞ”感がない。
もちろん気楽というほどではない。
だが、呼吸が乱れるほど重くもない。
「これも空気化の一部なんだろうな……」
小さく呟く。
何度も通る。
何度も同じ店へ寄る。
顔を覚えられる。
そのうち、こちらも“いつもの道”として歩く。
そういうものなのかもしれない。
ドラッグストアで電池を買い、郵便局で切手を買い、文具店でノートを取る。
その流れの途中で、文具店の店員に声をかけられた。
「あ、太郎さん。
今日はノートですね」
見抜かれている。
いや、見抜くほどのことではない。
実際に今、ノートを持っている。
それでも、“今日はノートですね”という言い方には、前提として俺の買い物パターンが少し積み上がっている感じがある。
「まあ」
「最近ほんと、家の買い物担当みたいですね」
「その言い方やめてくれません?」
「でも違います?」
違わないのがつらい。
文具店を出て、商店街へ入る。
今度は八百屋のおじさんに軽く会釈される。
会釈を返す。
それだけ。
でもそれだけで、“生活圏の空気”感が増す。
特に何もしていないのに、そこにいることが自然になっていく。
その感じが少しだけ落ち着かない。
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家へ戻ると、当然のように袋の中身が回収されていく。
「買えた?」
と富子。
「買えた」
「切手は」
と父。
「ある」
「ノート」
とひな。
「ある」
「プリンは?」
と健太。
「ない」
「何で!」
お前の枠は最初からなかっただろ。
良子はノートを受け取りながら笑った。
「お兄ちゃん、今日も普通に駅前回ってきたね」
「普通じゃない」
「でも前よりずっと普通」
その言い方は、たぶんかなり正確だ。
富子が電池をしまいながら言う。
「太郎がいると、ほんと生活が引っかからないのよねえ」
そこまで言うな。
かなり重い。
父も短く言う。
「まあ、そうだな」
そこへ乗るな。
家の両側から生活基盤評価をされると、こちらのHPがじわじわ削れる。
「……お前ら、人を何だと思ってるんだよ」
思わずそう言うと、ひなが首をかしげた。
「おじさん」
「そういう意味じゃない」
健太は元気よく言う。
「何か聞くとだいたい何とかしてくれる人!」
「雑すぎる」
良子は少しだけ真面目な顔をして言った。
「でもさ、それってもう役割っていうより、普通に生活の中にいるってことじゃん」
その言い方が、今日のテーマをほとんど言い切っていた。
役割。
ではなく、生活の中にいる。
機能より先に、存在が前提になっている。
それはたぶん、“空気になる”に近い。
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午後。
少しだけ部屋へ戻ったあと、今度は梅子さんに家の前で捕まった。
「あら、太郎さん。
ちょうどよかったわ」
またそれか。
「何ですか」
「掲示の紙ね、ちょっとだけ見てくれない?」
「またですか」
「またよお」
会話が軽い。
こちらが抵抗しても、まるで風の向きを確認するくらいの自然さで流される。
「会館に持ってくから、端だけ折っておきたくて」
「それ自分でできるでしょ」
「でも太郎さんの方がきれい」
雑に評価するな。
だが、結局受け取ってしまう。
紙の端を揃え、折り目をつけ、ファイルへ戻す。
作業時間は一分もかからない。
「はい」
「やっぱり早いわあ」
そこへ、通りかかった近所のおばさんが言う。
「あら、太郎さん。
今日もいるのね」
その“今日もいるのね”が、かなり空気寄りの表現だった。
特別じゃない。
いるのが普通。
そして、その場にいること自体へ誰も驚いていない。
「……いますよ」
俺がそう返すと、おばさんは笑った。
「最近ほんと、見ない日の方が少ないわねえ」
やめてくれ。
その認識はかなり困る。
梅子さんまで頷く。
「そうなのよ。
いると安心なのよねえ」
安心。
またその単語だ。
しかも家の中だけではなく、近所の外側でもそれが出る。
「……それ、かなり重いんですけど」
俺が言うと、梅子さんは本当に不思議そうだった。
「何で?」
「何でもです」
この人たちは、本当にそのへんの重さに無自覚だ。
だが、その無自覚さごと生活の自然さでもあるのだろう。
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夕方、今度はコンビニへ寄った。
さすがにエナジードリンクが切れたからだ。
入店する。
冷房。
棚。
レジ。
凛。
「いらっしゃいませ」
「……どうも」
商品を置く。
エナジードリンク一本。
ついでにスナック菓子。
凛がそれを見て言う。
「今日は少なめですね」
「何が」
「買うもの」
「今日はもう何回か外出てるからな」
「知ってます」
そこで俺は少しだけ顔を上げた。
「何でだよ」
「見ました」
短い。
それだけ。
だが、それで十分だった。
商店街で見たのか、駅前で見たのか、あるいは単に袋の中身と時間帯で推測したのか。
いずれにせよ、凛の観測はやはり細かい。
「今日はほんと、どこ行っても“いつもの人”みたいなんだよな」
思わずそう漏らす。
凛はレジを打ちながら、少しだけ考えてから言った。
「だいぶ空気っぽいですね」
そこも言うのかよ。
「お前までそれ言うな」
「でも、たしかにそうです」
「何が」
「もう“何かしてる人”というより、“いる人”になってます」
その言い方が、妙にしっくりきてしまうのが悔しい。
「……それはあんまり嬉しくないな」
「でも、悪くもなさそうです」
凛は平然と言う。
「何でそう思う」
「今日の顔がそこまで嫌そうじゃないので」
そこまで見てるのかよ。
いや、お前は見てるんだよな。
そういうやつなんだよな。
会計を終えて、袋を受け取る。
凛が最後に何でもない顔で言った。
「空気って、ないと困るので」
その一言が、その日いちばん静かに効いた。
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夜。
自室。
ドアを閉める。
椅子に座る。
机の上へ肘をつく。
「生活圏の空気になる、か……」
口に出してみる。
家でも。
駅前でも。
商店街でも。
会館の前でも。
コンビニでも。
特別な役割があるというより、そこにいるのがもう自然になってきている。
それは少し怖い。
だが、完全に嫌でもない。
空気は感謝されにくい。
でも、ないと困る。
その比喩は、思った以上に今の俺へ近かった。
「……役割より先に、空気か」
大きく変わったわけじゃない。
派手なイベントもない。
ただ、日常の中で位置が少しずつ固定されていく。
家族が前提にする。
子どもたちが待つ。
近所が安心する。
凛が観測する。
その全部を受けて、俺は今日もこの部屋へ戻ってきている。
「……まあ、悪いだけじゃないのが一番困るんだけどな」
そう呟いて、少しだけ笑った。
もし完全に嫌なら、もっと逃げている。
でも実際は、文句を言いながらもそれなりにそこへいる。
それが今の俺なのだろう。
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