おじさん、今日はいないの?
いない時に名前を呼ばれるのは、少し不思議だ。
その場にいないのだから、返事はできない。
なのに人は、いない相手の名前をかなり自然に会話へ混ぜる。
「あとで来る?」
「今いないの?」
「さっきいた?」
そういう言葉は、いない本人の知らないところで勝手に飛び交う。
そしてあとからそれを聞かされると、妙に効く。
これが、
「呼んだけど出なかった」
ならまだわかりやすい。
だが、
「いると思って来た」
とか、
「今日はいないの?」
になると少し違う。
そこには連絡よりも先に、存在の前提がある。
確認する前に、まずいるものとして想定されている。
それがじわっと重い。
その日、俺は自分の部屋にいながら、それをあとから知ることになった。
---
午後。
珍しく、本当に珍しく、俺は最初から部屋に引きこもるつもりでいた。
前日の疲れが少し残っていたわけではない。
体調も悪くない。
ただ、今日はもう外へ出る気分ではなかった。
そういう日もある。
人間には、誰にも呼ばれず、何にも頼まれず、ただ部屋で静かにしていたい日が必要だ。
机。
ノートPC。
読みかけのラノベ。
エナジードリンク。
完璧である。
だから、下で物音がしても、最初はあまり気にしなかった。
玄関が開く音。
子どもの声。
良子の声。
富子の返事。
まあ、いつものことだ。
今日は行かない。
今日は出ない。
そう決めていたので、少し強気でもあった。
ところが、そのまましばらくすると、階段の下あたりでひなの声がした。
「……おじさん、今日はいないの?」
その一言が、思った以上に耳へ残った。
俺はベッドの上で少しだけ目を開けた。
いないの。
今、そう言ったのか。
下から良子の声が返る。
「いるよー。
でも今日は上で休んでる」
「そうなんだ」
ひなの返事は静かだった。
残念そう、とまでは言い切れない。
だが、少なくとも“いる前提だった”響きははっきりあった。
さらに、健太の声まで混ざる。
「えー! 何で!」
「うるさい」
と良子。
「だっていた方が早いじゃん!」
と健太。
お前は本当に雑だな。
そこへ、美咲の声も少しだけ聞こえた。
「おじゃまします……」
ああ、今日は美咲も来ているのか。
つまり、ひな、美咲、健太の三人で何かやるつもりだったのだろう。
そこで俺は少しだけ起き上がった。
起き上がってしまった時点で、もうだいぶ駄目である。
本当に無視するつもりなら、寝返りを打って終わるべきだった。
だが、下の会話が続く。
「じゃあ、これどうする?」
と良子。
「うーん……」
とひな。
「おじさんいたらすぐなのに」
と健太。
「けんた、そういう言い方しないの」
とひな。
「でもほんとじゃん!」
何なんだよ。
何を持ち込んだんだお前ら。
そこで、良子の声が少し上がった。
「お兄ちゃん!
起きてるならいいけど、無理しなくていいからねー!」
絶妙にズルい。
来いとは言わない。
でも、起きているなら聞こえるように言う。
この人、本当にこのへんの圧のかけ方がうまい。
「……無理しなくていい、ね」
口に出してから、少しだけ笑ってしまう。
その言い方をする時は、だいたい“来たら助かる”が含まれている。
ため息をついて、俺はベッドから下りた。
---
リビングへ下りると、三人がテーブルのまわりに集まっていた。
ひな。
美咲。
健太。
その中央に、色画用紙とハサミとテープと、なぜか細いリボンが散らばっている。
「あ」
ひなが最初にこっちを見た。
「起きた」
「起きてたよ」
「やっぱりいた」
その“やっぱり”が少し重い。
健太はもっと露骨だった。
「おじさん!
今日いないのかと思った!」
「いるよ。
自分の家なんだからいるだろ」
「でも下にいなかった!」
そこまでで“いない”判定になるのか。
子どもの世界は視界が狭くてまっすぐだな。
美咲が少し遠慮がちに言った。
「ごめんなさい、起こしちゃいました?」
「別に」
それからテーブルの上を見る。
「何してんだこれ」
ひなが答える。
「飾り」
広い。
「何の」
「美咲の自由工作のやつ」
ようやく見えた。
学校か何かで使う飾りらしい。
台紙にリボンを貼って、色画用紙で花みたいな形を作るのだろう。
「で?」
「ちょっとむずかしい」
やっぱりそうか。
健太は即座に言う。
「オレ、テープ切る係だった!」
「だった、って何だよ」
「いまは見てる!」
「仕事しろ」
良子が少し離れたところから笑いながら言う。
「お兄ちゃん、来た瞬間ちょっと空気変わったよ」
「やめろ」
「でもほんと。
みんな“あ、なんとかなる”って顔した」
ひなは否定しなかった。
美咲も少しだけ視線をそらして、でも反論はしない。
健太に至っては全力で頷いている。
「それが重いって言ってるんだよ」
「でも、今日はいないの?ってなったのほんとだよ」
とひな。
そこを本人の前で言い直すな。
かなり効く。
「何でそうなった」
「だって、たぶん下にいると思ってた」
「何で」
「最近そうだから」
最近そうだから。
その理由は、かなり強かった。
たしかに最近、子どもたちが来る時、俺はかなりの確率で下へ顔を出している。
何かしら見たり、受け取ったり、話を聞いたりしている。
それが積み重なれば、子ども側では“いるもの”になるのだろう。
美咲が小さく言った。
「ひなちゃんが、たぶんおじさんいるって言ってたから」
なるほど。
それで“いないの?”まで行ったのか。
「お前、勝手に人の在宅を保証するなよ」
俺がひなに言うと、ひなはきょとんとした。
「でも、だいたいいる」
「雑だな」
「でもそうでしょ」
反論しづらい。
最近の俺は、たしかに“だいたいいる”のだ。
---
テーブルの前に座らされる。
いや、座ったと言うべきか。
ここまで来て立ったまま見てるのも妙だったので、結局座った。
「何が問題なんだよ」
「ここ」
とひな。
「ここが、きれいに丸くならない」
と美咲。
「テープが見える!」
と健太。
お前は情報量を増やすな。
台紙を見る。
リボンの端の始末が少し甘い。
画用紙の花びらも左右で幅が違う。
たしかに子どもだけでは微妙に難しいラインだ。
「ハサミ貸せ」
「出た」
と良子。
「“貸せ”」
とひな。
「お前ら、それを合図みたいに言うな」
リボンを少し斜めに切り直し、テープの位置を内側へ寄せる。
花びらは一枚を型にして揃える。
そこまでやると、たしかに見た目が整った。
「あ」
と美咲。
「きれい」
とひな。
「すげー!」
と健太。
その三段反応がいちばん大げさだ。
「大したことじゃない」
「でも、おじさんいたからできた」
とひな。
「いたらすぐだった!」
と健太。
「……だから重いんだよその評価」
良子は少し後ろで腕を組みながら笑っていた。
「でもさ、お兄ちゃん」
「何」
「今日いないの?って、かなり刺さったでしょ」
「刺さってない」
「その返し遅い時は刺さってるんだよ」
鋭い。
ほんとに鋭い。
美咲が少しだけためらいながら言った。
「でも、ほんとにちょっと思いました」
「何を」
「今日は下にいないんだ、って」
その言い方は静かだった。
静かだからこそ、妙に本音っぽい。
「別に、いない日もあるだろ」
「うん」
と美咲。
「でも、いると思ってた」
またそれだ。
今日ほんとにその方向から殴ってくるな。
俺は思わず天井を見た。
天井は何も言わない。
こういう時だけ、本当に頼もしい。
---
工作が一段落すると、ひなは出来上がりをかなり満足そうに見ていた。
美咲もほっとした顔をしている。
健太は“オレも何か作りたい”とか言い始めたので、そこは全力で無視した。
「おじさん」
ひなが言う。
「何」
「今日は下にいないの?って思ったけど、いたからよかった」
その言い方は、前より少し大人びていた。
いや、言っている内容はかなり子どもだ。
だが、“いないと思って不安だった”を、そのままではなく少し整えて言っている感じがある。
「そんなにか」
「うん」
ひなは頷く。
「今日ちょっとだけ、いないと困った」
その“ちょっとだけ”が、前より重かった。
前なら、太郎がいたら助かる。
いると安心する。
そういう言い方だった。
今は一歩進んで、“いないと困る”になっている。
大げさではない。
“ちょっとだけ”だ。
でも、そのちょっとが生活に入ってきている。
「……そうかよ」
それしか返せない。
健太はもっと雑だった。
「オレ、最初マジで“何でいないの?”って思った!」
「だからその言い方だよ」
「だってほんとだもん!」
子どもの本音は、ほんとに容赦がない。
---
夕方、三人が帰ったあと、リビングは少しだけ静かになった。
テーブルの上には色紙の切れ端が少し残っている。
リボンのかけらもある。
そういう“さっきまで子どもがいた跡”を見ると、妙に時間の流れがわかる。
良子がコップを片づけながら言った。
「お兄ちゃん、今日はほんと象徴的だったね」
「何が」
「“おじさん、今日はいないの?”」
そのまま言うなよ。
「本人の前で二回も三回も言うな」
「でも、あれかなり今の立ち位置だよ」
そうかもしれない。
そうかもしれないが、言葉にされるとやっぱり少し重い。
「前は“いると助かる”だったじゃん」
と良子。
「今は“いないの?”なんだよね」
その整理は、正確すぎて嫌だった。
「……お前ほんと、そういうとこだけ鋭いよな」
「お兄ちゃんも、ほんとはわかってるでしょ」
そこへは答えなかった。
答えなかったが、否定もできなかった。
富子が台所から言う。
「でも、下りてきてくれてよかったわ」
「聞こえてたしな」
「なら最初から来ればいいのに」
「その言い方はやめろ」
父は和室から出てきて、テーブルの散らかりを見て言った。
「何だ、工作か」
「そう」
と良子。
「お兄ちゃんいないと少し止まった」
おい。
お前は父にまでその情報を共有するな。
父はそれを聞いて、特に驚きもせず、ただ短く言った。
「まあ、そうだろうな」
その“まあ、そうだろうな”も、最近ではかなり効く部類の言葉だった。
---
夜。
自室。
椅子に座り、机の上のエナジードリンクを開ける。
炭酸の音。
少し静かな部屋。
「おじさん、今日はいないの、ね……」
口に出してみる。
ひなの声。
下から聞こえたあの一言は、昼より夜の方が残っていた。
いないの。
それは、俺の不在を確認する言葉だった。
同時に、いるはずだと思っていた言葉でもある。
つまり、最初から前提がある。
まずそこにいて、それが見えないから不思議がる。
その順番だ。
「……頼られるより、前提にされる方がやっぱ重いんだよな」
そう呟く。
呼ばれる。
頼まれる。
助かる。
安心する。
それも十分重い。
でも“いないの?”は、その前にもうこちらの存在が組み込まれている。
生活の流れの中へ、かなり自然に。
面倒だ。
かなり面倒だ。
でも、その面倒の中に、ちゃんと俺の席があることもわかってしまう。
「……まあ、完全に嫌じゃないのが一番困るんだけどな」
それが、今のところいちばん正直な結論だった。
もし本当に嫌なら、今日みたいに下へは下りていない。
聞こえないふりをして、寝ていたはずだ。
でも実際には起きて、顔を出して、座って、工作を直している。
そういう積み重ねの先に、“今日はいないの?”があるのだとしたら、たぶんこれはもう避けられないのだろう。
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