いないだけでちょっと困る
人の価値は、いない時に少しだけ見える。
これはたぶん、かなり本当だ。
普段そこにいる時、人はあまり深く考えない。
呼べば返事がある。
頼めば嫌そうな顔をしながら動く。
聞けば一応見てくれる。
そういうものが繰り返されると、それは少しずつ風景に近づいていく。
だから怖い。
風景になったものは、ある時まで感謝されにくい。
空気とか、水道とか、そういうものと少し似ている。
動いていて当然。
あるのが普通。
なくなって初めて、「あれ」が発生する。
その「あれ」はたいてい大げさではない。
もっと地味だ。
手が止まる。
ちょっと困る。
いつもの流れが一拍だけ詰まる。
そして、その一拍の重さが、妙に夜まで残る。
その日、俺は自室でそれを知ることになった。
---
午後。
珍しく、俺は寝ていた。
体調が悪いわけではない。
熱もない。
頭痛もない。
ただ、前日の細かい寝不足が少し残っていて、昼ごはんのあとに横になったら、そのまま落ちた。
窓の外は静かだった。
カーテンの隙間から入る光はやわらかくて、扇風機の風も弱い。
こういう日には、昼寝の吸引力が妙に高い。
だから、スマホの振動で目が覚めた時、まず少し機嫌が悪かった。
「……何だよ」
寝ぼけた声で言う。
もちろん返事はない。
スマホだ。
画面を見る。
良子から着信が三件。
メッセージも二件。
嫌な予感しかしない。
開く。
『お兄ちゃん寝てる?』
『ごめん、今どこ?』
そこから数分空いて、
『ひなのノートどこに置いたかわかる?』
さらに少しあと、
『お兄ちゃんいたら早かったのに』
俺はそこで完全に目が覚めた。
「……何があった」
すぐに良子へ電話をかける。
数コールで出た。
『もしもし?』
「何だよ」
『あ、お兄ちゃん起きた』
「起きたよ。
何だよ“いたら早かったのに”って」
電話の向こうで、良子が少しだけ気まずそうに笑った気配がした。
『いや、ひなの英語のノートが見つかんなくて』
「それだけ?」
『それだけっちゃそれだけなんだけど』
そこへ、電話の向こうから健太の声が聞こえた。
『おじさん起きた!?』
「うるさい」
『いたらすぐわかったのに!』
お前、そこへ乗るの早いな。
「何で俺なんだよ」
『だっておじさん、どこ置いたか覚えてそうだし』
と健太。
『あと、前もそういうのすぐ見つけたし』
と良子。
『ひな、ちょっと困ってる』
と健太。
その最後の一言で、少しだけ天井を見たくなった。
「……ひなは?」
『いるよ』
と良子。
少し間があって、ひなの小さい声がした。
『おじさん、ごめん』
「いや、別に。
で、最後にどこで使った」
『昨日、テーブルで見た』
「そのあと?」
『たぶん、バッグに入れた……と思う』
出た。
この“と思う”の危険度は高い。
「バッグ見たのか」
『見た』
と良子。
『でもない』
「机の上は」
『ない』
「ソファの横」
『ない』
頭の中に家の配置図が出る。
リビングのテーブル。
ソファ。
ひなのバッグ。
勉強道具を一時置きする棚。
あと、なぜか子どもの物が紛れ込みがちなテレビ台の下。
「テレビ台の横のカゴ見たか」
少し間が空く。
『……見てない』
と良子。
「そこ」
さらに数秒。
ガサガサという音。
健太の『あった!?』というでかい声。
良子の『うわ、ほんとだ』。
そしてひなの、かなり小さい安堵の息。
『あった』
と良子。
「だろ」
『何でわかるの』
「前に色鉛筆そこから出てきただろ」
『あー……』
そうだった。
前に健太の折り紙、ひなの色鉛筆、なぜか富子の輪ゴムまで、あそこから出てきたことがある。
家にはそういう“吸い込む場所”がいくつか存在する。
『おじさん、ありがと』
とひな。
「いや、いいけど」
『いたらもっと早かったのに』
と良子がまた言う。
そこを重ねるな。
「寝てたんだよ」
『それはそうなんだけどさ』
電話の向こうで、良子は少しだけ声をやわらかくした。
『お兄ちゃんいないと、こういう時ちょっと手が止まるんだよね』
その言い方は、あまりにも自然で、だからこそ少し重かった。
大事件ではない。
ノート一冊。
でも、普段ならすぐ聞ける相手がいないだけで、ちょっと手が止まる。
それが、今の俺なのだとしたら。
「……大げさだろ」
何とかそう返す。
『大げさじゃないよ』
と良子。
そこへ、健太がまた割り込んできた。
『だって、おじさんいないと“たぶんあそこ”の人いないじゃん!』
「何だよその分類」
『すぐ見つける人!』
ひどい言われ方だ。
だが、意味は通る。
『おじさん』
とひな。
「何」
『ごめん、起こした』
「別に」
『でも、いないとちょっと困る』
その一言で、電話越しなのに少し黙ってしまった。
電話の向こうの空気も、一瞬だけ静かになった気がした。
ひなはたぶん、盛っていない。
本当にそうだったから言っただけだ。
「……そうかよ」
それしか返せなかった。
---
電話を切ったあと、部屋の中はまた静かになった。
扇風機の音。
少し汗ばんだ首筋。
寝起きのぼんやりした頭。
「いないと、ちょっと困る、か……」
思わずそう呟く。
ちょっと。
そこがまた、ひどく本当っぽかった。
大げさに“あなたがいないと何もできない”ではない。
そんな重い話ではない。
でも、いないと少し困る。
いつもの流れが一拍止まる。
ノートの場所ひとつで。
その程度のことで。
その“その程度”が、生活の中では妙に効く。
俺はベッドから起き上がって、水を飲みに一階へ下りた。
---
リビングへ行くと、ひながテーブルでノートを開いていた。
良子はその横に座って、ページをめくっている。
健太はソファで寝転がっていた。
「あ、おじさん」
ひなが顔を上げる。
「起きた」
「起きたよ」
良子が少し申し訳なさそうな顔をする。
「ごめんね、起こして」
「別に」
「でもほんと、助かった」
「ノート一冊で大げさだろ」
「いや、ちょっと困ってたんだよ」
そこをまたちゃんと言うな。
健太がソファから身を起こす。
「おじさんいないと、ほんと一回止まる!」
「お前、言い方が雑なんだよ」
「でもそうじゃん!」
ひなは、さっき電話で言ったことを、今度はもっと静かに繰り返した。
「いないと、ちょっと困った」
その声は小さい。
でも、電話越しより近いぶん、よけいに残る。
「……そんなにか」
俺が聞くと、ひなは頷いた。
「どこ見ればいいかわかんなくなった」
「良子いるだろ」
「いたけど」
そこでひなが少し考えてから続けた。
「おじさんの方が、“最後どこか”って考える」
それはつまり、俺の役割がもうかなり具体的になっているということだ。
漠然と頼りになるとかではない。
“こういう時にこう考える人”として見られている。
それは便利と言えば便利だ。
だが同時に、かなり生活に入り込んでいる。
良子が笑った。
「お兄ちゃん、完全に家の検索機能みたいになってる」
「ひどいな」
「でも便利」
「便利って言うな」
「じゃあ何て言うの?」
それを聞かれて、少しだけ黙る。
名前はまだない。
少なくとも、こっちの中では。
ただ、家の中での位置が前よりずっとはっきりしていることだけはわかる。
「……知らん」
結局それしか返せなかった。
---
夕方、ひなの英語教室へ行く前に、またひながこっちを見て言った。
「おじさん、今日は寝ててもいいよ」
「何だその言い方」
「だってさっき起こしちゃったから」
「気にするな」
「でも、もうノートは大丈夫」
そのフォローの仕方も、子どもにしては妙にまっすぐで困る。
健太は横から元気に言った。
「でもまた何かあったら呼ぶ!」
「やめろ」
「何で!」
「何でもだよ」
良子はそれを見て、少しだけ肩をすくめた。
「ほんと、お兄ちゃんいないとちょっと困るようになってるんだよね」
またそこへ戻すな。
だが、誰も冗談で言っていない。
それが一番厄介だった。
---
夜。
自室。
椅子に座る。
昼寝のせいか、今はもう頭ははっきりしていた。
机の上のエナジードリンクを開ける。
炭酸の音が少しだけ乾いて響く。
「いないだけで、ちょっと困る、ね」
口に出してみる。
大したことじゃない。
本当に。
ノート一冊。
テレビ台の横のカゴ。
その程度の話だ。
でも、その程度のことで手が止まる。
そして、その時に最初に呼ばれるのが自分になっている。
それは、たぶんかなり生活の中に席ができているということなのだろう。
頼られる。
前提にされる。
待たれる。
そして今度は、不在で少し困られる。
「……重いんだよなあ、やっぱり」
そう呟いて、少しだけ笑う。
面倒だ。
かなり面倒だ。
でも、その面倒の中に、ちゃんと俺の役割があることもわかってしまう。
「ちょっと、なんだよな」
そこが救いだった。
いないと“すごく”困るわけじゃない。
何もかも止まるわけでもない。
でも、ちょっと困る。
その“ちょっと”の重さなら、今の俺でもまだどうにか受け止められる気がした。
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