梅子さん、俺を地域インフラにしないでください
インフラという言葉には、妙な恐ろしさがある。
電気。
水道。
ガス。
道路。
そういうものは、ある時は誰も気にしない。
存在していて当然。
使えて当然。
止まって初めて「困る」と言われる。
だから怖い。
人間関係の中で誰かが“インフラっぽく”扱われ始めた時、それはたいてい褒め言葉の顔をしている。
助かる。
いてくれると回る。
やっぱり頼りになる。
そう言われる。
だが、その実態はわりと危ない。
存在が前提になっている。
いない時の代替ルートが考えられていない。
そして本人だけが、いつの間にそこまで行ったのか把握していない。
その日、俺はまさにその危険領域へ片足を突っ込んでいた。
もちろん原因は田村梅子である。
---
昼前。
俺は家の前でゴミ箱を洗っていた。
なぜそんなことをしているのかと問われれば、富子に「ついでだから」と言われたからである。
朝、燃えるゴミを出したあと、袋の中で何かが微妙に漏れていたらしく、底の方が少し汚れていた。
それを見た富子が、ホースを持っている俺に向かって「じゃあついでにそれも」と言った。
ついでの使い方が雑すぎる。
ホースの水でざっと流し、ブラシでこする。
泡。
日差し。
地味である。
だがこういう地味作業は、始めてしまうと最後までやった方が早い。
「あらあら、太郎さん」
来た。
顔を上げると、道の向こうから梅子さんが手を振っていた。
笑顔。
小さなトートバッグ。
絶妙に“用事があります”の装いである。
「こんにちは」
警戒しつつ返す。
「こんにちはあ。
ちょうどよかったわ」
やめろ。
その入りを本当にやめろ。
「何ですか」
「今日ね、会館の前のテーブル出しあるでしょ」
「知りません」
「そうだったかしら?」
「聞いてません」
「でもまあ、大丈夫よね」
大丈夫ではない。
大丈夫ではないのだが、この人は人の了承を“会話の途中で自然に取れたことにする”技術が高い。
「何のテーブルですか」
「ちょっと掲示の準備と、お菓子を並べる台」
その説明だけだと軽い。
だが経験上、軽い説明の仕事ほど現地で枝が増える。
「人いるでしょ」
「いるけど、太郎さんいると早いのよお」
それだ。
その言い方がまず危ない。
俺が黙ると、梅子さんは何でもない顔で続けた。
「もう会館の人にも、太郎さん来るって言っちゃったし」
俺はそこで本気で手を止めた。
「……言ったんですか?」
「ええ」
「何でですか」
「いると思ったから」
「いや、それ俺に確認してないですよね」
「でもいるでしょ?」
その“でも”で全部押し切るの、ほんとによくない。
そこへ、近所のおばさんまで通りかかった。
「あら、太郎さん。
今日は会館の方ね」
何でみんなもう知ってるんだよ。
「いや、今初めて聞きました」
「え、そうなの?」
とおばさん。
「でも来るんでしょ?」
と梅子さん。
「その流れが強いんですよ」
「だって助かるもの」
とおばさん。
「そうそう」
と梅子さん。
この合唱が一番きつい。
感じのいい大人二人が善意でうなずき合う空間に、こちらの逃げ道はあまりない。
「……俺を地域インフラにしないでください」
思わずそう言うと、梅子さんは目を丸くした。
「何それえ」
「ある前提で話が進んでるってことです」
「でも、いてくれると回るのよ」
「それがもう危ないんですよ」
おばさんは少し笑っていた。
「太郎さん、ほんと最近言い方が面白いわねえ」
面白くしてるんじゃない。
本気で抵抗しているだけだ。
---
結局、ゴミ箱を乾かしてから会館へ行くことになった。
断れなかった。
というより、断るタイミングが消えた。
“来るって言っちゃった”はかなり強い。
先に向こうへ話が行っていると、人は思っている以上に引き返しづらい。
会館までは歩いて数分。
近い。
悔しいが近い。
だからなおさら使われる。
着くと、会館前にはすでに二人ほどのおばさんがいた。
折りたたみテーブルと、小さい椅子が端に寄せてある。
紙袋。
掲示用のボード。
麦茶の入ったポット。
つまり、ただのテーブル出しだけではない空気が濃い。
「あら、太郎さん来た」
「こんにちは」
「助かるわあ」
出た。
その第一声。
「何からですか」
俺が聞くと、会館のおばさんがすぐに指示を出す。
「まずそのテーブル広げて、こっちに運びたいの。
そのあと、掲示の板立ててもらえる?」
ほら増えた。
最初から二件目が乗っている。
折りたたみテーブルを開く。
会館の前の日陰に置く。
ボードの脚を広げる。
掲示板の位置を少しずらす。
やること自体は地味だ。
でも、こういう“誰かがやればすぐ終わる小さい作業”が、地域というものを回しているのかもしれない。
「そこ、ちょっと右」
「はい」
「もう少しだけ」
「このくらい?」
「そうそう」
何で俺が会館前で位置調整してるんだろう、と思う。
でももう始めてしまったので最後までやるしかない。
そこへ、商店街の文房具屋の店員が通りかかった。
「あ、太郎さん」
またか。
「こんにちは」
「何してるんですか」
「……地域インフラ化です」
思わずそう返すと、店員さんが吹き出した。
「それ自分で言うんだ」
「言いたくもなりますよ」
梅子さんが嬉しそうに言う。
「ほんと助かるのよお」
「だからそれを外で言わないでください」
「何で?」
「範囲が広がるからです」
「もう広がってるでしょ」
と文房具屋の店員。
否定できない。
否定できないのがつらい。
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テーブルの上にお菓子の袋を並べる。
麦茶のポットを置く。
掲示板へ町内のお知らせを挟む。
それで終わりかと思ったら、会館のおばさんが言った。
「太郎さん、そのひも少し切ってくれる?」
増えた。
やはり増えた。
梅子さんが横から笑う。
「やっぱりねえ」
「何がですか」
「太郎さんいると、みんなちょっとずつ頼みやすくなるのよ」
「最悪じゃないですか」
会館のおばさんは悪びれもなく頷いた。
「だって上手いんだもの」
「そんなことないです」
「あるわよ。
お父さんより、こういう細かいの向いてるわ」
そこで父を比較対象に出すのはやめてほしい。
妙に納得してしまうから。
ひもを切り、袋を整え、掲示板の端を押さえる。
気づけば、俺は完全に作業担当になっていた。
「あ、太郎さん。
そのあとちょっとポット運んでもらっていい?」
もう笑うしかなかった。
「……ほら、こうやってインフラになるんですよ」
文房具屋の店員がまた笑う。
「たしかに。
もう“いると助かる”じゃなくて“いる前提”ですね」
やめろ。
言語化するな。
かなり効く。
---
作業が一段落した頃、ようやく俺は会館の前のベンチに腰を下ろした。
梅子さんが紙コップに麦茶を入れて渡してくる。
「はい」
「どうも」
「助かったわあ」
「今日それ何回目ですか」
「本当のことだもの」
そこはもう、たぶん一生変わらないのだろう。
少し離れたところで、会館のおばさんが別の人に言っているのが聞こえた。
「太郎さんいると早いのよ」
それが妙に、地味に、刺さった。
大げさではない。
表彰されるような言葉でもない。
ただ、生活の現場で出てくる、本当に雑多で本当の評価。
「……ほんとにインフラっぽいんだよな」
思わずそう呟く。
電気や水道ほど偉大ではない。
だが、小さい作業や困りごとが詰まりそうになった時、いるとちょっと流れが良くなる。
その程度の、でも確かな機能。
それを人に対して使うのはどうかと思うが、感覚としてはかなり近かった。
梅子さんが隣で言う。
「何か言った?」
「いや、何でもないです」
「太郎さん、ほんと最近よく来てくれるわねえ」
「来てるというか、連れてこられてるんです」
「でも来るじゃない」
またそこだ。
「……それ言われると弱いんですよ」
正直にそう言うと、梅子さんは少しだけやさしい顔になった。
「来ない人は、最初から来ないもの」
その言い方も、ずるかった。
善意の人は本当にずるい。
こっちが全面的に拒絶しづらい角度から、本当のことを置いてくる。
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家へ戻ると、富子がすぐに聞いてきた。
「どうだった?」
「会館で地域インフラ化してきた」
「何それ」
良子がちょうど来ていて、そこで盛大に笑った。
「お兄ちゃん、それかなり言い得てる」
「笑うな」
「でもわかるわ。
最近ほんと、“太郎さんいれば大丈夫”枠じゃん」
「やめろ」
ひなも当然みたいに言う。
「おじさん、会館でもそうなんだ」
「“でも”って何だよ」
「どこでもだいたいそう」
子どもがそういう真理みたいなことを平然と言うの、本当にやめてほしい。
父が和室から顔を出した。
「会館行ってたのか」
「行ってた」
「何で」
「俺に聞くな。
梅子さんに聞け」
父は少しだけ笑った。
「まあ、そうなるか」
「そうなるな」
そこで普通に納得するな。
だが父までそれを自然に受け取っている時点で、たぶんもうかなり定着しているのだろう。
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夜。
自室。
机の前に座り、エナジードリンクを開ける。
今日もちゃんとこの部屋へ戻ってきた。
「俺を地域インフラにしないでください、ね……」
改めて口に出すと、かなり変な台詞だ。
だが、実感としては妙に正確だった。
会館。
商店街。
掲示。
テーブル。
ポット。
ひも切り。
全部、小さい。
全部、誰かがやれば終わる。
だからこそ、“太郎さんいれば早い”になってしまう。
便利。
助かる。
いる前提。
その積み重ねが、家の外でもかなり進んでいる。
「……面倒なんだよなあ」
そう呟いて、少しだけ笑う。
面倒だ。
かなり面倒だ。
でも、会館の前で麦茶を飲んでいた時間のことを思い返すと、完全に嫌だったわけでもない。
あの場で、自分の役割はたしかにあった。
派手ではない。
小さい。
でも、ちゃんとそこにあった。
それをどう呼ぶのか、まだ自分でもうまく決められない。
ただ少なくとも、俺の生活圏はもう家の中だけではなくなっているのだろう。
最後に戻る場所がここだから、たぶんまだギリギリ笑っていられる。
地域インフラ一歩手前でも、そこまでは壊れずに済んでいる。
今はたぶん、そのくらいでちょうどよかった。
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