ひなは、おじさんが来るつもりで待っている
待つ、という行為には段階がある。
ただ立っているだけの待ち方。
まだかな、と少し不安な待ち方。
来るかどうかわからない相手を気にする待ち方。
そして、**来ると信じて疑わない待ち方**。
最後のやつがいちばん強い。
何しろ、そこには確認がない。
「来る?」ではない。
「来るよね?」でもない。
ただ、来る前提でその場にいる。
だから、呼ばれた側はあとからじわじわ来る。
その日、俺はそれをひなから食らった。
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発端は良子からのメッセージだった。
午後三時過ぎ。
俺は自室で平和にしていた。
平和にしていた、という表現にはもっと価値が認められるべきだと思う。
動画を流しながらベッドに寝転がり、何となくスマホを見て、特に何も決めずに時間を溶かす。
これは高度な休日運用だ。
そこへ、スマホが震えた。
良子だった。
嫌な予感しかしない。
『お兄ちゃん、ひな今待ってるから』
意味がわからない。
『何が』
と返す。
『英語教室の前』
『お兄ちゃん来ると思ってるから』
さらに意味がわからない。
俺はベッドの上でゆっくり起き上がった。
『何でそうなってるんだよ』
返信は早かった。
『だって私ちょっと遅れそうで』
『ひなに先に行っててって言ったら、おじさん来るでしょって』
そこで俺は、本気で数秒固まった。
「……何だそれ」
口に出る。
良子からさらに来る。
『だからお願い』
『もう待ってる』
いや、だからそこがおかしいんだよ。
まだ俺は了承していない。
していないのに、現地ではすでに俺前提で待機が始まっている。
『聞いてない』
と返す。
『今言ったじゃん』
そういう問題ではない。
『お兄ちゃん、今日家いるでしょ』
『いるけど』
『じゃあお願い』
強い。
この人、本当にこういう時だけ話を畳むのがうまい。
『父さんは』
と打つ。
『今、梅子さんに捕まってる』
最悪だ。
かなり最悪の返答だった。
父が梅子さんに捕まっているなら、しばらくは帰ってこないだろうし、帰ってきても別件を抱えている可能性が高い。
『母さんは』
と打つ。
『買い物』
きれいに塞がれている。
何なんだこの包囲網は。
『……わかった』
と返す。
『ありがと!』
良子のその軽さが腹立たしい。
だが、今さら怒ってもひなはもう待っているらしい。
そこへ文句を言っても仕方がない。
「来ると思ってる、か……」
その言葉だけが、妙に残った。
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英語教室は商店街の先、小さなテナントビルの一階に入っている。
歩いて十分ちょっと。
近いと言えば近い。
だが、その“近い”を理由にすべてをこちらへ流すのはやめてほしい。
途中でコンビニの前を通る。
今日は寄らない。
今は待機任務が先だ。
商店街を抜けて、教室の前の細い道へ入る。
看板。
小さな植木。
横に自販機。
見慣れたような、でもまだ完全には馴染み切っていない場所。
そして、その自販機の横にひながいた。
小さなショルダーバッグを肩にかけて、手には英語のノートらしいもの。
壁に寄りかかるでもなく、ただ普通に立っている。
不安そうではない。
きょろきょろもしていない。
ただ、待っている。
俺の姿を見つけると、顔が少しだけ明るくなった。
「おじさん」
「……いるな」
「いるよ」
いや、それはそうだ。
問題はそこではない。
「何で待ってるんだよ」
「だって来るでしょ」
あまりにも当然の返答だった。
俺は思わず足を止めた。
「何でそうなる」
「ママ、ちょっと遅いって」
「だからって俺に決まるのか」
「うん」
即答だった。
迷いがなさすぎる。
「父さんとか母さんとかいるだろ」
「でも、おじさんの方が早いし」
「良子の入れ知恵か?」
「ちがうよ」
ひなは本当に不思議そうだった。
「だって、おじさん家にいるでしょ」
「その理屈、最近みんな使うな」
「ほんとだもん」
子どもの“ほんとだもん”は反則だ。
理屈が雑でも、本心なのがわかるから困る。
俺は自販機の横まで歩いて行き、缶コーヒーを一本買った。
「待ってたの、どのくらいだ」
「ちょっと」
「その“ちょっと”は信用できない」
「でもそんなに長くないよ」
たぶん本当にそうなのだろう。
ひなはこういう時、盛らない。
だからこそ、余計に効く。
「連絡は」
「したよ」
そう言ってスマホを見せてくる。
良子との短いやり取りが表示されていた。
“先に行ってて”
“うん”
“おじさん来ると思う”
“うん”
うん、じゃないんだよ。
「勝手に決めるな」
「でも来た」
その返しが強すぎる。
たしかに来た。
文句を言いながらも来た。
だから理屈として負けている。
「……そうだけど」
認めたくないが、認めるしかない。
ひなはそこで少しだけ口元をゆるめた。
「でしょ」
その“でしょ”に、妙な勝ち誇りはない。
ただ、本当にそうなると思っていた、というだけの顔だ。
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教室の開始までは、まだ少し時間があった。
ひなは自販機の横に立ったまま、バッグからノートを出して確認している。
俺は缶コーヒーを持って、その横に立っていた。
「今日、何やるんだ」
「単語のテストと、読むやつ」
「へえ」
「ちょっといや」
「何で」
「テストだから」
その理由は子どもらしくて少し笑う。
「まあ、そうだろうな」
「でもおじさん来たから、ちょっとまし」
その一言で、また心拍数が変に上がる。
「何で俺でましになるんだよ」
「だって来たし」
「いや、理由になってないだろ」
「なるよ」
ひなは平然としている。
こちらだけが少し困っている。
「おじさんいると、始まる前ちょっと平気」
その言い方は、前よりもう一歩踏み込んでいた。
安心する。
ほっとする。
そういう言葉は前にもあった。
だが今日は、“始まる前が平気になる”ときた。
これはかなり具体的だ。
かなり生活に入り込んでいる。
「……お前、そういうの軽く言うよな」
「軽くじゃないよ」
「余計駄目だろ」
ひなはきょとんとした。
「何で?」
「何でもだ」
説明しづらい。
あまりにも説明しづらい。
ちょうどその時、教室の扉が開いて、先生らしい女性が顔を出した。
「あら、ひなちゃん。
今日はおじさんが送ってくれたの?」
その言葉に、俺は少しだけ固まる。
送ってくれた。
そう見えるのか。
まあ実際、そうなのだが。
「うん」
ひなが素直に頷く。
「よかったね」
先生がそう言った時、ひなが当然みたいに返した。
「だって来ると思ってたし」
やめろ。
そこで重ねるな。
先生は少しだけ笑ってから、俺に軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いや、まあ……」
こういう“保護者側の会話”っぽい流れにも、最近少しずつ巻き込まれている気がする。
前よりはましだ。
でも、完全に慣れたわけではない。
ひなが教室へ入る前に、振り返って言った。
「じゃあ、おじさん」
「何」
「終わる頃いる?」
「何でだよ」
「いたらうれしい」
それは先に言うな。
かなり効く。
「……良子が来るだろ」
「来ると思うけど」
「じゃあいいだろ」
「でも、おじさんいたらもっといい」
その言い方が、本当にずるい。
ひなはそれだけ言うと、何でもない顔で教室へ入っていった。
ドアが閉まる。
残された俺は、自販機の横で缶コーヒーを持ったまましばらく動けなかった。
「……来るつもりで待ってるどころじゃないな」
小さくそう呟く。
来ると思っていた。
来たら少し平気。
始まる前がまし。
終わる頃いるともっといい。
前提どころか、かなり生活の中に入ってしまっている気がする。
それが温かいのか重いのか、まだうまく分けられない。
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結局、俺はその場に残った。
いや、残らされたと言うべきかもしれない。
帰ってまた来るのも微妙だし、良子が来るまでの時間も中途半端だった。
だから自販機の横で二本目の缶を買い、少し離れた日陰へ移動して待つことにした。
待機任務である。
最近、本当にこの任務が多い。
子どもの教室の前で待つ。
出てきた時にいる。
それだけ。
でも、その“それだけ”に意味があると知ってしまった以上、前ほど雑に切れない。
十分。
十五分。
二十分。
待っている間、俺は周囲を見ていた。
教室の前を通る自転車。
近くのパン屋から出てくる人。
隣の店のシャッター。
何でもない風景。
だが、その中でひなが出てきた時、自分がそこにいるかどうかに意味があるのだとしたら、これはたしかに“何もしていない時間”ではないのかもしれない。
「面倒なんだよなあ……」
そう呟きながらも、完全に無意味だとは思えなかった。
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レッスンが終わる頃、ひなが教室から出てきた。
周囲を見て、すぐに俺を見つける。
その瞬間、また少しだけ顔がやわらかくなる。
「あ」
小さい声。
「いた」
「いるな」
「いた」
お前は確認語彙が少ないな。
「良子は?」
「まだ」
そう言ってスマホを見ると、良子から
“ごめん、あと十分”
と来ていた。
「遅いな」
「でもおじさんいる」
その一言が、また軽くて重い。
「……いたよ」
それしか返せなかった。
ひなはそれで満足したらしく、バッグを持ち直して俺の横に立った。
「今日ね、テストちょっとだけできた」
「またその評価か」
「でもほんとにちょっとだけ」
「便利だな、それ」
「便利だよ」
さらっと認めるな。
少しだけ並んで立つ。
夕方の空気。
英語教室の前。
良子を待つ数分。
それだけの時間なのに、妙に静かだった。
ひながぽつりと言う。
「おじさん、来ると思ってたの、ほんとだよ」
「わかったよ」
「来ないかもって、あんまり思わなかった」
そこまで言われると、さすがに少し黙るしかない。
待たせないようにしよう、とか、今後もちゃんと行こう、とか、そういうきれいな決意にはまだならない。
ただ、そう思われてしまっているのだと知る。
その重みだけが、静かに残る。
「……そうか」
ようやくそれだけ返すと、ひなは満足そうに頷いた。
「うん」
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良子が着いたのは、その少しあとだった。
「ごめん!」
小走りで来て、まずひなの頭を撫で、それから俺を見る。
「ほんとありがと」
「聞いてないんだよ、こっちは」
「でも来たじゃん」
「お前らその理屈ばっかりだな」
良子は笑ったが、そのあと少しだけやわらかい顔になった。
「ひな、最初からお兄ちゃん来るつもりで待ってたでしょ」
「うん」
「何で」
「だって、おじさんだから」
その答えがいちばん困る。
理由になっているようで、まったく説明になっていない。
でも、ひなの中ではそれで十分なのだろう。
良子は俺を見た。
「お兄ちゃん、そういうの弱いよね」
「うるさい」
「でもうれしいでしょ」
「……別に」
「その“別に”がもう弱いんだよ」
ひなは不思議そうにこっちを見ていたが、たぶん全部はわかっていない。
わからなくていい。
ただ、自分がそう思ったからそう言っただけなのだろう。
---
夜。
自室。
椅子に座って、缶を机に置く。
扇風機の音。
部屋の静けさ。
今日もここへ戻ってきたという事実が、少しだけ気持ちを整える。
「来るつもりで待ってる、か……」
口に出してみる。
来ると思ってた。
来ないかもとはあまり思わなかった。
その言葉の重さは、昼より今の方が効いていた。
頼られる。
助かると言われる。
安心すると言われる。
それも十分重い。
だが、“来る前提で待たれる”はまた少し違う。
そこには、信頼だけじゃなく、生活の段取りまで含まれている。
その時間に、そこへ、自分が来るものとして入っている。
「……前提って、ほんとに頼まれるより重いんだな」
思わずそう呟く。
でも同時に、完全に嫌でもない。
そこがまた面倒だ。
もし本当に嫌なら、もっと乱暴に切れるはずだ。
今日は来られない、と言い切れたはずだ。
でも結局来て、待って、出てきたひなの顔を見て、少しだけほっとしている自分がいる。
「……面倒なんだよなあ」
それが結局、いちばん正確な感想だった。
面倒だ。
かなり面倒だ。
でも、その面倒の中にちゃんと自分の席があるとしたら、たぶん俺はまだしばらく、同じように文句を言いながらここへ来てしまうのだろう。
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