プロローグ それ俺がいる前提の話ですよね?
人がいちばん怖いのは、たぶん雑な信頼だ。
深刻な信頼ではない。
泣きながら「お願い、あなただけなの」みたいなやつではない。
ああいうのは、むしろ心の準備ができる。
重いし、面倒だし、できれば来てほしくないが、少なくとも“今から大事なことが来る”という覚悟はできる。
問題はもっと日常的で、もっと逃げづらい方だ。
「あとでお願いね」
「来るでしょ」
「ついででいいから」
「いると思ってた」
そういう、会話の流れの中に紛れ込んでくる自然すぎる前提。
しかも、それを言っている側にほとんど悪気がない時、人は本当に困る。
俺はその日、朝からそれを浴びていた。
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休日の朝だった。
休日の朝というのは、本来、人類に与えられた数少ない救済であるべきだ。
目が覚めてもすぐには起きず、天井を見て、スマホを見て、もう一度寝るかどうか迷う。
そういう何もしない時間のために、人は平日を耐えているところがある。
なのに、その日は下が少し早い段階からうるさかった。
食器の音。
引き出しの音。
誰かの足音。
話し声。
「太郎ー」
富子である。
俺はベッドの上で片目を開けた。
「何ー」
「あとで駅前行くなら、洗剤見てきてー」
そこで俺は、まだ起き上がってもいないのに眉をひそめた。
まずおかしい。
“あとで駅前行くなら”とは何だ。
その予定は俺の中でまだ存在していない。
「行かねえよ」
布団の中からそう返す。
「行くでしょ」
なぜ確定口調なんだよ。
「何でそうなる」
「だってお父さん、駅前の電気屋さん寄るって言ってたし」
ああ。
そういえば昨日、父が部品か何か見たいと言っていた気がする。
だがそれは父の予定であって、俺の予定ではない。
「それ父さんの用事だろ」
「でも行くならついででいいじゃない」
ついで。
出た。
この家の支配言語である。
俺は嫌な予感を抱えたまま起き上がり、階段を下りた。
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リビングでは、父が和室の前で小さなメモを見ていた。
富子は詰め替え用洗剤のパックを手にしている。
この時点で、もうかなり危ない。
「何だよ」
俺が言うと、父がメモを軽く持ち上げた。
「電気屋で、型番だけ見たい」
「行けば」
「行くぞ」
「一人で行けるだろ」
「行けるが」
そこで言葉が切れる。
この“行けるが”のあとに、自然に俺が入ってくる感じが嫌だった。
富子が横から当然みたいに言う。
「だから、ついでに洗剤もお願いね」
「俺、まだ行くって言ってないんだけど」
「でも行くでしょ」
その“でも”の使い方、本当に雑だな。
父は短く言った。
「米屋も寄るかもしれん」
増えた。
予想通り増えた。
「何でだよ」
「切れそうらしい」
富子が頷く。
「そうなのよ」
「それ、二人で行けばいいじゃん」
「でもお父さん、米持つとほか面倒になるでしょ」
「そうか?」
と父。
「なるのよ」
と富子。
夫婦間で完結してくれ。
なぜそこへ俺を編成する。
そこへ、玄関が開いた。
「おはよー」
良子だった。
このタイミングで来るのはかなり悪い。
「何でいるんだよ」
「ひど。
実家来ちゃ駄目?」
「この流れで来るな」
「何の流れ?」
絶対わかってる顔をしてとぼけるな。
案の定、富子がすぐ言った。
「お兄ちゃん駅前行くみたいだから、何かある?」
おい。
本人の了承を完全に飛ばすな。
「あるよ」
と良子。
即答だった。
やっぱりな。
「ひなのノート。
あとプリン。
あと、見つけたらでいいからあのシールつきのメモ帳」
「増やすな」
「見つけたらでいいって言ってるじゃん」
「その枕詞は免罪符じゃないんだよ」
そこへ、さらに小さな足音。
「おはよう」
ひなだった。
後ろから健太まで来ている。
「オレも来た!」
「何でお前もいるんだよ」
「遊ぶから!」
朝から人が多い。
というか、今日の生活圏の主要人物がほぼ揃っている。
嫌な予感しかしない。
ひなはリビングへ入るなり、当然みたいに聞いた。
「おじさん、駅前行くの?」
「まだ決まってない」
「でも行くんでしょ」
お前までその口調か。
「何でそう思う」
「だってもうみんなその話してる」
たしかにしている。
してしまっている。
この家では、一度会話の流れに乗った予定は、本人の同意が多少遅れてもだいたい成立する。
健太が勢いよく言った。
「オレ、消しゴム!」
「お前の分は知らん」
「何で!」
「関係ないからだよ」
「でも駅前行くなら買えるじゃん!」
その理屈を子どもが使い始めるの、本当にやめてほしい。
良子が笑う。
「お兄ちゃん、今すごい顔してる」
「どんな顔だよ」
「“それ俺がいる前提の話ですよね?”って顔」
図星だったので腹が立つ。
「……いや、実際そうだろ」
「そうだよ」
とひなが頷く。
お前は頷くな。
「何でそうなるんだよ」
「だっておじさんいるし」
理由が雑すぎる。
だが、雑すぎるからこそ、ひなの中では本気なのもわかる。
富子が洗剤のパックを机に置いた。
「じゃあ決まりね」
「決まってない」
「決まったわよ」
「だから俺がまだ」
そこへ父が短く言った。
「十時には出るぞ」
完全に時間まで設定された。
終わった。
俺はそこで天井を見上げた。
「……それ俺がいる前提の話ですよね?」
本気だった。
かなり本気だった。
だが、周囲の反応は薄かった。
「そうだけど?」
と良子。
「うん」
とひな。
「だってそうじゃん」
と富子。
「違うのか」
と父。
何なんだ。
この満場一致は。
健太だけが少しズレていた。
「オレもいる前提でいい?」
「駄目だ」
「何で!」
「そこだけは駄目だ」
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十分後、俺は結局、玄関で靴を履いていた。
納得はしていない。
していないが、家の空気というのは時々、本人の意思より先に段取りを完成させる。
そこへ逆らい切るのは意外と難しい。
父はすでに外に出ている。
富子は台所から「洗剤忘れないでね」と飛ばし、良子は「ノート、B5で方眼」と追加確認し、ひなは「プリン、カラメル多そうなやつ」とわけのわからない注文までつけてきた。
「見てわかるかそんなの」
「なんとなく」
「信用できない」
玄関の外まで見送りに出てきた健太が手を挙げる。
「おじさん!
消しゴム!」
「知らん!」
「えー!」
「お前は自分の母親に言え!」
ひながその横で小さく言う。
「でも、たぶん買ってくるよ」
お前、何でそこで予言するんだよ。
「買わない」
「でもおじさん、そういう時たまに買う」
……否定しきれないのが嫌だった。
良子が玄関の柱に寄りかかりながら笑う。
「ほんと、もうお兄ちゃん前提なんだよね」
「嫌な言い方するな」
「でも本当じゃん」
「本当でも嫌なもんは嫌なんだよ」
そこで、富子が少しだけやわらかい声で言った。
「だって、いると回るんだもの」
その一言だけ、少し違う温度だった。
重い。
かなり重い。
朝からそういうのを入れてくるな。
「……朝からそういうのやめろ」
「何で?」
「何でもだよ」
ひなはきょとんとしたまま言う。
「でも、ほんとだよ」
子どもの“ほんと”は強い。
盛ってないぶん、まっすぐで困る。
俺はもうそれ以上返す気力もなく、サンダルを踏み鳴らして外へ出た。
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父と並んで駅前へ向かう道。
朝の住宅街。
商店街の準備。
開き始めるシャッター。
自転車の音。
空は明るい。
父が横で言う。
「そんなに嫌か」
「嫌だよ。
聞いてないのに俺前提で話が進んでるんだぞ」
「最近はそうだろ」
その一言に、少しだけ言葉が止まる。
「……父さんまでそう思ってるのか」
「違うのか」
「違わなくはないけど」
そこを父にあっさり返されると、妙に引っかかる。
父は歩きながら続けた。
「いると早いし」
「またそれか」
「事実だろ」
事実を積み上げられると弱い。
なぜなら、こちらも完全には否定できないからだ。
駅前に着いてからの流れは、もういつも通りだった。
電気屋。
米屋。
ドラッグストア。
文具店。
最後にコンビニ。
父は必要なところだけ短く言い、俺は文句を言いながらも順番に回す。
前よりこの連携が自然になっているのがまた少し癪だ。
文具店でノートを選びながら、ふと自分でも思う。
前なら、この時点でもっと疲れていたかもしれない。
今も面倒は面倒だ。
だが、思考はちゃんと回る。
何を先に済ませて、どこでついでをまとめて、帰りに何を回収するか。
そういう段取りを、わりと普通に組んでいる。
それが、少しだけ引っかかった。
結局、コンビニでプリンと、健太用の消しゴムまで買ってしまった。
ひなの予言は最悪の形で当たった。
「何で買うかな俺……」
会計を終えて店を出たところで、思わずそう漏らす。
父が米袋を持ち直しながら言う。
「そういうとこだろ」
「何が」
「前提にされるのは」
その言い方は、たぶんかなり正しかった。
頼めばやる。
文句は言う。
でもやる。
そして、買うなと言いながら買ってしまう。
そういう積み重ねで、人は誰かの予定の中へ組み込まれていくのかもしれない。
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家へ戻ると、案の定、誰も驚かなかった。
富子は洗剤を受け取り、
良子はノートを見て「うん、これこれ」と頷き、
ひなはプリンを確認し、
健太は消しゴムを見つけて叫んだ。
「買ってるじゃん!」
「うるさい」
「やっぱおじさん!」
「その言い方やめろ」
ひなが小さく言う。
「ほらね」
「ほらねじゃない」
良子が笑う。
「だから言ったじゃん。
お兄ちゃん前提なんだって」
「お前らが勝手にそうしてるんだろ」
「でも、ちゃんと成立してる」
そこだけは、何も言い返せなかった。
父は和室へ戻る前に、短く言った。
「助かった」
「……どうも」
その一言も、今の俺には少し重い。
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夜。
自室。
椅子に座る。
ドアを閉める。
静かだ。
「それ俺がいる前提の話ですよね、か……」
朝の自分の言葉をそのまま口に出してみる。
あれは抗議だった。
かなり本気の。
でも、周囲にはまったく刺さらなかった。
なぜなら、本当にもうそうだからだ。
家の中では、俺がいる前提で細かい予定が組まれ始めている。
あとで行くでしょ。
ついでにお願いね。
来ると思ってた。
そういう言葉が、冗談ではなく生活の一部になっている。
「……面倒なんだよなあ」
それが本音だった。
面倒だ。
とても面倒だ。
でも同時に、その面倒の中には確かに“俺がそこにいる意味”みたいなものも混ざっている。
それがさらに面倒だった。
机の上のエナジードリンクを開ける。
炭酸の音が小さく部屋に広がる。
「前提にされるのって、頼まれるのよりちょっと重いんだよな」
そう呟いたあと、しばらく天井を見ていた。
頼まれる。
助かる。
便利。
そして俺はたぶん、まだそれに慣れ切れていない。
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