帰り道が少し長くなっただけなのに
帰り道というものは、だいたい脇役だ。
目的地へ向かう途中は、まだ主役になれる。
買い物へ行く。
迎えに行く。
何かを直しに行く。
そういう“行き”には、まだ役割がある。
だが帰り道は違う。
もう用事は終わっている。
あとは戻るだけだ。
つまり物語としては、終わったあとに残る余白みたいなものだ。
だから本来、そんなに印象へ残るものではない。
少なくとも、昔の俺にとってはそうだった。
外出の価値は“済ませること”にあった。
終わったら帰る。
それだけ。
途中の道や時間に、特別な意味を感じることなんてあまりなかった。
だが最近は、その“戻るだけ”の時間が妙に残る日がある。
少し遠くまで行って、
少し誰かと話して、
用事は終わったはずなのに、
その帰り道だけが静かに頭へ残る。
その日も、そういう日だった。
---
夕方。
俺は駅前のスーパーから出てきたところだった。
レジ袋の中には、富子に頼まれた料理酒。
父に頼まれた替えの電池。
良子が“見つけたらでいい”と言ってきた子ども用の絆創膏。
ついでに自分のエナジードリンク。
いつも通り、だいぶ他人の生活と自分の生活が同じ袋に入っている。
前の俺なら、それを“面倒”の一言で済ませていたかもしれない。
今も面倒ではある。
だが、それだけでもなくなっているのがいちばんややこしい。
自動ドアを抜けたところで、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
凛だった。
駅前のベーカリーの紙袋を一つ持って、店先の植木の横でスマホを見ている。
私服。
薄いブラウンのカーディガン。
黒いスカート。
最近、店の外で会っても前ほど驚かなくなったが、それでも一瞬だけ心拍数は上がる。
「……よう」
声をかける。
凛が顔を上げる。
少しだけ目を丸くして、それからいつもの温度で返した。
「こんにちは」
その“こんにちは”が、前より自然だ。
こっちの“よう”も、たぶん前よりだいぶ自然だった。
「また買い物ですか」
凛が袋を見る。
「また、って言うな」
「でもまたですよね」
「まあな」
その返しも、最近は前ほど消耗しない。
正体を探っていた頃のような、いちいち余分な意味が乗る感じが薄れたからだろう。
「そっちはパンか」
「見ればわかると思います」
「ほんとそれ好きだな」
「便利なので」
便利。
その言い方に少しだけ笑う。
「帰り?」
俺が聞くと、凛は頷いた。
「そうです」
「こっちも」
「方向、同じですね」
たしかにそうだった。
スーパーを出て駅前通りを少し抜けて、商店街に入る。
その途中までは同じになる。
俺たちは並んで歩き始めた。
---
駅前の夕方は少し騒がしい。
バスが停まる音。
車の流れ。
信号待ちの人。
店から漏れる音楽。
学生の笑い声。
そんな中で、こっちの会話は妙に小さい。
「今日は何買ってきたんですか」
凛が聞く。
「料理酒と電池と絆創膏」
「生活ですね」
「お前それ、最近の口癖だろ」
「そうかもしれません」
その返しに、また少し笑う。
「そっちは」
「パンと、あとこれ」
凛がスマホを少し持ち上げる。
画面にはメモアプリみたいなものが開いていた。
「買い忘れ防止リストです」
「細かいな」
「そっちに言われたくないです」
その切り返しは、もうほとんどコンビニのレジの時と同じテンポだった。
違うのは、制服がないことと、レジを挟んでいないことくらいかもしれない。
「たしかに」
俺がそう返すと、凛が少しだけこっちを見る。
「今日は素直ですね」
「最近それ好きだな」
「使いやすいので」
また便利かよ。
商店街へ入ると、人の流れが少し落ち着いた。
駅前のざわつきが一段下がって、知っている店の看板が増える。
魚屋。
八百屋。
文房具屋。
コーヒースタンド。
このあたりまで来ると、もう駅前と近所の境目みたいな感じになる。
「最近、この辺まで普通に来るようになりましたね」
凛がぽつりと言う。
「自分でも思う」
「前は?」
「もっと、“行くぞ”って感じだった」
「今は?」
「ついでで押し出されてる」
凛が少しだけ笑った。
「それは想像つきます」
「何でだよ」
「最近、袋の中身がそういう感じなので」
やっぱり見てるな、と思う。
でも今はそれを責める気にもならない。
むしろ、生活の変化を一番静かに観測しているのがこいつなのかもしれない、と少し思う。
「……そっちもよく駅前いるな」
俺が言うと、凛は肩をすくめた。
「普通に生活してるので」
「それ、何か強いな」
「そうですか?」
「ちょっとだけ」
凛はそこで、ほんの少し考えるような顔をした。
「そっちも、前より“普通に生活してる”感じありますよ」
その言葉は、前にも似た形で聞いた気がする。
だが今日は、その後に続いた一言の方が残った。
「だから、前より会っても変じゃないです」
俺は少しだけ黙った。
変じゃない。
たしかにそうかもしれない。
以前は、コンビニの店員とチャットの相手と、生活圏でたまに会う人が、頭の中でまだうまく重なっていなかった。
今はもう、そこが一つの線になっている。
だから店の外で会っても、前ほど不自然じゃない。
「……まあ、そうかもな」
俺がそう言うと、凛は小さく頷いた。
それだけで会話が切れた。
だが、その沈黙は気まずくなかった。
前なら、沈黙のたびに“何か言うべきか”と少し焦っていた気がする。
今はただ、並んで歩いている時間として置いておける。
商店街の終わりが見えてくる。
ここから先は分かれ道だ。
「私はこっちなので」
凛が言う。
「おう」
短い。
それでいい。
「また」
凛が言った。
その“また”は、前よりずっと普通の挨拶に聞こえる。
「……また」
俺も返す。
凛は軽く手を振って、細い横道の方へ入っていった。
俺はその背中を少しだけ見送って、それからまた前を向いた。
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そこから家までは、もうそんなに距離はない。
住宅街へ入る。
車の音が減る。
遠くで犬が鳴く。
夕方の色が少しだけ深くなる。
スーパーで買い物をして、たまたま凛に会って、少し一緒に歩いて、別れた。
それだけだ。
ほんとうにそれだけ。
なのに、帰り道だけが妙に長く感じる。
「……何だろうな、これ」
小さく呟く。
用事はとっくに終わっている。
手にはレジ袋。
中身は生活感の塊。
特別なイベントは何もない。
でも、その何でもなさの中に、少しだけ前と違うものが混ざっている。
会って、話して、歩いて、別れて。
その“帰るだけの時間”に、前はなかった余韻がある。
生活圏が広がる、というのは、たぶんこういうことなのだろう。
行く場所が増えるだけではない。
途中の時間、帰り道、ただ歩いているだけの時間まで、少しずつ意味を持ち始める。
「帰り道が少し長くなっただけなのに、か」
言葉にすると、かなり地味だ。
だが、今の俺には妙にしっくりくる。
---
家へ戻ると、いつもの空気が待っていた。
富子が台所。
父が和室。
良子はまだ来ていない。
ひなはたぶんあとで来る。
玄関を開けた瞬間に、自分の生活の重心がまた家へ戻るのがわかる。
「ただいま」
「おかえりー」
富子の声。
これだけで、帰り道の余韻が一段落する感じがある。
袋を台所へ置く。
料理酒。
電池。
絆創膏。
全部渡す。
「ありがと」
「別に」
父が和室から顔を出した。
「遅かったな」
「ちょっとな」
「何かあったか」
「……別に」
凛と会って少し歩いてきた、とは言わない。
言う必要もない。
ただ、その“ちょっとな”の中に、最近の俺の外側が少しずつ入ってきている気がした。
---
夜。
自室。
ドアを閉める。
机の前に座る。
エナジードリンクを開ける。
「帰り道が少し長くなっただけなのに、ね」
もう一度言ってみる。
ほんとうに、それだけなのだ。
でも、その“それだけ”が、前の俺にはなかった。
用事を済ませて、帰る。
その間に会う人。
少しだけ並んで歩く時間。
何でもない会話。
別れたあとの静かな道。
そういう余白が、前より少しだけ自分の生活へ入ってきている。
面倒も増えた。
距離も広がった。
顔を覚えられることも増えた。
でも、そのかわりにこういう“何でもない時間”が残るようになったのだとしたら、それは悪いことばかりでもないのかもしれない。
「……まあ、悪くないか」
結局いつもの結論だ。
でも今は、それで十分だった。
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