自宅警備員、駅前で顔を覚えられる
顔を覚えられる、というのは少し怖い。
有名になりたいわけではない。
目立ちたいわけでもない。
ただ静かに、必要最低限の買い物だけをして帰りたい人間にとって、“あ、こんにちは”と自然に声をかけられる状況は、思ったより心拍数に来る。
しかもそれが、近所の家の前や町内会館ならまだわかる。
生活圏の中だ。
顔見知りが増えるのも、まあ流れとして理解はできる。
だが駅前は違う。
俺の中ではまだ“近所の外”だ。
広い。
人が多い。
店も多い。
つまり、こちらが薄く溶けていたい場所である。
そこでも顔を覚えられ始めると、いよいよ少し落ち着かない。
その日、俺はまさにその落ち着かなさのど真ん中にいた。
---
昼過ぎ、俺は駅前のドラッグストアにいた。
理由はいつも通り雑多だ。
富子に頼まれた洗剤。
父に頼まれた髭剃りの替え刃。
良子から回ってきた、ひなのヘアゴム。
ついでに自分のシャンプー。
そして、出たついでにエナジードリンク一本。
最近、買い物かごの中身が本当に“俺個人のもの”だけで終わらなくなった。
この変化は、たぶん思っているより大きい。
前の俺なら、洗剤と髭剃りの替え刃とヘアゴムが同じかごに入る生活なんて、かなり遠い場所のものだった。
店内は広くて明るい。
蛍光灯。
整然とした棚。
ポップ。
季節の特設コーナー。
ドラッグストアという場所は、何でもあるくせに妙な無機質さもあって少し落ち着く。
必要なものを一通り取って、レジへ向かう。
会計を済ませる。
袋を受け取る。
完璧だ。
何事もなく終わるはずだった。
「佐藤さん、ポイントカードあります?」
レジの女性がそう言った瞬間、俺は少しだけ固まった。
「……え?」
思わず聞き返す。
女性店員は、何でもない顔でレジ袋を持ったまま続けた。
「前に作ってもらったやつです。
今日もつけますか?」
ああ。
そうか。
カードを作ったことはある。
あるが、問題はそこではない。
名前で呼ばれた。
いや、会員カードを作っているのだから、システム上は名前が見えるのは当然だ。
当然なのだが、こちらの感覚としては少し違う。
ただの番号やポイントではなく、“佐藤さん”と呼ばれると、一気に“ここで認識されている感”が出る。
「……ある」
財布からカードを出す。
手つきが少しだけぎこちなくなった気がする。
「ありがとうございます」
ピッと通される。
「洗剤、今日安くなってますね」
店員さんが何でもない感じで言う。
「そうなんだ」
「よく買われますよね」
そこで俺は本気で一瞬だけ止まった。
よく買われますよね。
その言い方は、明らかに“観測されている”側の人間へ向けるものだ。
いや、別に毎週買っているわけではない。
でも、家の頼まれもので何度か来ているし、洗剤や日用品を買うことは増えた。
それを向こうが覚えていても、おかしくはない。
おかしくはない。
ないのだが、心情的には少しおかしい。
「……まあ、最近は」
そう返すのが精いっぱいだった。
店員さんは、そこに特別な意味があるとは思っていないのだろう。
普通に袋へ商品を入れながら言う。
「この時間だと空いてるので、買いやすいですよね」
「ああ」
「またポイントたまったら使ってください」
それで会話は終わった。
終わったのだが、こっちの中では終わっていない。
袋を受け取って店を出てから、俺は小さく呟いた。
「……駅前で顔を覚えられてるのかよ」
正確には、顔と買い物内容とポイントカード情報だろう。
それでも十分に落ち着かない。
---
駅前通りを歩く。
車の音。
歩道の人波。
夕方前の、まだ少し明るい光。
袋の中には洗剤と髭剃りの替え刃とヘアゴムとシャンプー。
我ながら生活感が濃い。
少し先の信号で止まった時、後ろから声がした。
「あれ、太郎さん?」
またか。
振り向くと、ひなのピアノ教室で見たことのある母親だった。
名前は知らない。
だが、向こうはこちらを知っているらしい。
「こんにちは」
俺は少しだけ姿勢を正した。
「あ、この前、ひなちゃん迎えに来てましたよね」
「ええ、まあ」
「やっぱりそうだ。
なんか見たことあるなって」
見たことあるな、で済ませてくれればよかった。
だが、その一歩先まで認識されている。
「最近よく見かけます」
そこもか。
俺は少しだけ空を見たい気分になった。
「……そうですか」
「駅前の方も来るんですね」
来る。
来てしまっている。
前よりだいぶ。
「まあ、頼まれごとが増えて」
「ああ、そういう感じします」
何だその“そういう感じ”は。
と思ったが、よく考えればこの人の中では“迎えに来るおじさん”として俺が一度登録されている。
そこから日用品の袋を提げて歩いていれば、たしかにそう見えるのかもしれない。
「でも、ひなちゃん安心してましたよね」
その一言が、不意に少し深く入った。
「何が」
「教室から出た時。
迎えがいると、やっぱり子どもって顔違うので」
俺は少しだけ言葉に詰まる。
そうか。
あの日見ていたのは、ひなだけではなかったのか。
周囲の親たちも、それなりに見ていたのだろう。
「……まあ」
「いいですよね。
そういうの」
その人は穏やかに笑って、じゃあと軽く会釈して去っていった。
残された俺は、信号が青になるまで少しだけぼんやりしていた。
駅前で。
教室の前のことまで。
覚えられている。
しかも悪い意味ではなく、普通に、生活の一部として。
「ほんとに広がってるんだな……」
小さくそう漏れる。
---
帰り道、駅ビルの一階にあるコーヒースタンドの前を通った時、今度は別の声がした。
「太郎さん」
今日は本当に何なんだ。
見ると、父の知り合いのあの人だった。
前に駅前で会って、父に“前よりまし”と言われた日の相手だ。
「どうも」
もうこの挨拶にも少し慣れてきている自分が嫌だ。
「買い物?」
「ええ」
「すっかりこっちでも見かけるようになったね」
やめろ。
それを言うな。
事実だから余計に。
「……まあ、最近は」
「いいことだよ」
この人は本当に感じがいい。
感じがいいから、こちらも雑に切れない。
「お父さん、元気?」
「元気ですよ」
「この前も言ってたけど、家のこといろいろ見てくれて助かってるって」
父、外でそんなに言ってるのか。
ちょっとやめてほしい。
いや、やめなくてもいいのかもしれないが、心の準備がない。
「大したことはしてないです」
「でも、大したことじゃないのをちゃんとやる人が一番助かるんだよ」
その返しはずるい。
本当にずるい。
俺は少しだけ笑ってごまかすしかなかった。
「……それ、最近よく言われるんですよね」
「そういう時期なんじゃない?」
そういう時期。
変な言い方だが、少しだけしっくりも来た。
この人と別れて、ようやく本当に帰路につく。
駅前通りを抜け、商店街を通り、住宅街へ入る。
足取りは重くない。
でも、頭の中にはさっきから同じことが残っていた。
駅前で顔を覚えられている。
少し前の俺なら、たぶんそこまで来ても、どこにも引っかからない通行人だったはずだ。
今は違う。
ドラッグストア。
ピアノ教室まわり。
父の知り合い。
それぞれの場所で、少しずつ“ああ、あの人”になっている。
それが良いことなのか悪いことなのか、まだ少し判断がつかない。
だが、少なくとも変化ではある。
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家へ戻ると、ひなが真っ先にヘアゴムへ食いついた。
「これ?」
「そう」
「かわいい」
「よかったな」
良子もシールのついたパッケージを見て満足そうに頷く。
「ありがと。
やっぱこの色でよかった」
「最初からちゃんと指定しろ」
富子は洗剤とシャンプーを受け取りながら言った。
「全部あった?」
「あった」
「えらいえらい」
「子ども扱いするな」
父が和室から出てきて、髭剃りの替え刃を受け取る。
「ありがとう」
「どうも」
ここまでは、いつもの流れだ。
だが今日は少しだけ、その“いつもの流れ”の外側が気になっていた。
「お兄ちゃん、何かあった?」
良子が聞く。
こういう時の勘だけは本当に鋭い。
「別に」
「別にじゃない顔してる」
「ドラッグストアで名前呼ばれた」
「会員カードで?」
「たぶん」
「あー」
その“あー”は、わりとすべてを察している時のやつだ。
「駅前でも顔通るようになってきたんだね」
「嫌な言い方するな」
「でもそうでしょ?」
ひながそこで、かなり当然みたいに言った。
「おじさん、前よりよくいるもん」
そこを子ども側から断言されると、地味に効く。
「“いる”って何だよ」
「駅前とか、お店の近くとか」
「広いな」
「でもそう」
良子は笑っていたが、少しだけ真面目でもあった。
「少し前のお兄ちゃんなら、駅前ってもっと“行く場所”だったよね。
今はなんか、“行ける場所”になってる感じ」
その言い方は、かなり正確だった。
行く場所。
行ける場所。
その差は小さいようで大きい。
昔は、駅前へ出ること自体に少し構えが要った。
今は文句を言いながらでも、ついでや用事で普通に足が向く。
そこに顔を覚えられるくらいには、頻度も積み重なっている。
「……まあ、そうかもな」
素直にそう返すと、良子が少しだけ驚いた顔をした。
「今日は認めるんだ」
「疲れてるからだよ」
「便利な言い訳」
それはたしかにそうだった。
---
夜。
自室。
椅子へ座る。
ドアを閉める。
今日もちゃんと戻ってこれた、と思う。
エナジードリンクを開けて、一口飲む。
「最強の自宅警備員、駅前で顔を覚えられる、か……」
口に出すと、だいぶ妙なタイトルだ。
だが事実でもある。
少し前の俺なら、駅前で顔を覚えられること自体なかった。
通り過ぎるだけ。
買い物して帰るだけ。
そこに“ああ、この人”という認識が乗ることはなかったはずだ。
今は違う。
迎えに来る人。
日用品を買う人。
父の息子。
ひなのそばにいる人。
そういう細かいラベルが、少しずつ駅前側でも貼られている。
面倒だ。
少し怖い。
だが、完全に嫌でもない。
「……生活圏って、こうやって広がるのかもな」
ぽつりとそう呟く。
大げさな事件があるわけではない。
ただ、何度か通って、何度か会って、短い会話を重ねて、そのうち顔が通るようになる。
それだけのこと。
でも、その“それだけ”が前の俺にはなかった。
「まあ、駅前はまだ近所じゃないけどな」
最後にそこだけは釘を刺して、俺は少しだけ笑った。
譲れない線がまだ残っているくらいが、たぶんちょうどいい。
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