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最強の自宅警備員、俺  作者: きなこもち
第6章 『このへんって近すぎる』

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自宅警備員、駅前で顔を覚えられる





 顔を覚えられる、というのは少し怖い。


 有名になりたいわけではない。

 目立ちたいわけでもない。

 ただ静かに、必要最低限の買い物だけをして帰りたい人間にとって、“あ、こんにちは”と自然に声をかけられる状況は、思ったより心拍数に来る。


 しかもそれが、近所の家の前や町内会館ならまだわかる。

 生活圏の中だ。

 顔見知りが増えるのも、まあ流れとして理解はできる。


 だが駅前は違う。

 俺の中ではまだ“近所の外”だ。

 広い。

 人が多い。

 店も多い。

 つまり、こちらが薄く溶けていたい場所である。


 そこでも顔を覚えられ始めると、いよいよ少し落ち着かない。


 その日、俺はまさにその落ち着かなさのど真ん中にいた。


---


 昼過ぎ、俺は駅前のドラッグストアにいた。


 理由はいつも通り雑多だ。

 富子に頼まれた洗剤。

 父に頼まれた髭剃りの替え刃。

 良子から回ってきた、ひなのヘアゴム。

 ついでに自分のシャンプー。

 そして、出たついでにエナジードリンク一本。


 最近、買い物かごの中身が本当に“俺個人のもの”だけで終わらなくなった。

 この変化は、たぶん思っているより大きい。

 前の俺なら、洗剤と髭剃りの替え刃とヘアゴムが同じかごに入る生活なんて、かなり遠い場所のものだった。


 店内は広くて明るい。

 蛍光灯。

 整然とした棚。

 ポップ。

 季節の特設コーナー。

 ドラッグストアという場所は、何でもあるくせに妙な無機質さもあって少し落ち着く。


 必要なものを一通り取って、レジへ向かう。

 会計を済ませる。

 袋を受け取る。

 完璧だ。

 何事もなく終わるはずだった。


「佐藤さん、ポイントカードあります?」


 レジの女性がそう言った瞬間、俺は少しだけ固まった。


「……え?」


 思わず聞き返す。


 女性店員は、何でもない顔でレジ袋を持ったまま続けた。


「前に作ってもらったやつです。

 今日もつけますか?」


 ああ。

 そうか。

 カードを作ったことはある。

 あるが、問題はそこではない。


 名前で呼ばれた。


 いや、会員カードを作っているのだから、システム上は名前が見えるのは当然だ。

 当然なのだが、こちらの感覚としては少し違う。

 ただの番号やポイントではなく、“佐藤さん”と呼ばれると、一気に“ここで認識されている感”が出る。


「……ある」


 財布からカードを出す。

 手つきが少しだけぎこちなくなった気がする。


「ありがとうございます」


 ピッと通される。


「洗剤、今日安くなってますね」


 店員さんが何でもない感じで言う。


「そうなんだ」


「よく買われますよね」


 そこで俺は本気で一瞬だけ止まった。


 よく買われますよね。

 その言い方は、明らかに“観測されている”側の人間へ向けるものだ。


 いや、別に毎週買っているわけではない。

 でも、家の頼まれもので何度か来ているし、洗剤や日用品を買うことは増えた。

 それを向こうが覚えていても、おかしくはない。


 おかしくはない。

 ないのだが、心情的には少しおかしい。


「……まあ、最近は」


 そう返すのが精いっぱいだった。


 店員さんは、そこに特別な意味があるとは思っていないのだろう。

 普通に袋へ商品を入れながら言う。


「この時間だと空いてるので、買いやすいですよね」


「ああ」


「またポイントたまったら使ってください」


 それで会話は終わった。

 終わったのだが、こっちの中では終わっていない。


 袋を受け取って店を出てから、俺は小さく呟いた。


「……駅前で顔を覚えられてるのかよ」


 正確には、顔と買い物内容とポイントカード情報だろう。

 それでも十分に落ち着かない。


---


 駅前通りを歩く。


 車の音。

 歩道の人波。

 夕方前の、まだ少し明るい光。

 袋の中には洗剤と髭剃りの替え刃とヘアゴムとシャンプー。

 我ながら生活感が濃い。


 少し先の信号で止まった時、後ろから声がした。


「あれ、太郎さん?」


 またか。


 振り向くと、ひなのピアノ教室で見たことのある母親だった。

 名前は知らない。

 だが、向こうはこちらを知っているらしい。


「こんにちは」


 俺は少しだけ姿勢を正した。


「あ、この前、ひなちゃん迎えに来てましたよね」


「ええ、まあ」


「やっぱりそうだ。

 なんか見たことあるなって」


 見たことあるな、で済ませてくれればよかった。

 だが、その一歩先まで認識されている。


「最近よく見かけます」


 そこもか。


 俺は少しだけ空を見たい気分になった。


「……そうですか」


「駅前の方も来るんですね」


 来る。

 来てしまっている。

 前よりだいぶ。


「まあ、頼まれごとが増えて」


「ああ、そういう感じします」


 何だその“そういう感じ”は。

 と思ったが、よく考えればこの人の中では“迎えに来るおじさん”として俺が一度登録されている。

 そこから日用品の袋を提げて歩いていれば、たしかにそう見えるのかもしれない。


「でも、ひなちゃん安心してましたよね」


 その一言が、不意に少し深く入った。


「何が」


「教室から出た時。

 迎えがいると、やっぱり子どもって顔違うので」


 俺は少しだけ言葉に詰まる。


 そうか。

 あの日見ていたのは、ひなだけではなかったのか。

 周囲の親たちも、それなりに見ていたのだろう。


「……まあ」


「いいですよね。

 そういうの」


 その人は穏やかに笑って、じゃあと軽く会釈して去っていった。


 残された俺は、信号が青になるまで少しだけぼんやりしていた。


 駅前で。

 教室の前のことまで。

 覚えられている。


 しかも悪い意味ではなく、普通に、生活の一部として。


「ほんとに広がってるんだな……」


 小さくそう漏れる。


---


 帰り道、駅ビルの一階にあるコーヒースタンドの前を通った時、今度は別の声がした。


「太郎さん」


 今日は本当に何なんだ。


 見ると、父の知り合いのあの人だった。

 前に駅前で会って、父に“前よりまし”と言われた日の相手だ。


「どうも」


 もうこの挨拶にも少し慣れてきている自分が嫌だ。


「買い物?」


「ええ」


「すっかりこっちでも見かけるようになったね」


 やめろ。

 それを言うな。

 事実だから余計に。


「……まあ、最近は」


「いいことだよ」


 この人は本当に感じがいい。

 感じがいいから、こちらも雑に切れない。


「お父さん、元気?」


「元気ですよ」


「この前も言ってたけど、家のこといろいろ見てくれて助かってるって」


 父、外でそんなに言ってるのか。

 ちょっとやめてほしい。

 いや、やめなくてもいいのかもしれないが、心の準備がない。


「大したことはしてないです」


「でも、大したことじゃないのをちゃんとやる人が一番助かるんだよ」


 その返しはずるい。

 本当にずるい。


 俺は少しだけ笑ってごまかすしかなかった。


「……それ、最近よく言われるんですよね」


「そういう時期なんじゃない?」


 そういう時期。

 変な言い方だが、少しだけしっくりも来た。


 この人と別れて、ようやく本当に帰路につく。

 駅前通りを抜け、商店街を通り、住宅街へ入る。

 足取りは重くない。

 でも、頭の中にはさっきから同じことが残っていた。


 駅前で顔を覚えられている。

 少し前の俺なら、たぶんそこまで来ても、どこにも引っかからない通行人だったはずだ。

 今は違う。

 ドラッグストア。

 ピアノ教室まわり。

 父の知り合い。

 それぞれの場所で、少しずつ“ああ、あの人”になっている。


 それが良いことなのか悪いことなのか、まだ少し判断がつかない。

 だが、少なくとも変化ではある。


---


 家へ戻ると、ひなが真っ先にヘアゴムへ食いついた。


「これ?」


「そう」


「かわいい」


「よかったな」


 良子もシールのついたパッケージを見て満足そうに頷く。


「ありがと。

 やっぱこの色でよかった」


「最初からちゃんと指定しろ」


 富子は洗剤とシャンプーを受け取りながら言った。


「全部あった?」


「あった」


「えらいえらい」


「子ども扱いするな」


 父が和室から出てきて、髭剃りの替え刃を受け取る。


「ありがとう」


「どうも」


 ここまでは、いつもの流れだ。


 だが今日は少しだけ、その“いつもの流れ”の外側が気になっていた。


「お兄ちゃん、何かあった?」


 良子が聞く。

 こういう時の勘だけは本当に鋭い。


「別に」


「別にじゃない顔してる」


「ドラッグストアで名前呼ばれた」


「会員カードで?」


「たぶん」


「あー」


 その“あー”は、わりとすべてを察している時のやつだ。


「駅前でも顔通るようになってきたんだね」


「嫌な言い方するな」


「でもそうでしょ?」


 ひながそこで、かなり当然みたいに言った。


「おじさん、前よりよくいるもん」


 そこを子ども側から断言されると、地味に効く。


「“いる”って何だよ」


「駅前とか、お店の近くとか」


「広いな」


「でもそう」


 良子は笑っていたが、少しだけ真面目でもあった。


「少し前のお兄ちゃんなら、駅前ってもっと“行く場所”だったよね。

 今はなんか、“行ける場所”になってる感じ」


 その言い方は、かなり正確だった。


 行く場所。

 行ける場所。

 その差は小さいようで大きい。


 昔は、駅前へ出ること自体に少し構えが要った。

 今は文句を言いながらでも、ついでや用事で普通に足が向く。

 そこに顔を覚えられるくらいには、頻度も積み重なっている。


「……まあ、そうかもな」


 素直にそう返すと、良子が少しだけ驚いた顔をした。


「今日は認めるんだ」


「疲れてるからだよ」


「便利な言い訳」


 それはたしかにそうだった。


---


 夜。

 自室。


 椅子へ座る。

 ドアを閉める。

 今日もちゃんと戻ってこれた、と思う。


 エナジードリンクを開けて、一口飲む。


「最強の自宅警備員、駅前で顔を覚えられる、か……」


 口に出すと、だいぶ妙なタイトルだ。

 だが事実でもある。


 少し前の俺なら、駅前で顔を覚えられること自体なかった。

 通り過ぎるだけ。

 買い物して帰るだけ。

 そこに“ああ、この人”という認識が乗ることはなかったはずだ。


 今は違う。

 迎えに来る人。

 日用品を買う人。

 父の息子。

 ひなのそばにいる人。

 そういう細かいラベルが、少しずつ駅前側でも貼られている。


 面倒だ。

 少し怖い。

 だが、完全に嫌でもない。


「……生活圏って、こうやって広がるのかもな」


 ぽつりとそう呟く。


 大げさな事件があるわけではない。

 ただ、何度か通って、何度か会って、短い会話を重ねて、そのうち顔が通るようになる。

 それだけのこと。


 でも、その“それだけ”が前の俺にはなかった。


「まあ、駅前はまだ近所じゃないけどな」


 最後にそこだけは釘を刺して、俺は少しだけ笑った。


 譲れない線がまだ残っているくらいが、たぶんちょうどいい。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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