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最強の自宅警備員、俺  作者: きなこもち
第6章 『このへんって近すぎる』

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梅子さん、活動範囲を広げるのはやめてください





 善意には、侵食力がある。


 この表現は少しひどいかもしれない。

 だが実感としてはかなり近い。

 悪意なら、まだ警戒できる。

 怒っている相手なら、こちらも構えられる。

 だが善意は違う。

 笑顔で来る。

 困ってるのよ、と来る。

 助かるわあ、と来る。

 そして気づいた時には、こちらの活動範囲が一段広がっている。


 つまり何が言いたいかというと、田村梅子さんは今日も強かった。


 その日、俺は家の前で自転車を拭いていた。


 別に趣味ではない。

 父の自転車のサドルが少し濡れていて、ついでにタイヤの空気も見ておこうと思っただけだ。

 こういう“ついでに”を最近自分でも使い始めているのが、少し嫌だ。


 空は明るい。

 風は弱い。

 近所の道路には子どもの自転車と、犬の散歩と、洗濯物を干す音。

 つまり平和だった。


 そして、平和な時ほど梅子さんは来る。


「あらあら、太郎さん」


 声だけでわかる。

 柔らかい。

 明るい。

 そして逃げづらい。


 俺はタイヤの空気入れを持ったまま顔を上げた。


「こんにちは」


「こんにちはあ。

 ちょうどよかったわ」


 やめろ。

 その言い回しは本当に良くない。

 “ちょうどよかった”はこちらにとってちょうどよくないことが多い。


「何ですか」


 梅子さんはエコバッグみたいな袋を片手に持っていた。

 そこからすでに嫌な予感しかしない。


「商店街の掲示の紙ね、少し持ってってもらえないかしら」


 来た。

 近所の外縁案件である。


「何で俺なんですか」


「ちょうど自転車だし」


 その理屈で活動範囲を広げるのはやめてほしい。


「商店街ですよね」


「そうよお。

 でもすぐそこ」


 すぐそこ、の定義がもう俺と違いすぎる。


「町内じゃないじゃないですか」


「でも近いじゃない」


 またそれだ。

 近い。

 近いから頼める。

 近いから行ける。

 この人の中では距離がすべてを正当化する。


 俺が微妙な顔をしていると、梅子さんはさらに言った。


「それとついでに、会館の前の花壇の札がちょっと曲がってるのも見てもらえる?」


 増えた。


「最初から言ってください」


「だって重くないもの」


「重さの話してないんですよ」


 そこへ、近所のおばさんが通りかかった。


「あら、太郎さん。

 今日も頼られてるの?」


 今日も、って何だ。

 その前提がもう嫌だ。


 梅子さんが笑う。


「助かるのよお。

 太郎さん、こういうのちゃんとしてくれるから」


「またそれですか」


「あら、本当のことよ」


 その“本当のことよ”が一番ずるい。


 おばさんも頷く。


「商店街の方でも、太郎さん来てくれると助かるわよねえ」


 何でだ。

 何でそこまで話が広がってるんだ。


「いや、俺まだ商店街側ではそんなに」


「でも祭りの時いたでしょ」


「ああ、いたわねえ」


「あと文房具屋さんの前でも見た」


 観測されている。

 思った以上に観測されている。


 俺はその場で少しだけ遠い目になった。


「……活動範囲を広げるのはやめてください」


「あら、誰が?」


 梅子さんが本当に不思議そうに聞く。


「梅子さんです」


「ええー?」


 この反応がいちばん強い。

 善意の人は本当に自覚がない。


---


 結局、自転車で商店街の方まで行くことになった。


 断れなかった。

 というより、あの空気の中で断るのはわりと難易度が高かった。

 重くない。

 近い。

 ついで。

 助かる。

 これだけ並べられると、人はじわじわ逃げ道を失う。


 自転車の前かごには、掲示用の紙と透明ファイル。

 後ろから梅子さんが徒歩でついてくる。


「自転車で行くならすぐねえ」


「すぐじゃないです」


「でも早い」


「その言い方が嫌なんですよ」


「何で?」


「何でもです」


 商店街はいつもより少し賑やかだった。

 魚屋。

 八百屋。

 惣菜屋。

 昔ながらの店が並ぶ中に、最近できたコーヒースタンドみたいな店も混ざっている。

 完全な近所ではない。

 だが、駅前ほど遠くもない。


 最初の用事は商店街の掲示板だった。

 イベント案内の紙が少し浮いている。

 たしかに留め直した方がいい。


「ほらね、すぐ終わるでしょ」


 梅子さんが言う。


「これ“だけ”ならな」


 俺はポケットから小さいテープを出した。


「太郎さん、ほんとそういうの持ってるのねえ」


「最近、持ってた方が面倒が減るって学習したんです」


「えらいわあ」


 えらくはない。

 適応してしまっただけだ。


 紙を押さえ、テープを貼る。

 端を整える。

 その時、背後から声がした。


「あれ、太郎さん?」


 振り向くと、商店街の文房具屋の店員だった。

 この前、ひなと美咲のノートを買いに来た店だ。


「どうも」


「何してるんですか」


「……町内の延長です」


 自分で言っていて意味がわからない。

 だが現状はそうとしか言いようがなかった。


 店員さんは少し笑ってから言った。


「最近よく見ますよね」


 またそれだ。

 ほんとに“顔を覚えられる”方向へ進んでいる。


「見られすぎなんだよな……」


「いいことじゃないですか」


 いいことかどうかは、まだ判断がつかない。


 梅子さんは当然みたいに話へ入ってくる。


「太郎さん、頼りになるのよお」


「それを外で言わないでください」


「何で?」


「範囲が広がるからです」


 店員さんがそこでちょっと吹き出した。


「たしかに。

 商店街まで来たらもう逃げられないですね」


「そうなんですよ」


 そこで初めて、少しだけわかってくれる人がいた気がした。


---


 次は会館前の花壇だった。


 花壇の札。

 たしかに少し曲がっている。

 誰かがぶつかったのか、土が緩んだのか。


「これをまっすぐにしてほしくて」


 梅子さんが言う。


「それはまあ、やりますけど」


 しゃがんで土を押し、札を立て直す。

 少し傾きを見る。

 押さえる。

 終わり。


「ほら」


「やっぱり早いわあ」


 そこへ、会館の中から別のおばさんが出てきた。


「あら、太郎さん!」


 もうやめてくれ。

 商店街側でも普通に名前が通るのか。


「お疲れさま」


「いや、別にそんな大したことじゃ」


「でも助かるわよ。

 こういうの気づいてても、なかなか誰も手を出さないから」


 その言い方をされると、こちらは弱い。

 正論だからだ。


 大したことではない。

 でも、誰もやらない。

 そういう小さいことを片づける人間がいると、たしかに周囲は少し楽になる。


 梅子さんがさらに追撃してくる。


「太郎さん、商店街の方でも顔覚えられてるわねえ」


「それ、今言わないでください」


「でも本当よ」


 本当であることが、いちばん厄介なのだ。


「やめてほしいんですよ、そういうの」


「何でえ?」


「完全に活動範囲が広がってる感じするじゃないですか」


 俺がそう言うと、会館のおばさんは少しだけ笑った。


「広がってるんじゃなくて、もともと近いのよ」


「いや、それが違うんですって」


 このズレが永遠に埋まらない。

 近さの認識が違うのだ。


「太郎さん、今度の商店街の掃除の日も来られる?」


 会館のおばさんが、何でもない感じで聞いてきた。


「来ません」


 即答した。

 そこだけは即答した。


「あら、まだ先よ?」


「そういう問題じゃないです」


 梅子さんが笑っている。

 何が面白い。


---


 帰り道、自転車を押しながら俺はかなり微妙な顔をしていたと思う。


 商店街。

 会館。

 文房具屋。

 掲示板。

 花壇。

 もう完全に、近所の外縁に片足を突っ込んでいる。


 それを嬉しいとは思わない。

 だが、完全に嫌なだけでもないから面倒なのだ。


「太郎さん」


 梅子さんが後ろから言う。


「何ですか」


「ほんと助かったわあ」


「またそれですか」


「だって本当だもの」


「その言い方、ほんとにずるいんですよ」


「でも事実よ?」


 この人は本当に、善意の使い方がうまい。

 悪意がないからこそ、こちらが変に反発もしづらい。


「近所の外まで善意で押し出すの、やめてください」


 俺がそう言うと、梅子さんは楽しそうに笑った。


「押し出してるんじゃないのよ。

 ちょっと広がってるだけ」


「それを押し出してるって言うんです」


 だが、言い返しながら、自分でも少しだけわかってしまう。

 押し出されている、だけでもないのかもしれない。

 結局ここまで来て、掲示板を直して、札を立て直して、店員と会話して、それなりに成立して帰っているのだから。


 広がっている。

 それはたぶん、本当にそうなのだ。


---


 家へ戻ると、良子がすぐ聞いてきた。


「どこまで行ってたの?」


「商店街の方」


「うわ、広がったねえ」


「お前まで同じこと言うな」


「でもそうじゃん」


 ひなが横から、かなり当然みたいに言う。


「おじさん、もうそのへん全部行けるよね」


「全部ではない」


「でも前よりずっと」


 それは否定しづらい。


 富子は台所から言った。


「何してきたの?」


「掲示板と、花壇の札」


「あら、そんなのまで?」


「そうなんだよ。

 活動範囲広げられてるんだよ」


 富子は少しだけ笑った。


「頼られるのは悪いことじゃないでしょ」


「限度がある」


「でも、行ってきたんでしょ」


 ……それも正しい。


 正しいから困る。


---


 夜。

 自室。


 椅子に座って、机に肘をつく。

 エナジードリンクを開ける。

 今日もよくこの部屋まで戻ってきたな、と思う。


「梅子さん、活動範囲を広げるのはやめてください……」


 思わずそのまま呟く。


 でも、ただやめてほしいだけでもない。

 商店街側で顔を覚えられていること。

 店員に自然に話しかけられること。

 会館のおばさんに名前で呼ばれること。

 どれも少し落ち着かないが、前の俺ならそこに立ってもいなかった。


 そこまで行けるようになった。

 行けば何とかなる。

 何とかして帰ってこれる。


 面倒だ。

 かなり面倒だ。

 でも、それが今の自分の生活圏なのかもしれなかった。


「……善意で包囲されるの、ほんと強いんだよな」


 最後にそう呟いて、少しだけ笑った。


 梅子さんルートは、たぶんこれからも続く。

 できれば少し控えめであってほしいが、たぶん無理だろう。

 そういう諦めまで含めて、最近の俺の生活はわりとちゃんと回っていた。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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