「エアコンのリモコンはどこだ」
家の中には、家の中にしか存在しない謎がある。
外の世界の謎はまだわかりやすい。
なぜ人は赤の他人に「最近どう?」と聞いてくるのか。
なぜ営業は、明らかにこちらが出たくなさそうな気配を放っていても二回目のチャイムを押せるのか。
なぜコンビニ店員は、こちらの買い物内容を覚えているのか。
そのへんはまだ、“他人”という不可解な存在に原因を押しつけられる。
だが、家の中の謎は違う。
家という閉じた空間で、さっきまであったはずの物が消える。
動くはずのない物が動き、置いた覚えのない場所から出てくる。
それは単なる紛失ではない。
生活という名の流れに、物が呑まれていく現象である。
そして俺は、その流れをわりと読める。
その日、佐藤家のリビングは暑かった。
外は真夏。
昼過ぎ。
良子とひなが来ていて、いつもより人口密度の高い家の中に、じっとりとした熱気がこもっていた。
富子は台所で昼飯の後片づけをしている。
良子はソファにだらしなく座ってスマホを見ている。
ひなは床にしゃがみ込み、何かのシール帳を広げていた。
そして俺は、リビングの端で麦茶を飲みながら、可能な限り存在感を薄くしていた。
理想を言えば、自室に避難していたかった。
だが、この暑さではさすがに下のエアコンの恩恵を受けたい。俺の部屋の冷房は効きが悪いし、何より一階の空気の方がまだまともだ。
「お母さん、エアコンつけてよー」
良子がうんざりした声で言った。
「さっきまでついてたじゃない」
富子が台所から返す。
「切れてるよ」
「え?」
富子が顔を出す。
エアコン本体のランプは消えていた。
「ほんとだ」
「暑いんだけど」
「じゃあリモコン取って」
そこで、誰も動かなかった。
良子はソファの上から周囲を見回し、クッションの脇を探る。
ひなも何となくきょろきょろする。
俺は麦茶のコップを持ったまま、嫌な予感を覚えた。
「……ない」
良子が言った。
「そこらへんにあるでしょ」
富子が雑に返す。
「ないって」
「テーブルの上は?」
「ない」
「新聞の下とか」
「ない」
富子が台所から出てきた。
リビングのテーブル、ソファの上、テレビ台の前。ひととおり目で追って、眉をひそめる。
「あら、本当にない」
「何でなくなるのよ、リモコンが」
「知らないわよ」
知らないから困っているのだ。
エアコンのリモコン。
さっきまで間違いなく家の中にあったはずの、薄くて白くて存在感のないプラスチックの棒状物体。
なくなると急に支配力を持つ。
ひなが、ちょっと楽しそうな顔で言った。
「たんていする?」
お前は楽しそうだな。
だが、その軽さが逆に良かった。
家の中の小さな混乱というのは、誰か一人くらい“イベント”として見ている人間がいると少し救われる。
良子はソファの上に転がったまま、クッションを持ち上げる。
「お母さんさあ、ちゃんと置く場所決めなよ」
「決まってるわよ、テーブルの上って」
「決まってないじゃん、それ」
「前はそれで困らなかったの」
「前っていつ」
会話が雑だ。
そして、雑な会話では物は見つからない。
俺はコップを置いた。
「最後に使ったの誰」
三人が同時にこっちを見た。
その視線に、俺は少しだけ居心地の悪さを覚える。
普段この位置にいる俺が急に会話へ入ると、それだけで妙な注目を集めるのだ。
良子が最初に口を開いた。
「たぶんお母さんじゃない?」
「私?そうだっけ」
「昼ごはん前につけてたでしょ」
「そうだったかも」
富子は曖昧だった。
だが、高齢者の曖昧さを責めても仕方ない。問題は情報を積み上げることだ。
「切ったのは?」
「私じゃないよ?」
良子が即座に言う。
「私も知らないわよ」
富子も否定。
ひなが手を上げた。
「ひな、ボタンおしたかも」
全員がひなを見る。
「押したの?」
良子が聞く。
「ちがうの、なんかピッてやりたくて」
「やりたくて、じゃないのよ」
良子は頭を抱えた。
だが、これは有力情報だ。
「最後に触ったの、ひなか」
「たぶん」
「どこで?」
「ここ」
ひながテーブルの前を指差す。
そこからソファ、ラグの上、テレビ前の空間が目に入る。
俺は立ち上がった。
ここからは整理だ。
探し物に必要なのは勢いではない。流れの把握である。
「ちょっと待て。順番にいく」
良子が吹き出した。
「何その本格派」
「黙ってろ」
「いや、だってリモコンだよ?」
「リモコンだからだろ。小さいし薄いし、生活の流れに呑まれやすい」
言いながら、自分でも妙に真剣だなと思う。
だが、家の中の失せ物というのは、なめた態度で向き合うとだいたい長引く。
俺はまずテーブルの上を見た。
ない。
新聞の下、チラシの間、ティッシュ箱の横。ない。
次にソファ。
「そこ、どいて」
良子が少しずれてくれる。
クッションの隙間。座面と背もたれの境目。ソファ下。ない。
ひなが床に這いつくばる。
「ひなもさがす!」
「わかったから踏むなよ」
「ふまない」
わりと信用できない返事だった。
富子が扇子で顔をあおぎながら言う。
「そんな大げさにしなくても、そのへんにあるわよ」
「その“そのへん”を具体化しないから見つからないんだよ」
「何でリモコンひとつでそんな偉そうなの」
「偉そうじゃない。手順だ」
俺はラグの端をめくった。
何もない。
座布団を見る。
夏場だから数は少ないが、一枚だけソファ前に敷いてある。ひながさっきそこに座っていた気がする。
「ひな、さっきどこ座ってた」
「ここ」
ひなが指差す。やはり座布団の上。
「そのあと?」
「シールみてた」
「どこで」
「ここ」
ラグの中央あたり。
つまり、テーブル前から座布団に移動し、その後ラグ中央へ行っている。途中で何かを手放す可能性が高いのは――。
俺は座布団を持ち上げた。
そこに、あった。
白くて薄い、見慣れた長方形。
エアコンのリモコン。
「おお」
ひなが先に声を上げた。
良子がソファから身を乗り出す。
「え、そこ?」
富子も近づいてくる。
「あらまあ」
俺は座布団の下からリモコンを引き抜き、軽く掲げた。
「発見」
ほんの一瞬だけ、部屋の空気が止まった気がした。
誰も拍手はしない。
しないが、この“ちゃんと見つかった”という事実が小さく場を支配する瞬間は、嫌いではない。
ひなが目を丸くして俺を見上げた。
「おじさん、すごい」
その言葉は、予想外にまっすぐ胸へ入ってきた。
リモコン一つで、である。
だが、リモコン一つだからこそ、その言葉に余計な誇張がない。
「……まあ、家の中のことだからな」
できるだけ平然を装って言ったが、少しだけ声が上ずった気がする。
良子が呆れたように笑う。
「ほんと、そういうのだけ無駄に強いよね」
「無駄じゃないだろ。今かなり役立ったぞ」
「まあ、そうだけど」
富子がリモコンを受け取る。
「助かったわ。暑くてたまらなかったのよ」
「最初からちゃんと順番に探せばすぐだった」
「はいはい、名探偵さん」
言い方に若干の雑さはあるが、否定ではない。
そこは素直に受け取っておくべきだろう。
富子がエアコンをつける。
ピッ、という電子音。
数秒後、冷たい風が流れ始めた。
生き返る。
良子がソファに沈み込みながら言う。
「ていうか、ひな。リモコンで遊ばないの」
「はーい」
返事が軽い。
「はい、じゃないの。なくなると困るでしょ」
「でもみつかった」
「みつかったけど」
その時、ひながまた俺の方を見た。
「おじさん、なんでわかったの?」
俺は少し考えた。
何で、と言われても、理屈はある。
人が最後にどこで何をしていたか。
小さいものは布や紙に紛れやすいこと。
子どもは手に持った物を、次の興味へ移る瞬間に雑に置くこと。
そして座布団は、薄い物を簡単に隠す。
全部言うと長い。
しかも子ども相手に伝わる気もしない。
だから俺は短く答えた。
「家がどういうふうに物を飲み込むか、何となく知ってるからだ」
ひなはぽかんとした。
「いえがのむの?」
「飲まないけど、そういう感じだ」
「またへんなこと言ってる」
良子が笑う。
だが、ひなは笑わなかった。
少しだけ真面目な顔で、もう一度リモコンと俺を見比べる。
「でも、すごい」
やっぱり、そう言った。
俺は視線を逸らし、麦茶のコップを取りに行った。
照れているのを見せるのは、ひどく大人げない気がしたからだ。
コップを手に戻る頃には、もう会話は別の話題へ移っていた。
良子はスマホを見ている。
富子は台所に戻る。
ひなはエアコンの風に「あー」と顔を向けて遊んでいる。
日常は流れていく。
リモコンが見つかったことも、たぶん数時間後には忘れられる程度の小さな出来事だ。
それでいい。
たぶん、こういうのはそれでいい。
俺はリビングの端へ戻り、静かに腰を下ろした。
だが、さっきの「すごい」は、しばらく耳に残っていた。
大したことではない。
ましてや誇るようなことでもない。
リモコンの場所を当てただけだ。
それでも、家の中のこういう小さな混乱を、俺はわりと解ける。
それはたぶん、長くここにいて、ここでの人の動きや物の流れを見てきたからだ。
外ではほとんど役に立たない観察眼かもしれない。
だが、この家の中では違う。
家の中なら、俺は少しだけ強い。
エアコンの冷気が、さっきまでの熱気を少しずつ押し流していく。
良子がソファの上で伸びをしながら、わざとらしく言った。
「じゃあ今度から、探し物係お兄ちゃんでいいじゃん」
「やめろ」
「適任でしょ」
「雑に役職つけるな」
台所から富子まで乗ってきた。
「それいいわね。太郎、探し物係」
「よくない」
「でもすぐ見つけたじゃない」
「たまたまだ」
「そういうことにしとけば?」
良子がにやにやする。
ひなまで楽しそうに言った。
「たんていおじさん!」
「やめろって」
やめろと言ったが、言い方にそこまで本気はこもらなかった。
探し物係。
探偵おじさん。
どちらも大した肩書きではない。
だが、少なくとも“何もしない人”よりは、ほんの少しだけましに聞こえる気もした。
俺は麦茶を一口飲んだ。
冷えていて、少しだけうまかった。
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