「Wi-Fiが死んだ夜」
文明とは、脆い。
人類は火を得て、言葉を得て、社会を築き、電気と通信によって巨大な情報網を作り上げた。
そして今、その恩恵の上で生きる俺たちは、あまりにも多くのものを“当たり前”として受け入れている。
Wi-Fiもその一つだ。
見えない。
触れない。
なのに、なくなった瞬間、人生の基盤そのものが揺らぐ。
その夜、俺は自室で極めて平穏な任務遂行中だった。
動画サイトで気になっていた考察動画を流しつつ、別窓ではソシャゲのデイリーを処理し、さらに片隅では掲示板を巡回する。
三正面同時展開。
決して褒められた集中の使い方ではないが、こうした並行処理こそが現代自宅警備員の基本戦術である。
机の上には飲みかけの麦茶。
部屋は薄暗く、快適。
階下からは富子が風呂の準備をしているらしい音が微かに聞こえる。
すべてが通常だった。
だからこそ、最初の異変はあまりに小さかった。
動画が、一瞬だけ止まったのだ。
「ん?」
再生バーが止まり、くるくると読み込みマークが回る。
ほんの数秒。
その程度なら、たまたまかもしれない。
俺はマウスを止め、画面を見つめた。
動画は再開した。
よし。
そう思って、ソシャゲの画面に目を移す。
ちょうど戦闘結果の読み込み中だった表示が、こちらも妙に長い。
「…おい」
嫌な予感がした。
掲示板のタブを更新する。
読み込みが遅い。
いや、遅いどころか、途中で止まる。
俺は椅子の上で静かに姿勢を正した。
異変発生。
しかも複数の窓で同時。
個別アプリの不具合ではない。
端末依存の可能性もあるが、動画、ゲーム、ブラウザの全部が揃って重いとなると、まず疑うべきは回線だ。
Wi-Fi。
血の気が引いた。
「いや、待て。落ち着け」
誰も聞いていない部屋で、自分に言い聞かせる。
まず切り分けだ。
何事も、感情から入るのはよくない。
冷静に、順を追って、原因を絞り込む。
――と、頭では言う。
だが実際には、心拍はすでに少し速い。
俺はスマホを手に取り、画面右上のWi-Fiマークを確認した。
表示はある。
掴んではいる。
だが、掴んでいることと、ちゃんと飛んでいることは別問題だ。
ブラウザを開く。
適当なニュースサイトを読み込む。
遅い。かなり遅い。
「クソ…」
口から小さく漏れる。
時間帯の問題か?
回線が混んでいる?
それともルーターの不調?
いや、もっと嫌なのは、プロバイダ側の障害だ。
その場合、こちらにできることは限られる。
だが諦めるにはまだ早い。
俺はノートPCのWi-Fi設定を開いた。
接続状況、電波強度、IP。
ぱっと見で異常はない。
となると、ルーターか。
あるいは物理層。
配線。
コンセント。
電源。
そこまで考えた時点で、すでに俺の頭は半分技術者モードに入っていた。
家電や配線相手だと、俺は少しだけまともになる。
人間は駄目だ。
雑談も、会話も、空気の読み合いも苦手だ。
だが、機械の不調には必ず原因がある。
理屈で追える。
そこがいい。
俺は立ち上がった。
部屋の隅、ルーターが置いてある棚へ向かう。
ランプの状態を見る。
電源ランプ、点灯。
通信ランプ――点滅が妙に不安定だ。
いや、気のせいか?
普段からちゃんと観察していないと、こういう時に正常がわからなくなるのが嫌だ。
ルーターに手をかざす。
熱は持っているが、異常な発熱というほどではない。
「再起動…いや、まだだ」
最後の手段を早々に切るのは良くない。
再起動は万能に見えて、再接続の時間や、下手をすると状態の悪化もあり得る。
もっと情報を集めるべきだ。
スマホで回線障害情報を調べようとして、読み込みが遅いせいで余計にイラつく。
意味がない。
今欲しいのは“外の障害情報”ではなく、“うちの中で何が起きているか”だ。
階下から富子の声がした。
「太郎ー」
今は駄目だ。
こっちは非常時だ。
「何」
「お風呂入るなら早くしなさいよ」
「今は無理だ」
「なんで」
「回線が死にかけてる」
数秒の沈黙。
その沈黙の質だけで、富子が理解していないことはわかった。
「知らないわよ、そんなの」
そりゃそうだろうな。
「でも今日なんか動画見てるとよく止まるわよ」
俺は動きを止めた。
「…何?」
「さっき台所でレシピ見てたら、なんかくるくるしてた」
早く言え。
だが、これは重要な情報だった。
つまり俺の端末だけではない。
家全体の通信が不調。
端末個別ではなく、ルーターか、その手前か、あるいはもっと単純な電源系の問題。
俺はすぐに階下へ降りた。
富子は台所で、洗い物の手を止めもせずこちらを見る。
「何よ、そんな顔して」
「その話もっと早く教えろよ」
「何でよ。今聞かれたから言っただけでしょ」
もっともだった。
俺はリビングの隅へ目を向けた。
佐藤家のメインルーターは、電話台の下の棚に仮置きされている。
本来ならもっと風通しのいい場所に置くべきだが、富子の“見えるところにごちゃごちゃした機械を置きたくない”という強い意志により、現在の微妙な位置に落ち着いていた。
しゃがみ込む。
ランプを見る。
やはり微妙だ。
さらにその奥、タコ足気味の電源タップ。
電話機。
ルーター。
ONU。
よくわからない充電器。
こういう“よくわからない”のが一番危険なのである。
俺は配線を一本ずつ目で追った。
電源は来ている。
だが、コンセント周りに微妙な引っ張りがかかっている気がする。
棚の横に置かれた買い物袋。
その上に積まれた新聞。
さらに掃除機のコード。
嫌な予感がした。
「これ、誰かここ触った?」
「知らないわよ」
「掃除しただろ」
「したけど」
「その時、動かした?」
「ちょっとは」
はい来た。
俺はコンセントの差し込み口を確認した。
ルーターの電源プラグが、ほんのわずかに浮いている。
ほんのわずか。
抜けていると言い切るには浅い。
だが、接触不良を起こすには十分なレベル。
「これだ…」
「何が?」
「半抜けだ」
「え?」
「コンセントだな」
俺はプラグを奥までしっかり押し込んだ。
カチ、と小さな感触。
それだけで、ルーターのランプの点滅が安定する。
数秒待つ。
スマホでページ更新。
速い。
上だ。
自室だ。
俺は階段を駆け上がり、PCの前へ戻った。
動画を再読み込み。
すんなり動く。
掲示板更新。
一瞬。
ゲームの通信も正常。
勝った。
俺は椅子に座ったまま、大きく息を吐いた。
「よし…!」
終わってみれば単純な原因だった。
だが、単純なことほど見落としやすい。
そして、その単純さを見抜けるかどうかが経験の差になる。
俺は軽く目を閉じ、復旧の達成感に浸った。
誰も褒めないだろう。
富子にとっては“つながらなかったものがつながった”だけだ。
だが、家の中の見えないインフラを救ったのは間違いなく俺だった。
控えめに言って、功績である。
その時だった。
部屋のドアが開いた。
富子だ。
そして、その手には掃除機があった。
「はい」
嫌な予感しかしない一言だった。
「…何」
「ついでにこのへん掃除しなさい」
俺は顔をしかめた。
「何でそうなる」
「何でって、あんなに埃たまってるんだもの。さっき下のルーター見た時もすごかったし、あんたの部屋のコンセントまわりもやばいでしょ」
「今は緊急対応が終わったところなんだよ」
「終わったならちょうどいいじゃない」
「よくない。余韻があるだろ」
「何の」
「復旧の」
「いらないわよそんな余韻」
ひどい話だった。
俺は掃除機を見た。
富子は本気だ。
この人は、家電のトラブルが“解決した”という事実を、そのまま“ならついでに片づけもできる”へ接続する。
生活者の思考はいつだって無駄がない。
そして無情だ。
「今じゃないと駄目か」
「今じゃないとやらないでしょ、あんたは」
何も言い返せない。
俺は渋々立ち上がった。
机の横。
ベッドの下。
ルーター周辺。
ケーブルの隙間。
たしかに、見ないふりをしてきた埃はいた。
いるどころではない。
かなりいる。
長期駐留部隊である。
「うわ…」
思わず声が出た。
富子がドアのところで腕を組む。
「でしょ」
「これは…見なかったことにしたいレベルだな」
「した結果がそれなの」
正論が多い。
俺は掃除機の電源を入れた。
低い駆動音が部屋に広がる。
ケーブルを一本ずつ持ち上げ、埃を吸い、棚の裏を掃除する。
やり始めると、妙に気になってくる。
この辺を整理すれば、次から切り分けもしやすい。
タップの位置も変えたい。
ラベルを貼るのもありかもしれない。
――いかん。
変なところでやる気が出ている。
「ちゃんとやってるじゃない」
富子が感心したように言う。
「やる時はやる」
「最初からたまらないようにやればいいのに」
「それは理屈だろ」
「生活ってだいたい理屈よ」
それも、まあ、そうなのかもしれない。
掃除は二十分ほど続いた。
終わる頃には、少なくともルーター周辺の見た目はかなりましになっていた。
俺は掃除機を止め、額の汗を手の甲で拭った。
ただコンセントを押し込んだだけで済んだはずの問題が、なぜ部屋の清掃にまで発展するのか。
世の中は本当に連鎖でできている。
富子は部屋を見回し、小さくうなずいた。
「うん。だいぶましね」
「評価が低いな」
「元がひどいもの」
否定できないのがつらい。
富子は掃除機を持ち直し、部屋を出る前に言った。
「でもまあ、直してくれて助かったわ」
俺は顔を上げた。
それは本当に、何でもない口調だった。
生活の中の、ごく自然な一言。
大げさな感謝ではない。
だが、だからこそ変に刺さる。
「…別に」
「別にじゃないでしょ。つながらないと困るんだから」
そう言って、富子は掃除機を引きずりながら階下へ戻っていった。
ドアが閉まる。
部屋に静けさが戻る。
モニターの光。
復旧した通信。
少しだけ整った足元。
俺は椅子に座り直し、動画を再生した。
今度は止まらない。
ページの読み込みも速い。
ゲームの画面遷移も滑らかだ。
完璧だった。
いや、完璧というのは言いすぎかもしれない。
掃除までさせられた。余計な労力も発生した。
だが、それでも。
俺は確かにこの家の通信環境を救ったのだ。
そして、おそらく誰もそこまで大きくは思っていない。
それでいい。
こういう仕事は、だいたいそういうものだ。
見えないところを支えて、見えないまま終わる。
自宅警備員の功績など、そもそもそんなものかもしれない。
俺は麦茶を一口飲み、ゆっくり息を吐いた。
「…敵は外だけじゃないな」
小さくそう呟いてから、付け足す。
「家の中にもいる」
具体的には、半抜けのコンセントと、生活力の高すぎる母親である。
動画の中では、考察役の配信者が何かを熱く語っていた。
掲示板は今日も回っている。
ゲームも日課を待っている。
文明は脆い。
だが、今夜のところは、まだこちらの勝ちだった。
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