「妹の襲来」
休日とは、気を抜ける日のことではない。
少なくとも、実家暮らしの自宅警備員にとっては違う。
平日は外の世界が動く。
休日は家の中が動く。
どちらにしろ、こちらの平穏は脅かされるのだ。
その日の朝、俺は目を覚ました瞬間から、妙な胸騒ぎを覚えていた。
理由はある。
前日の夜、寝る直前に富子が何気なく言ったのだ。
「明日、良子たち来るから」
それだけで十分だった。
良子。
俺の妹。
既婚、子持ち、口が達者で、兄に対する遠慮という概念を母親の胎内に置いてきた女。
そして“たち”の中には当然、娘のひなも含まれている。
ひなはまだ小学生だ。
悪い子ではない。
むしろ普通にかわいい。
ただ、普通にかわいい子どもであるがゆえに、こちらの異常性がまっすぐ映り込む。
あの年頃の子どもは、空気を読む前に本質を見抜くことがあるから恐ろしい。
つまり今日は、家の中の防衛が必要になる。
俺は朝から慎重に行動していた。
リビングに降りる時間。
トイレへ行くタイミング。
冷蔵庫の麦茶を補給するルート。
すべてを“遭遇率最小”で組み立てる。
だが、その努力もむなしく、午前十一時過ぎには一階から、よく通る女の声が響いた。
「ただいまー」
来た。
俺は椅子の上で固まった。
階下から続けて、ぱたぱたと軽い足音。
ひなのものだろう。
富子の「いらっしゃい」が聞こえ、その直後には、すでに良子の喋る速度が富子の返事を追い越していた。
「お母さん、これお土産。あとひなが朝からずっとお腹すいたってうるさくてさー、あ、靴ちゃんと揃えなさいって、ひな~聞いてる?」
騒がしい。
家の中の空気が一気に軽く、速くなる。
休日の訪問者とは、だいたいこういうものだ。
悪意なく、家全体の温度を変えていく。
俺はそっと自室のドアを閉め直した。
気配を消す。
これが最善だ。
良子は俺が家にいることを知っているだろう。
だが、だからといってわざわざ出向いてやる義理はない。
向こうだって、俺と喋りに来ているわけでは――いや、どうだろう。
良子の場合、暇つぶしで兄をいじるくらいはやる。
やはりここは、潜伏が正解だった。
階下ではすでに会話が始まっている。
「お母さん、今日も元気そうじゃん」
「そっちこそ。ひな、ちゃんと手洗った?」
「洗ったー」
「すごい適当な返事ねえ」
「ほんとだよ。朝からずっと喋ってるしこの子」
「ママー、ジュースー」
「来てすぐジュース言わないの」
その普通のやり取りを聞きながら、俺は机に向かった。
PCを開く。
何か見ていれば気が紛れる。
たとえ実際には、階下の会話に意識の半分を持っていかれているとしても。
数分後。
「お兄ちゃん、いるんでしょー?」
来た。
声がでかい。
しかも一階から、わざわざ通るように呼ぶな。
俺は息を殺した。
無視。
ここは無視が正解だ。
下手に返事をすると、その時点で“捕捉”されたことになる。
「お兄ちゃーん」
やめろ。
その呼び方を外に漏らすな。
三十九歳の男を実家の一階から“お兄ちゃん”と大声で呼ぶ状況は、いろいろな意味で防御力が低い。
数秒の沈黙。
よし。
このままならいけるかもしれない。
そう思った直後、今度は別の小さな声がした。
「…おじさん、いるの?」
ひなだ。
その一言は、良子の大声より妙に刺さった。
いる。
いるが、どう答えるのが正解なのかわからない。
ここで即答したら変か。
いや、そもそも黙っている時点でだいぶ変だが。
結局、俺は何も言わなかった。
すると階下で良子が笑う気配がした。
「ほら、いるのに出てこない」
「なんで?」
「なんでだろうねえ」
「ねえ、なんでー?」
やめろ。
子どもに追撃させるな。
富子の声が割って入る。
「あんたたち、着いたばっかりで何やってんの。太郎は太郎でいるんだから、そのうち降りてくるでしょ」
母さんのこの距離感だけは助かる。
突き放しもしないし、過度に持ち上げもしない。
ただ“そのうち”にしてくれる。
今の俺にはそれが一番ありがたい。
だが、問題は別に消えていない。
トイレに行きたい。
非常に現実的で、非常に情けない問題だった。
朝のコーヒーと麦茶のせいだろう。
じわじわと限界が近い。
俺は机に肘をつき、真剣に考えた。
今、降りるべきか。
いや、まだ無理だ。
着いて間もない今は、会話イベントの密度が高すぎる。
あと十分。
十分待てば、たぶん向こうも落ち着く。
ひなもジュースかお菓子に気を取られ、良子も富子と世間話に入る。
そこがチャンスだ。
俺は自分にそう言い聞かせた。
しかし現実は、こちらの計算通りには運ばない。
十分後、階下からさらに元気な声が響いた。
「お母さん、そういえばお兄ちゃん相変わらず部屋?」
「そうねえ」
「すごー」
何が“すごー”だ。
「ひな、おじさん見てみる?」
「えー…」
やめろ。
何だその動物園の珍獣を見るみたいなノリは。
しかも“えー…”って何だ。嫌がられ方がじわじわ来る。
俺はとうとう立ち上がった。
トイレも限界だったし、何よりこのまま好き勝手言われ続けるのも腹が立つ。
いや、腹が立つというより、防衛線を踏み荒らされている感覚に近い。
ドアを開ける。
廊下へ出る。
階段を下りる。
一段下りるたびに、階下の空気がはっきりしてくる。
テレビの音。
お菓子の袋の擦れる音。
良子の声。
ひなの小さな笑い声。
そして、俺の足音に気づいたらしい沈黙。
リビングの入口に姿を見せた瞬間、良子がぱっと顔を上げた。
「うわ、いた」
「いたよ」
何だその第一声は。
ソファに座る良子は、相変わらずだった。
肩までの髪を適当にまとめ、ラフな服装なのに妙に生活感が完成している。
隣にはひな。
小さな手でジュースのパックを持ち、こちらを半分だけ警戒した目で見ていた。
富子は台所から振り向くだけで、特に驚きもしない。
俺が出てきたこと自体は、珍しくても異常ではない、という反応だった。
「…何だよ、その言い方」
「いや、ほんとにいたんだなって」
「さっきから呼んでただろ」
「返事しないから、最悪壁の一部になってるのかと思った」
「なるか」
良子はけらけら笑った。
こいつは本当に、兄の尊厳というものを小銭より軽く扱う。
俺はひなの方を見た。
「…どうも」
できるだけ穏やかに言ったつもりだった。
ひなはジュースのストローをくわえたまま、小さく会釈した。
「どうも…」
距離がある。
わかっていたが、改めて意識するとだいぶ離れている気がする。
ひなは良子の腕に少し寄りながら、こちらを見上げてきた。
好奇心と警戒心がきれいに半分ずつ入った目だ。
「おじさんって、いつも二階にいるの?」
「…まあ、いる時はいる」
「ずっと?」
「ずっとではない」
「でもさっきからいたよ?」
子どもは正確だ。
「それは、たまたまだ」
「ふーん」
全然納得していない声だった。
良子がニヤニヤしている。
「お兄ちゃんさあ、せめてもうちょっと人間っぽく出てこられないの?」
「人間だよ」
「今の出方、ほぼ幽霊だったけど」
「階段から来ただけだろ」
「気配が薄いのよ」
気配を消していたのだから当然である。
だがそれを説明するのも違う気がした。
富子が台所から皿を持ってきた。
「はいはい、立ってないで座れば」
「いや、いい」
「何でよ」
「その、別に…」
本当はトイレに行きたかっただけだ。
だが今ここで“トイレに行きたいから出てきた”とは言いたくない。
兄として以前に人間として。
良子が俺の服を見て眉を上げた。
「うわ、そのジャージまだ着てるの?」
きた。
俺は反射的に裾を見下ろした。
たしかに古い。
色も落ちている。
だが着心地はいいし、自室運用においては十分すぎる性能を持つ。
「機能性が高いんだよ」
「十年選手みたいな見た目してるけど」
「生地が馴染んでる」
「それ世間では“くたびれてる”って言うの」
ひなが良子を見上げる。
「くたびれてるの?」
「くたびれてるよー」
「くたびれてない」
思わず言い返すと、ひながこちらを見て首を傾げた。
「でも、よれよれ」
やめてくれ。
悪意がない分だけ、すべてが真っ直ぐ急所に入る。
俺はその場にいたたまれなくなって、ようやく本来の目的を思い出した。
「…トイレ行くから」
「報告いらないけど」
良子が即座に返してくる。
「じゃあ言わせるなよ」
「誰も止めてないでしょ」
たしかに。
俺は言い返すのを諦め、そのまま廊下の奥へ向かった。
背中越しにひなの小さな声が聞こえる。
「ママ、おじさんおもしろいね」
足が一瞬止まりかけた。
それはいい意味か。
悪い意味か。
いや、たぶん半々だろう。
子どもの“おもしろい”は危険である。
用を足し、洗面所で顔を洗う。
鏡を見る。
「…ひどいな」
さっきよりはマシだが、やはり冴えない中年がいるだけだった。
これが“おじさん”として認識される現実は避けようがない。
戻るか、部屋へ逃げるか。
少し迷ったが、今戻らないと逆に不自然だ。
俺は覚悟を決めてリビングへ戻った。
すると、もっと嫌な光景が待っていた。
良子が立ち上がっていた。
「ねえ、お兄ちゃんの部屋見ていい?」
「よくない」
即答だった。
良子は面白そうに笑う。
「何で」
「何でも」
「ひな、見たいよね?」
「えー…ちょっとだけ」
ちょっとだけでも駄目だ。
俺は本気で眉をひそめた。
「やめろ」
「何でそんな必死なの」
「いや、普通に嫌だろ」
「家族なのに?」
「家族だからだろ」
それは本音だった。
赤の他人に見せたくないものと、家族に見せたくないものは種類が違う。
家族には、過去の自分まで知られているぶん、現在の自分の雑然さが余計に刺さるのだ。
良子はずいっと一歩近づいてきた。
「どうせまた変なフィギュアとか積んでるんでしょ」
「変じゃない」
「じゃあ見せられるじゃん」
「そういう問題じゃない」
「そういう問題でしょ」
押し問答になりかけたところで、ひながぽつりと言った。
「おじさんのおへや、こわいの?」
俺と良子は同時にひなの方を見た。
ひなは真剣な顔をしている。
たぶん本気で気になっているのだろう。
俺は少しだけ言葉に詰まった。
「…怖くはない」
「じゃあなんで見せてくれないの?」
「その…」
散らかってるから。
暗いから。
オタクグッズが多いから。
どれも正しい。
だが、子ども相手にそのまま言うのも違う気がする。
結局、俺はもっとも抽象的な答えを選んだ。
「結界がある」
「けっかい?」
ひなが目を丸くする。
良子は横で吹き出した。
「何それ」
「部屋には部屋の空気があるんだよ。むやみに開けると乱れる」
「お兄ちゃんほんとそういう言い方好きだよね」
好きというか、直球で説明しにくいことを濁した結果である。
ひなは少し考え込むような顔をしてから、さらに聞いてきた。
「じゃあ、ちょっとだけならいいの?」
詰め方がうまい。
いや、うまいというより、単純に好奇心の押しが強いのだろう。
この年齢の“ちょっとだけ”は信用できない。
だが、完全拒否を続けると余計に怪しさが増す。
富子が横から口を挟んだ。
「ほんとにちょっとだけにしなさいよ、ひな」
母さんまで何でそっちにつくんだ。
「お母さんまで…」
「別に全部見せろって言ってるわけじゃないでしょ」
その通りだが、問題は量ではない。
突破されたという事実である。
だが、四対一では分が悪すぎた。
俺は長く息を吐いた。
「…ドアの前までだぞ」
「やったー」
ひなが立ち上がる。
良子までついてこようとするので、俺はすぐさま牽制した。
「良子は来るな」
「何でよ」
「面白がるだけだから」
「当たり前でしょ」
「ほらな」
富子が笑いを噛み殺しながら、皿を下げている。
完全に見世物である。
俺は仕方なく、ひなだけを連れて二階へ向かった。
後ろからひなの軽い足音がついてくる。
途中で何度か振り返ると、目が合うたびにひなはちょっと嬉しそうにしていた。
部屋の前に着く。
「ここ」
「ここなんだ」
何だと思っていたのか。
俺はドアノブに手をかけたまま、振り返って言った。
「本当にちょっとだけだぞ」
「うん」
「騒ぐなよ」
「うん」
「あと、勝手に触るな」
「うん」
信用しきれない三連続の“うん”だった。
俺は慎重にドアを少しだけ開いた。
薄暗い部屋。
積まれた本。
机。
PC。
ゲーム機。
棚の上のフィギュア。
布団。
コード類。
雑貨。
他人から見れば雑然としているだろうが、一応の秩序がある。
ひなが隙間から中を覗き込み、最初に言ったのは、
「…くらい」
だった。
「落ち着く明るさだ」
「くらいよ」
即答だった。
ついでに二発目。
「もの、いっぱい」
「必要なものだ」
「ほんと?」
「ほんとだ」
「ほんとかなあ」
疑われている。
だが、ひなの目はすでに、奥の棚の方に向いていた。
ゲーム機の箱。
古いロボットのフィギュア。
並んだ漫画の背表紙。
怖がっているというより、未知の空間を見つけた小動物みたいな顔だ。
「これ、なに?」
指差した先は、昔買った変形ロボのフィギュアだった。
「それは…ロボだ」
「ロボなのはわかるよ」
そうだな。
「昔のアニメの」
「へえ」
ひなは少しだけ身を乗り出した。
「これ、うごくの?」
「少し」
「見たい」
その一言で、俺は数秒迷った。
本来なら触らせるべきではない。
だが、ここで頑なに拒否すると、せっかく“怖い”より“気になる”に傾いた空気が戻るかもしれない。
俺は棚からそっとそれを取り出し、変形ギミックを一箇所だけ見せた。
「おお…」
ひなの目が少し光った。
悪くない反応だった。
そこへ背後から、階段を上がってくる足音。
「ちょっと何してんの、二人で」
良子だ。
「やっぱり来たな」
「気になるでしょ普通に」
良子は部屋の中を見て、開口一番言った。
「うわ、暗っ」
「だから言っただろ」
「しかも相変わらず物多いね…うわ、これまだ持ってたの?」
「勝手に評価するな」
「ひな、あんまり長居しないのよ。なんか変なオーラ出てるから」
「出てない」
ひなは良子を見上げ、それからもう一度部屋を見た。
「へんなのいっぱいだけど…ちょっとおもしろい」
その言葉に、俺は一瞬だけ言葉を失った。
良子は吹き出した。
「変なおじさんの変な部屋だもんね」
「うるさい」
だが、ひなの“おもしろい”は、少なくとも“こわい”ではなかった。
それだけで、思ったより悪くなかった。
結局、部屋の公開は本当に数分で終わった。
ひなが勝手に入ろうとする前にドアを閉め、階下へ戻す。
良子は最後まで笑っていたが、ひなは何度も後ろを振り返っていた。
興味は消えていないらしい。
リビングへ戻ると、富子が何気ない顔で聞いた。
「どうだったの」
ひなが先に答える。
「くらかった」
「だろうねえ」
「でも、へんなのいっぱいあった」
「だろうねえ」
「でも、ちょっとおもしろかった」
その三段目にだけ、富子の目が少しだけ細くなった。
良子は笑いながら俺を見る。
「よかったね、お兄ちゃん。ひなに“ちょっとおもしろい”って認定されたよ」
「何だその評価」
「前よりマシじゃん」
…たしかに。
前回の“こわくはないけど、へん”よりは、少しだけ前進している気がしないでもない。
もちろん、それが喜んでいい進展なのかはよくわからない。
だが少なくとも、存在そのものを警戒されている段階は一歩抜けたのかもしれない。
俺はそれ以上何も言わず、コップの麦茶を一口飲んだ。
休日の家は相変わらず騒がしい。
良子は喋るし、ひなは動くし、富子はその全部をいなしながら台所を回している。
その中で俺だけが、少し浮いている。
浮いているが、完全にいないわけでもない。
それがいいことなのかどうかは、まだよくわからない。
ただ一つ、はっきりしたことがある。
部屋の結界は、完全には守られなかった。
そして、それを思ったほど悪いとも感じていない自分がいる。
俺はコップを置き、小さく息を吐いた。
「…結界は守った」
誰にも聞こえない声でそう呟く。
数秒置いてから、自分で訂正した。
「いや、半壊か」
リビングの笑い声に紛れて、その独り言は誰にも拾われなかった。
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