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最強の自宅警備員、俺  作者: きなこもち
第1章 『とりあえずで回すな』

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「妹の襲来」

 


 休日とは、気を抜ける日のことではない。


 少なくとも、実家暮らしの自宅警備員にとっては違う。

 平日は外の世界が動く。

 休日は家の中が動く。

 どちらにしろ、こちらの平穏は脅かされるのだ。


 その日の朝、俺は目を覚ました瞬間から、妙な胸騒ぎを覚えていた。


 理由はある。


 前日の夜、寝る直前に富子が何気なく言ったのだ。


「明日、良子たち来るから」


 それだけで十分だった。


 良子。

 俺の妹。

 既婚、子持ち、口が達者で、兄に対する遠慮という概念を母親の胎内に置いてきた女。

 そして“たち”の中には当然、娘のひなも含まれている。


 ひなはまだ小学生だ。

 悪い子ではない。

 むしろ普通にかわいい。

 ただ、普通にかわいい子どもであるがゆえに、こちらの異常性がまっすぐ映り込む。

 あの年頃の子どもは、空気を読む前に本質を見抜くことがあるから恐ろしい。


 つまり今日は、家の中の防衛が必要になる。


 俺は朝から慎重に行動していた。


 リビングに降りる時間。

 トイレへ行くタイミング。

 冷蔵庫の麦茶を補給するルート。

 すべてを“遭遇率最小”で組み立てる。


 だが、その努力もむなしく、午前十一時過ぎには一階から、よく通る女の声が響いた。


「ただいまー」


 来た。


 俺は椅子の上で固まった。


 階下から続けて、ぱたぱたと軽い足音。

 ひなのものだろう。

 富子の「いらっしゃい」が聞こえ、その直後には、すでに良子の喋る速度が富子の返事を追い越していた。


「お母さん、これお土産。あとひなが朝からずっとお腹すいたってうるさくてさー、あ、靴ちゃんと揃えなさいって、ひな~聞いてる?」


 騒がしい。

 家の中の空気が一気に軽く、速くなる。

 休日の訪問者とは、だいたいこういうものだ。

 悪意なく、家全体の温度を変えていく。


 俺はそっと自室のドアを閉め直した。


 気配を消す。


 これが最善だ。

 良子は俺が家にいることを知っているだろう。

 だが、だからといってわざわざ出向いてやる義理はない。

 向こうだって、俺と喋りに来ているわけでは――いや、どうだろう。

 良子の場合、暇つぶしで兄をいじるくらいはやる。


 やはりここは、潜伏が正解だった。


 階下ではすでに会話が始まっている。


「お母さん、今日も元気そうじゃん」


「そっちこそ。ひな、ちゃんと手洗った?」


「洗ったー」


「すごい適当な返事ねえ」


「ほんとだよ。朝からずっと喋ってるしこの子」


「ママー、ジュースー」


「来てすぐジュース言わないの」


 その普通のやり取りを聞きながら、俺は机に向かった。

 PCを開く。

 何か見ていれば気が紛れる。

 たとえ実際には、階下の会話に意識の半分を持っていかれているとしても。


 数分後。


「お兄ちゃん、いるんでしょー?」


 来た。


 声がでかい。


 しかも一階から、わざわざ通るように呼ぶな。


 俺は息を殺した。

 無視。

 ここは無視が正解だ。

 下手に返事をすると、その時点で“捕捉”されたことになる。


「お兄ちゃーん」


 やめろ。

 その呼び方を外に漏らすな。

 三十九歳の男を実家の一階から“お兄ちゃん”と大声で呼ぶ状況は、いろいろな意味で防御力が低い。


 数秒の沈黙。


 よし。

 このままならいけるかもしれない。


 そう思った直後、今度は別の小さな声がした。


「…おじさん、いるの?」


 ひなだ。


 その一言は、良子の大声より妙に刺さった。


 いる。

 いるが、どう答えるのが正解なのかわからない。

 ここで即答したら変か。

 いや、そもそも黙っている時点でだいぶ変だが。


 結局、俺は何も言わなかった。


 すると階下で良子が笑う気配がした。


「ほら、いるのに出てこない」


「なんで?」


「なんでだろうねえ」


「ねえ、なんでー?」


 やめろ。

 子どもに追撃させるな。


 富子の声が割って入る。


「あんたたち、着いたばっかりで何やってんの。太郎は太郎でいるんだから、そのうち降りてくるでしょ」


 母さんのこの距離感だけは助かる。

 突き放しもしないし、過度に持ち上げもしない。

 ただ“そのうち”にしてくれる。

 今の俺にはそれが一番ありがたい。


 だが、問題は別に消えていない。


 トイレに行きたい。


 非常に現実的で、非常に情けない問題だった。

 朝のコーヒーと麦茶のせいだろう。

 じわじわと限界が近い。


 俺は机に肘をつき、真剣に考えた。


 今、降りるべきか。

 いや、まだ無理だ。

 着いて間もない今は、会話イベントの密度が高すぎる。

 あと十分。

 十分待てば、たぶん向こうも落ち着く。

 ひなもジュースかお菓子に気を取られ、良子も富子と世間話に入る。

 そこがチャンスだ。


 俺は自分にそう言い聞かせた。


 しかし現実は、こちらの計算通りには運ばない。


 十分後、階下からさらに元気な声が響いた。


「お母さん、そういえばお兄ちゃん相変わらず部屋?」


「そうねえ」


「すごー」


 何が“すごー”だ。


「ひな、おじさん見てみる?」


「えー…」


 やめろ。


 何だその動物園の珍獣を見るみたいなノリは。

 しかも“えー…”って何だ。嫌がられ方がじわじわ来る。


 俺はとうとう立ち上がった。


 トイレも限界だったし、何よりこのまま好き勝手言われ続けるのも腹が立つ。

 いや、腹が立つというより、防衛線を踏み荒らされている感覚に近い。


 ドアを開ける。

 廊下へ出る。

 階段を下りる。


 一段下りるたびに、階下の空気がはっきりしてくる。

 テレビの音。

 お菓子の袋の擦れる音。

 良子の声。

 ひなの小さな笑い声。


 そして、俺の足音に気づいたらしい沈黙。


 リビングの入口に姿を見せた瞬間、良子がぱっと顔を上げた。


「うわ、いた」


「いたよ」


 何だその第一声は。


 ソファに座る良子は、相変わらずだった。

 肩までの髪を適当にまとめ、ラフな服装なのに妙に生活感が完成している。

 隣にはひな。

 小さな手でジュースのパックを持ち、こちらを半分だけ警戒した目で見ていた。


 富子は台所から振り向くだけで、特に驚きもしない。

 俺が出てきたこと自体は、珍しくても異常ではない、という反応だった。


「…何だよ、その言い方」


「いや、ほんとにいたんだなって」


「さっきから呼んでただろ」


「返事しないから、最悪壁の一部になってるのかと思った」


「なるか」


 良子はけらけら笑った。

 こいつは本当に、兄の尊厳というものを小銭より軽く扱う。


 俺はひなの方を見た。


「…どうも」


 できるだけ穏やかに言ったつもりだった。


 ひなはジュースのストローをくわえたまま、小さく会釈した。


「どうも…」


 距離がある。

 わかっていたが、改めて意識するとだいぶ離れている気がする。


 ひなは良子の腕に少し寄りながら、こちらを見上げてきた。

 好奇心と警戒心がきれいに半分ずつ入った目だ。


「おじさんって、いつも二階にいるの?」


「…まあ、いる時はいる」


「ずっと?」


「ずっとではない」


「でもさっきからいたよ?」


 子どもは正確だ。


「それは、たまたまだ」


「ふーん」


 全然納得していない声だった。


 良子がニヤニヤしている。


「お兄ちゃんさあ、せめてもうちょっと人間っぽく出てこられないの?」


「人間だよ」


「今の出方、ほぼ幽霊だったけど」


「階段から来ただけだろ」


「気配が薄いのよ」


 気配を消していたのだから当然である。

 だがそれを説明するのも違う気がした。


 富子が台所から皿を持ってきた。


「はいはい、立ってないで座れば」


「いや、いい」


「何でよ」


「その、別に…」


 本当はトイレに行きたかっただけだ。

 だが今ここで“トイレに行きたいから出てきた”とは言いたくない。

 兄として以前に人間として。


 良子が俺の服を見て眉を上げた。


「うわ、そのジャージまだ着てるの?」


 きた。


 俺は反射的に裾を見下ろした。

 たしかに古い。

 色も落ちている。

 だが着心地はいいし、自室運用においては十分すぎる性能を持つ。


「機能性が高いんだよ」


「十年選手みたいな見た目してるけど」


「生地が馴染んでる」


「それ世間では“くたびれてる”って言うの」


 ひなが良子を見上げる。


「くたびれてるの?」


「くたびれてるよー」


「くたびれてない」


 思わず言い返すと、ひながこちらを見て首を傾げた。


「でも、よれよれ」


 やめてくれ。


 悪意がない分だけ、すべてが真っ直ぐ急所に入る。


 俺はその場にいたたまれなくなって、ようやく本来の目的を思い出した。


「…トイレ行くから」


「報告いらないけど」


 良子が即座に返してくる。


「じゃあ言わせるなよ」


「誰も止めてないでしょ」


 たしかに。


 俺は言い返すのを諦め、そのまま廊下の奥へ向かった。

 背中越しにひなの小さな声が聞こえる。


「ママ、おじさんおもしろいね」


 足が一瞬止まりかけた。


 それはいい意味か。

 悪い意味か。

 いや、たぶん半々だろう。

 子どもの“おもしろい”は危険である。


 用を足し、洗面所で顔を洗う。

 鏡を見る。


「…ひどいな」


 さっきよりはマシだが、やはり冴えない中年がいるだけだった。

 これが“おじさん”として認識される現実は避けようがない。


 戻るか、部屋へ逃げるか。

 少し迷ったが、今戻らないと逆に不自然だ。

 俺は覚悟を決めてリビングへ戻った。


 すると、もっと嫌な光景が待っていた。


 良子が立ち上がっていた。


「ねえ、お兄ちゃんの部屋見ていい?」


「よくない」


 即答だった。


 良子は面白そうに笑う。


「何で」


「何でも」


「ひな、見たいよね?」


「えー…ちょっとだけ」


 ちょっとだけでも駄目だ。


 俺は本気で眉をひそめた。


「やめろ」


「何でそんな必死なの」


「いや、普通に嫌だろ」


「家族なのに?」


「家族だからだろ」


 それは本音だった。


 赤の他人に見せたくないものと、家族に見せたくないものは種類が違う。

 家族には、過去の自分まで知られているぶん、現在の自分の雑然さが余計に刺さるのだ。


 良子はずいっと一歩近づいてきた。


「どうせまた変なフィギュアとか積んでるんでしょ」


「変じゃない」


「じゃあ見せられるじゃん」


「そういう問題じゃない」


「そういう問題でしょ」


 押し問答になりかけたところで、ひながぽつりと言った。


「おじさんのおへや、こわいの?」


 俺と良子は同時にひなの方を見た。


 ひなは真剣な顔をしている。

 たぶん本気で気になっているのだろう。


 俺は少しだけ言葉に詰まった。


「…怖くはない」


「じゃあなんで見せてくれないの?」


「その…」


 散らかってるから。

 暗いから。

 オタクグッズが多いから。

 どれも正しい。

 だが、子ども相手にそのまま言うのも違う気がする。


 結局、俺はもっとも抽象的な答えを選んだ。


「結界がある」


「けっかい?」


 ひなが目を丸くする。

 良子は横で吹き出した。


「何それ」


「部屋には部屋の空気があるんだよ。むやみに開けると乱れる」


「お兄ちゃんほんとそういう言い方好きだよね」


 好きというか、直球で説明しにくいことを濁した結果である。


 ひなは少し考え込むような顔をしてから、さらに聞いてきた。


「じゃあ、ちょっとだけならいいの?」


 詰め方がうまい。


 いや、うまいというより、単純に好奇心の押しが強いのだろう。

 この年齢の“ちょっとだけ”は信用できない。

 だが、完全拒否を続けると余計に怪しさが増す。


 富子が横から口を挟んだ。


「ほんとにちょっとだけにしなさいよ、ひな」


 母さんまで何でそっちにつくんだ。


「お母さんまで…」


「別に全部見せろって言ってるわけじゃないでしょ」


 その通りだが、問題は量ではない。

 突破されたという事実である。


 だが、四対一では分が悪すぎた。


 俺は長く息を吐いた。


「…ドアの前までだぞ」


「やったー」


 ひなが立ち上がる。

 良子までついてこようとするので、俺はすぐさま牽制した。


「良子は来るな」


「何でよ」


「面白がるだけだから」


「当たり前でしょ」


「ほらな」


 富子が笑いを噛み殺しながら、皿を下げている。

 完全に見世物である。


 俺は仕方なく、ひなだけを連れて二階へ向かった。

 後ろからひなの軽い足音がついてくる。

 途中で何度か振り返ると、目が合うたびにひなはちょっと嬉しそうにしていた。


 部屋の前に着く。


「ここ」


「ここなんだ」


 何だと思っていたのか。


 俺はドアノブに手をかけたまま、振り返って言った。


「本当にちょっとだけだぞ」


「うん」


「騒ぐなよ」


「うん」


「あと、勝手に触るな」


「うん」


 信用しきれない三連続の“うん”だった。


 俺は慎重にドアを少しだけ開いた。


 薄暗い部屋。

 積まれた本。

 机。

 PC。

 ゲーム機。

 棚の上のフィギュア。

 布団。

 コード類。

 雑貨。

 他人から見れば雑然としているだろうが、一応の秩序がある。


 ひなが隙間から中を覗き込み、最初に言ったのは、


「…くらい」


 だった。


「落ち着く明るさだ」


「くらいよ」


 即答だった。


 ついでに二発目。


「もの、いっぱい」


「必要なものだ」


「ほんと?」


「ほんとだ」


「ほんとかなあ」


 疑われている。


 だが、ひなの目はすでに、奥の棚の方に向いていた。

 ゲーム機の箱。

 古いロボットのフィギュア。

 並んだ漫画の背表紙。

 怖がっているというより、未知の空間を見つけた小動物みたいな顔だ。


「これ、なに?」


 指差した先は、昔買った変形ロボのフィギュアだった。


「それは…ロボだ」


「ロボなのはわかるよ」


 そうだな。


「昔のアニメの」


「へえ」


 ひなは少しだけ身を乗り出した。


「これ、うごくの?」


「少し」


「見たい」


 その一言で、俺は数秒迷った。


 本来なら触らせるべきではない。

 だが、ここで頑なに拒否すると、せっかく“怖い”より“気になる”に傾いた空気が戻るかもしれない。


 俺は棚からそっとそれを取り出し、変形ギミックを一箇所だけ見せた。


「おお…」


 ひなの目が少し光った。


 悪くない反応だった。


 そこへ背後から、階段を上がってくる足音。


「ちょっと何してんの、二人で」


 良子だ。


「やっぱり来たな」


「気になるでしょ普通に」


 良子は部屋の中を見て、開口一番言った。


「うわ、暗っ」


「だから言っただろ」


「しかも相変わらず物多いね…うわ、これまだ持ってたの?」


「勝手に評価するな」


「ひな、あんまり長居しないのよ。なんか変なオーラ出てるから」


「出てない」


 ひなは良子を見上げ、それからもう一度部屋を見た。


「へんなのいっぱいだけど…ちょっとおもしろい」


 その言葉に、俺は一瞬だけ言葉を失った。


 良子は吹き出した。


「変なおじさんの変な部屋だもんね」


「うるさい」


 だが、ひなの“おもしろい”は、少なくとも“こわい”ではなかった。


 それだけで、思ったより悪くなかった。


 結局、部屋の公開は本当に数分で終わった。

 ひなが勝手に入ろうとする前にドアを閉め、階下へ戻す。


 良子は最後まで笑っていたが、ひなは何度も後ろを振り返っていた。

 興味は消えていないらしい。


 リビングへ戻ると、富子が何気ない顔で聞いた。


「どうだったの」


 ひなが先に答える。


「くらかった」


「だろうねえ」


「でも、へんなのいっぱいあった」


「だろうねえ」


「でも、ちょっとおもしろかった」


 その三段目にだけ、富子の目が少しだけ細くなった。

 良子は笑いながら俺を見る。


「よかったね、お兄ちゃん。ひなに“ちょっとおもしろい”って認定されたよ」


「何だその評価」


「前よりマシじゃん」


 …たしかに。


 前回の“こわくはないけど、へん”よりは、少しだけ前進している気がしないでもない。


 もちろん、それが喜んでいい進展なのかはよくわからない。

 だが少なくとも、存在そのものを警戒されている段階は一歩抜けたのかもしれない。


 俺はそれ以上何も言わず、コップの麦茶を一口飲んだ。


 休日の家は相変わらず騒がしい。

 良子は喋るし、ひなは動くし、富子はその全部をいなしながら台所を回している。


 その中で俺だけが、少し浮いている。


 浮いているが、完全にいないわけでもない。


 それがいいことなのかどうかは、まだよくわからない。


 ただ一つ、はっきりしたことがある。


 部屋の結界は、完全には守られなかった。


 そして、それを思ったほど悪いとも感じていない自分がいる。


 俺はコップを置き、小さく息を吐いた。


「…結界は守った」


 誰にも聞こえない声でそう呟く。


 数秒置いてから、自分で訂正した。


「いや、半壊か」


 リビングの笑い声に紛れて、その独り言は誰にも拾われなかった。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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