「コンビニにて深夜決戦」
夜は、まだ優しい。
少なくとも昼よりは。
朝よりは確実に。
そして、夕方よりもずっとましだ。
人通りは減り、近所の目は緩み、世界全体が少しだけ輪郭を失う。
こちらの存在もまた、昼間ほどくっきりとは見えなくなる。
だから俺は、夜が嫌いではない。
むしろ、かなり好きだ。
その夜も、時計が十一時を回ったあたりで、俺はようやく人間らしい落ち着きを取り戻していた。
昼間の掲示板敗北――いや、正確には戦場消滅――のダメージも、動画を二本見て、ゲームの日課を済ませたあたりでだいぶ薄れてきている。
人の心は案外、軽い娯楽でどうにかなる。
ありがたい話だ。
だが、娯楽だけでは埋められない現実が一つある。
腹が減った。
俺は机の上に放ってあった空の菓子袋を見た。
ついさっき食べ切ったポテトチップスの残骸である。
あれはあくまで“つなぎ”にすぎない。
戦闘糧食とでも言うべきもので、食事ではない。
となると、何か必要だ。
俺はそっと部屋のドアを開け、階下の気配を探った。
リビングからテレビの音。
富子はまだ起きているらしい。
だが、ニュースの終わりかけの時間帯で、そろそろ寝る準備に入る頃合いだろう。
今「何か食べるものない?」と聞けば、冷蔵庫にある残り物を温めて食べなさいとか、夜にそんなもの食べるんじゃないとか、あるいは両方言われる可能性が高い。
それは避けたい。
俺は静かに階段を下り、台所へ向かった。
冷蔵庫を開ける。
麦茶。
納豆。
昨日の味噌汁。
漬物。
半端な豆腐。
以上。
「…弱いな」
深夜に食べたいものの布陣ではなかった。
冷凍庫も見る。
氷。
保冷剤。
いつからあるのかわからない冷凍うどん一袋。
いや、うどんは違う。
今求めているのはもっとこう、手軽で、塩気があって、脳にわかりやすい満足を与えるものだ。
俺は冷蔵庫を閉めた。
行くしかない。
近所のコンビニ。
深夜帯なら人も少ない。
会話は最小限。
滞在時間も短くて済む。
もちろん外出そのものがノーリスクではない。
だが、夜のコンビニはこの世界における数少ない中立地帯である。
少なくとも俺にとっては。
俺は二階へ戻り、出撃準備を整えた。
財布。
スマホ。
鍵。
パーカー。
必要以上に顔を隠すと逆に怪しいので、帽子はやめる。
だがフードは使える。
状況に応じて上げ下げ可能だからだ。
こういう柔軟性が大事なのである。
鏡代わりの黒いスマホ画面に顔を映す。
「…まあ、夜だしな」
昼なら終わっている。
しかし夜ならごまかしが利く。
人類は暗闇を発明したわけではないが、暗闇に救われてきた歴史はあるはずだ。
たぶん。
俺は財布をポケットへ入れ、静かに玄関へ向かった。
リビングの前を通りかかると、母さんがテレビを見ながら言った。
「どこ行くの」
なぜいちいち気づく。
「…ちょっと」
「ちょっと、じゃわからないでしょ」
「補給だ」
「コンビニ?」
「…まあ」
富子は呆れたように眉を上げた。
「こんな時間に」
「今だからいいんだよ」
「何がよ」
「人が少ない」
「コンビニなんだから人くらいいるでしょ」
「昼よりは少ない」
「そりゃそうでしょうね」
母さんはそこまで言うと、特に止めはしなかった。
この辺りの匙加減が母さんはうまい。
完全に放任もしないし、いちいち干渉もしない。
ただ、状況だけは把握している。
「エナジードリンクばっかり買わないでよ」
「買わない」
「買う顔してる」
「顔でわかるか」
「わかるわよ、長年見てるんだから」
恐ろしいことを言う。
俺はそれ以上何も言わず、玄関を開けた。
夜気は少し冷えていて、昼間よりずっとやさしかった。
遠くで犬が一回だけ鳴く。
車の走る音もまばら。
住宅街はほとんど眠っている。
これだ。
この静けさこそが夜の価値である。
俺は肩の力を少し抜き、ポケットに手を突っ込んで歩き出した。
コンビニまでは徒歩五分もかからない。
途中で大通りに出る必要もなく、街灯の続く細い道を抜ければ着く。
ルートとしては悪くない。
ただ、悪くないからといって完全に安心していいわけでもない。
夜だからこそ、逆に顔見知りと鉢合わせる危険もある。
昼に動かない連中が夜に動くケースもあるし、酔っ払いという不確定要素も存在する。
だが、今夜は静かだった。
角を曲がる。
自販機の明かりが見える。
その先にコンビニの看板が浮かんでいた。
白くて、均一で、どこか人工的な光。
あの光景には奇妙な安心感がある。
そこにいる誰も俺の人生に興味がない、という前提が成立しやすいからだ。
自動ドアが開く。
店内は思った通り空いていた。
奥の雑誌コーナーに一人。
飲み物棚の前に一人。
レジには――。
いた。
俺は無意識に背筋を伸ばしていた。
いや、なぜだ。
別に知り合いでも何でもない。近所のコンビニ店員だ。
それ以上でも以下でもない。
ただ、若い女の子の店員という存在は、こちらの挙動を必要以上に意識させる。
しかもこの店員は、妙に落ち着いていて、無駄にしゃべらない。
その静かさが逆にこちらの粗を際立たせるのだ。
彼女はレジの中で、何かの伝票を整理していた。
黒髪を後ろでまとめ、制服をきっちり着ている。
表情は薄い。
眠そうにも見えるし、もともとそういう顔なのかもしれない。
俺は見ていないふりをして、まず店内を一周することにした。
これは必要な行動だ。
決してレジに直行する勇気が出なかったわけではない。
商品の比較検討である。
カップ麺コーナー。
焼きそば。
おにぎり。
揚げ物ケース。
何が最適か。
今の腹具合なら、おにぎり二個でも足りる。
だが、それでは物足りない気もする。
カップ麺は満足感があるが、明日の朝の罪悪感が強い。
揚げ物は魅力的だが、レジで「温めますか」が発生する可能性がある。
会話イベントはなるべく減らしたい。
俺は棚の前で真剣に悩んだ末、カップ麺一つと、おにぎり一つ、それからエナジードリンクを一本手に取った。
エナジードリンクは、必要だからだ。
必要であって、依存ではない。
ここは大事なので心の中で明確にしておく。
レジへ向かう。
足取りは平静を装っていた。
だが、心拍は少しだけ速い。
前の客が会計を終える。
店員が顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
声は平坦で、淡々としていた。
だが冷たくはない。
たぶん、そういう声音なのだろう。
俺は商品をレジ台に置いた。
「…どうも」
どうも、ではない。
客なのだから、別に返事をしなくてもいい。
言ってしまってから毎回気づく。
だが取り消せない。
店員はバーコードを通しながら、事務的に尋ねた。
「袋、どうしますか」
きた。
第一関門。
ここで一拍遅れると、明らかに挙動不審になる。
だが焦って「いりません」と言いながら手持ちが増えすぎて後悔するパターンもある。
慎重な判断が必要だ。
「あ、えっと…お願いします」
「はい」
通った。
だが油断はできない。
「お弁当、温めますか」
お弁当ではない。
おにぎりだ。
いや、カップ麺か。
どっちを指している?
いや、おにぎりだとしても温める文化はある。
そういう問題ではない。
質問が来たという事実が重要だ。
「え、あ…いや、だ、大丈夫です」
「かしこまりました」
噛んだ。
今、確実に少し噛んだ。
しかも“大丈夫です”が何に対して大丈夫なのか自分でも曖昧だ。
温めなくても大丈夫、という意味だと伝わっていればいいが。
店員はまったく気にした様子もなく、会計を続ける。
「ポイントカードありますか」
第三関門。
俺は一瞬だけ固まった。
ない。
正確には、作っていない。
作ったほうが得かもしれないとは何度も思った。
だが、作る時に生じる店員とのやり取りと、記入と、選択と、あれこれが面倒すぎて先延ばしになっている。
「ないです」
今度はすぐ言えた。
よし。
だが、会話が終わると逆に沈黙が重くなった。
ピッ、という電子音。
レジの小さな画面。
店員の細い指先。
店内BGMだけが妙に耳に残る。
何か言った方がいいのではないか。
なぜそう思うのかはわからない。
店員との会話など、必要事項だけで終わればいい。
むしろそれが理想だ。
理屈ではそう思っている。
なのに沈黙が続くと、こちらが無愛想な変な客みたいな気がしてくる。
いや、実際変な客かもしれないが、せめて自覚のない変さでいたい。
俺は口を開いた。
「…今日は、寒いですね」
言ってから、終わったと思った。
何だその会話。
十一月でも一月でもない。
微妙な季節の微妙な夜だ。
寒いと言えなくもないが、会話の導入としては弱すぎる。
店員は一瞬だけ顔を上げた。
「そうですね」
終わった。
いや、返してくれただけ十分かもしれない。
だが、その先がない。
俺にもない。
「はい」
何だその返しは。
何に対する“はい”だ。
会話の死体にさらに土をかける行為でしかない。
店員は何事もなかったように会計を告げた。
「四百八十二円です」
俺は財布を開き、できるだけもたつかずに小銭を出そうとした。
だが、こういう時に限って五十円玉が指に引っかかる。
十円玉も多い。
あせるな。
落ち着け。
ここで焦ると余計に時間がかかる。
結局、百円玉四枚と五十円玉一枚、十円玉三枚、一円玉二枚という、なんとも言えない構成で支払うことになった。
「四百八十二円、お預かりします」
受け取った。
よし。
もう終わる。
あとは袋を受け取って去るだけだ。
「ありがとうございました」
「…どうも」
また言ってしまった。
俺は袋を受け取り、なるべく自然な歩幅で店を出た。
夜気が頬に触れる。
自動ドアが閉まる音が背後でして、ようやく肩の力が抜けた。
「…何なんだよ、今の」
誰もいない道で、小さく呟く。
会計自体は何も問題なかったはずだ。
袋を聞かれ、温めを聞かれ、ポイントカードを聞かれ、金を払い、商品を受け取った。
たったそれだけ。
コンビニにおける標準的なやり取りである。
なのに、なぜこんなにも消耗しているのか。
たぶん原因はわかっている。
風間店員だ。
いや、別に何かされたわけではない。
むしろ終始普通だった。
普通に店員で、普通に接客して、普通に会計しただけである。
問題は、こちらだ。
ああいう、淡々としていて、こっちの無駄な動きを全部見逃しもせず拾いもしないような人は苦手だ。
優しすぎる人もしんどいが、普通に落ち着いている人も別の意味でしんどい。
こちらだけが必要以上に意識している感じになるから。
俺はコンビニ袋を揺らしながら歩いた。
夜道は静かだ。
さっきまでの会話が頭の中で再生される。
「袋、どうしますか」
――一拍遅い。
「温めますか」
――噛んだ。
「今日は寒いですね」
――なんで言った。
「はい」
――何その返し。
「最悪だ…」
振り返っても、もちろん誰も追ってこない。
だが、自分の失言は帰り道に律儀についてくる。
家に着き、玄関を開ける。
リビングのテレビはもう消えていた。
富子は寝室へ行ったらしい。
静かだ。
俺は台所で買ってきたものを机に並べた。
エナジードリンク。
カップ麺。
おにぎり。
完璧な布陣のはずなのに、心が少しも晴れない。
お湯を沸かしながら、またさっきの会話を思い出す。
店員の「そうですね」は、どういう“そうですね”だったのか。
ただの相槌か。
変な客だと思われていないか。
いや、思われていたとしても当然ではある。
深夜にカップ麺とエナドリを買い、天気の話をする中年。書き出すとかなり危うい。
やめよう。
考えても意味がない。
意味がないとわかっているのに、脳は勝手に再生を続ける。
お湯が沸く。
カップ麺に注ぐ。
三分待つ。
その間も、ふとした拍子にレジ前の光景が浮かんでくる。
結局、俺は食べ終わるまでに二回「天気の話はなかったな」と声に出してしまった。
もちろん誰も聞いていない。
だから余計に虚しかった。
食後、机に戻ってスマホを開く。
チャット欄には新着はない。
掲示板も今日はもう見たくない。
それでも、何となくネットを開いてしまうあたり、人間の行動は矛盾している。
だが、今夜ばかりは、どんなスレッドよりもレジ前の数十秒の方が強かった。
俺は椅子にもたれ、暗い部屋の天井を見上げた。
「…もう、あの時間帯には行かない」
深夜帯は安全だと思っていた。
少なくとも、コンビニまでは。
だが、認識を改める必要がある。
店員のシフトという不確定要素は、決して侮れない。
今後はもう少し時間をずらすべきかもしれない。
いや、逆に早すぎても人が多い。
遅すぎると品揃えが弱い。
難しい。
コンビニ一つで、なぜここまで戦術が必要になるのか。
俺は机の上のエナジードリンクを見た。
母さんは“買う顔してる”と言っていた。
あの人も怖いが、別の意味で店員も怖い。
もちろん、どちらも何も悪くない。
悪くないのに、こっちだけが勝手に消耗している。
それがたぶん、いちばん情けなかった。
俺は電気を消して布団に潜り込んだ。
暗闇はいい。
余計なものの輪郭を薄めてくれる。
目を閉じる。
眠れるはずだと思った。
だが、しばらくしてからまた、頭の中であの声が再生された。
「そうですね」
――やめろ。
俺は布団を頭まで引き上げた。
少なくとも今夜の敗因は明確だった。
話さなくていいところで話したこと。
そして、話すならもっとマシな話題を選ぶべきだったこと。
次があるかどうかは知らない。
だが、もしあるなら、もう少し落ち着いて対処したい。
…いや、やっぱり、ない方がいい。
俺は寝返りを打ちながら、心の中で改めて固く誓った。
もうあの時間帯には行かない。
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