「匿名掲示板、最後の一レス」
現実というものは、往々にして人を傷つける。
たとえば朝。
たとえばゴミ出し。
たとえば善意の近所付き合い。
そういうものに正面から触れたあとの精神は、適切な処置を施さなければならない。
でなければ、傷は深く残り、翌日以降の任務に差し支える。
つまり今の俺に必要なのは休息だった。
そして、俺にとってもっとも安全で、もっとも自分らしくいられる回復手段――それが匿名掲示板である。
朝食を終え、自室へ帰還した俺は、椅子に座るとすぐノートPCを開いた。
カーテンは相変わらず半分閉じたまま。
昼の明るさは不要。モニターの光だけで十分だ。
昨日見ていたスレは、まだ生きていた。
よし。
人の命よりスレの寿命が短いことすらあるこの世界で、気になっていたスレがまだ残っているのは、それだけで少し救われる。
俺は更新ボタンを押した。
アニメ総合雑談スレその七十二。
流れは昨日より少し速い。
深夜帯に比べれば平和だが、それでも妙な断定や、雑なくくり方をする人間はいる。
俺はマウスホイールを転がしながら、なんとなくログを追っていた。
好きな作品の話題が出ている。
そこまではよかった。
だが、十数レスほど下ったところで、俺の指が止まった。
> 最近の作品って結局全部同じだよな
> キャラ萌えして騒いでるだけ
> 昔のほうが中身あったわ
俺はその一文を、三回読んだ。
「…違うだろ」
誰に聞かせるでもなく、声が漏れた。
いや、違う。
まず“全部同じ”という時点で乱暴すぎる。
そのうえ“昔のほうが中身あった”という、こういう雑な神話化。
具体例も比較軸もなしに、思い出補正だけで語るな。
俺はさらに前後の流れを読む。
案の定、数人が軽く同調し、数人が煽り気味に噛みつき、話はもうぐちゃぐちゃになり始めていた。
この手の流れは危険だ。
触らぬが吉。
わかっている。頭では。
だが、わかっていることと、見過ごせることは違う。
俺はキーボードに手を置いた。
最初は一言で済ませるつもりだった。
たとえば、“全部同じは見方が雑すぎる”とか、その程度でいい。
軽く釘を刺して終わり。大人の対応。成熟した人間の知性。
そのはずだった。
打ち込み始める。
> いや、さすがに全部同じは雑すぎるだろ
> 演出も構成も作品ごとに全然違うし
> 昔の作品だって当時は似たような量産物扱いされてたの多いぞ
そこで一度止まった。
「…いや、違うな」
まだ浅い。
このままでは伝わらない。
俺が言いたいのは、ただ“違う”ということではない。
“雑にまとめる視点そのものが怠慢だ”ということだ。
俺はバックスペースで半分消した。
打ち直す。
> 「全部同じ」に見えるのは見分ける気がないだけじゃないか
> それに昔の作品にだけ中身があったみたいな言い方も思い出補正入ってるだろ
> 当時から軽い作品も重い作品も両方あったわけで
…少しよくなった。
だが、まだ固い。
“見分ける気がない”はやや攻撃的すぎるかもしれない。
相手に逃げ道を与えない文章は、正しさより先に反発を招く。
俺は椅子にもたれ、目を閉じた。
落ち着け。
これは感情の発露ではない。
雑な議論に対する、適切な補正だ。
そのためには、熱くなってはいけない。
その時、画面の端に新着通知が出た。
白狼77からだ。
俺は通話アプリではなく、いつものテキストチャットを開いた。
「なあ」
送る。
『お前また掲示板で止まってんのか』
返事が速い。
こいつは暇なのか、それとも本当に巡回範囲が広いのか、よくわからない。
『今度は何』
『雑なくくり方してるレスがあって』
『それに言いたいことはあるが、どう書くのが最適か考えてる』
数秒の間があってから返ってくる。
『その時点で負けてる』
「は?」
思わず声が出た。
『いや、三十秒で返せない時点で相手に熱量負けしてる』
『長く考えてると文章も長くなるし』
『長文はもう負け』
浅い。
実に浅い。
『長い短いの問題じゃない』
『論点整理の問題だ』
『雑な一般化に対しては、雑に返すと同レベルになる』
『その理屈こねてる時点でもう掲示板向いてないんだよ』
白狼77はいつもこうだ。
だが、こいつの雑さは雑さで、一理あるように見えるから腹が立つ。
俺はチャットを閉じ、再びスレへ戻った。
件のレスにはさらに反応がついていた。
> 効いてて草
> そうやってすぐ顔真っ赤になるからオタクってめんどいんだよ
俺は眉間を押さえた。
「…最悪だ」
わかりやすい。
わかりやすすぎる煽り。
こういう“効いてて草”という短文には、人を数時間無駄にさせる威力がある。
歴史上もっとも低コストで他人の精神を乱す兵器の一つと言っていい。
だが、逆に言えば、ここで感情的に返したら本当に終わりだ。
俺はメモ帳を開いた。
掲示板の入力欄に直接打ち込むのは危険である。
誤送信、途中投稿、勢い任せの文面。
どれも避けねばならない。
戦いにおいて準備は重要だ。
白い画面にカーソルが瞬く。
打ち込む。
> いや、別に効いてるとかじゃなくて
> 「全部同じ」みたいな雑なくくりは見方が粗いって話だろ
> 昔の作品を持ち上げる時だけ当時の幅を無視してるのも変だし
…悪くない。
しかし“効いてるとかじゃなくて”は、効いてる側の言い方に見える。
消す。
打ち直す。
> 「全部同じ」に見えるのは作品側の問題というより見方の問題だと思うが
> そもそも昔の作品にだけ中身があったみたいな言い方も雑すぎる
> 当時だって軽い作品もあれば重い作品もあっただろ
うん。
かなりいい。
だが、“見方の問題”が少し上から目線か。
相手に“こいつ説教くさいな”と思われる危険がある。
もちろん実際に説教ではあるのだが、説教だと認識された時点で通らないのが掲示板のつらいところである。
俺は唸りながら一文ずつ調整していく。
その最中、別窓の通知がまた光った。
にぼし姫だった。
『さっきから入力状態長いですけど、またレスバですか』
なぜわかる。
『レスバではない』
『認識の補正だ』
『同じです』
『違う』
『向こうが雑なんだよ』
『全部同じとか、昔のほうが中身あるとか』
『そういう雑な括りに一言入れたいだけで』
既読がつく。
しばらくして返ってきたのは、たった一行だった。
『その時点で相手の養分です』
冷たい。
『いや、そういう話じゃない』
『雑な意見がそのまま通るのが嫌なんだ』
『匿名掲示板で何言ってるんですか』
それを言われると弱い。
弱いが、引けない。
『じゃあ放置しろって?』
『見えてる雑さを?』
『はい』
『無理だろ』
『じゃあ好きにすればいいと思います』
この女――いや、女かどうかも知らないが――本当に切り方が雑で鋭い。
俺はチャットを閉じた。
深呼吸。
大丈夫だ。
俺は感情で動いているのではない。
議論の精度を守ろうとしているだけだ。
少なくとも、そういう体裁は保っていたい。
メモ帳の文章をさらに整える。
> 「全部同じ」って言い方がまず乱暴だし
> 昔の作品だけ中身があったみたいに言うのも思い出補正込みで見すぎだろ
> その時代ごとに軽い作品も重い作品もあったんだから
> 結局ちゃんと見てるかどうかの話だと思う
止まる。
最後の一文。
“ちゃんと見てるかどうか”は正しい。
だが、これだと説教臭い。
しかし、ここを削ると俺の言いたいことの芯が薄くなる。
俺は腕を組み、画面を睨んだ。
時間を見る。
十分。
いや、もっと経っている。
たかが一レスに使う時間としては、明らかにおかしい。
だがここまで来たら、中途半端では終われない。
俺は言葉をひねる。
> 「全部同じ」に見えるなら、そう見える見方しかしてないだけじゃないか
> 昔の作品を持ち上げる時だけ当時の幅を無視するのも変だし
> 軽い作品も重い作品も今も昔も両方あるだろ
お。
少し鋭い。
少し短い。
少しだけ、掲示板向けになった気がする。
俺はそれを読み返す。
一回。
二回。
三回。
よし。
これならいける。
あとはコピペして投げるだけだ。
短い戦いだったが、密度は高かった。
俺は掲示板の入力欄にカーソルを置いた。
メモ帳の文をコピーする。
貼り付ける。
その瞬間、画面の上部に表示が出た。
**このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています**
「…は?」
俺は固まった。
更新する。
変わらない。
もう一度更新。
変わらない。
スレ一覧へ戻る。
該当スレは落ちていた。
嘘だろ。
いや、嘘ではない。
進行速度と時間帯を考えれば、可能性はあった。
むしろ想定すべきリスクだった。
だが、だからといって、受け入れられるものではない。
俺はしばらく画面を見つめていた。
メモ帳には、完成した文章が残っている。
数十分かけて磨き上げた一文。
誰にも届かない一文。
静かだった。
部屋も、画面も、俺も。
白狼77から通知が来る。
『落ちた?』
俺はすぐには返せなかった。
代わりに、にぼし姫からも一行届いた。
『時間の無駄でしたね』
心底その通りだった。
俺は椅子にもたれ、天井を見上げた。
負けたのか。
いや、違う。
少なくとも相手に言い負かされたわけではない。
こちらの文章は完成していた。
論理も、切れ味も、たぶん悪くなかった。
ただ、戦場そのものが消えたのだ。
そう考えれば、これは敗北ではない。
たぶん。
おそらく。
できれば。
俺はメモ帳の文面をもう一度見た。
「…いい出来だったんだけどな」
誰も聞いていない部屋で呟く。
もったいない。
実に、もったいない。
だが、掲示板とはそういう場所だ。
人生をかけるには軽すぎて、時間を溶かすには十分すぎる。
俺はようやく白狼77に返信した。
『落ちた』
即座に返ってくる。
『だから言ったろ』
『長考は負けなんだよ』
腹立たしい。
だが、完全には否定できないのがさらに腹立たしい。
続いて、にぼし姫にも返す。
『うるさい』
『こっちは真面目だったんだ』
少し間があったあと、返事が来た。
『掲示板で真面目なのが一番損します』
俺はその一文を見て、しばらく黙った。
まったくもって、その通りだった。
ただ、それでも。
それでも雑なことを言われたまま黙っているのが気持ち悪い時もある。
そういう性質を、俺は捨てきれていない。
それが良いことか悪いことかは知らない。
少なくとも生産的ではない。
今日だけでも、朝からゴミ出しで消耗し、今またレス一つで精神を削っている。
だが、まあ。
そういう日もある。
俺はメモ帳の文を消さずに保存した。
いつか、どこかで似た話題が出た時に使えるかもしれない。
再利用できる怒りは、無駄ではない。
そう結論づけて、俺はようやく掲示板を閉じた。
昼の光は変わらずカーテンの隙間から差している。
階下からは、母さんが洗い物をする音がかすかに聞こえた。
世界は何も変わっていない。
変わっていないのに、なぜかこちらだけが少し疲れている。
俺は椅子の背にもたれたまま、静かに息を吐いた。
「…勝負に負けたんじゃない」
誰に言うでもなく、呟く。
「戦場が消えたんだ」
その直後、チャット欄に白狼77から新着が来た。
『一番ダサい負け惜しみで草』
さらに、にぼし姫からも追撃が入る。
『それを負け惜しみと言います』
俺は無言でモニターを閉じた。
今日はもう、外にも出ないし、掲示板にも深入りしない。
そう決めた。
少なくとも、この時点では本気でそう思っていたのである。
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