「最強のゴミ出し任務」
翌朝、俺は死んでいた。
正確に言えば、生きてはいた。
呼吸もしていたし、布団の中で意識もあった。
だが、精神活動の大半は停止していたと言っていい。
昨日の不在票ダメージを引きずったまま、再配達の手続き方法を調べ、できれば電話は避けたいという一心でネット受付を済ませ、そのあと掲示板を巡回し、動画を一本だけのつもりで見始めたら三本見てしまい、気づけば空がうっすら白んでいた。
それでも俺は悪くない。
人間という生き物は、ひとたび精神に傷を負うと、回復のために“安心できること”へ流れてしまうものだ。
つまり深夜のネットと動画視聴は、ある意味で治療だった。
そして現在、午前八時四十分。
世界は完全に朝だった。
カーテンの隙間から刺さる光が、すでに攻撃の域にある。
こんな時間に起きているだけで損をしている気分になるのは、きっと俺だけではないはずだ。
少なくとも、そう信じたい。
布団の中で目を閉じたまま、俺は現実からの逃避を試みていた。
寝る。
まだいける。
今ここで眠り直してしまえば、昼前には“起床”という自然な形に戻せる。
人生はタイミングだ。
睡眠だって同じである。
そう結論が出かけた、その時。
「太郎」
階下からではない。
すぐ近く、ドアの向こうからだった。
俺は目を開けた。
「起きてるんでしょ」
母さんだ。
なぜわかる。
いや、わかるのだろう。
母さんはこの家で長年、俺という不審な生き物を観察してきた。
呼吸の気配だけで生死と起床状態を判別していても不思議ではない。
「…寝てる」
「寝てる人は返事しないの」
正論を朝から投げるな。
ドア越しに、ビニールの擦れる音がした。
「ゴミ出してきて」
その一言で、俺の意識は一気に覚醒した。
「今?」
「だから何よ」
「いや、朝だぞ」
「ゴミ出しはだいたい朝でしょ」
たしかにその通りだった。
世間ではそうなのだろう。
だが、その“世間では”という基準を、なぜ当然のようにこちらへ適用してくるのか。
俺は布団の上で上半身だけ起こした。
頭が重い。
目がしばしばする。
そんな状態で下界へ赴けというのか。
「あと十分待てば、通行人が減るかもしれない」
「増えるわよ。通勤の人も買い物の人も出てくるから」
「じゃあもう少し遅く」
「回収終わるでしょ」
ぐうの音も出ない。
ドアが少し開き、母さん――佐藤富子が顔を出した。
髪はもう整っていて、エプロン姿。
完全に朝を支配している人間の顔である。
「あんたねえ、家にいるんだから、これくらいやりなさい」
その言葉には強い怒気はなかった。
ただ、日常の当然として置かれたものだった。
だからこそ、重い。
富子は大きめのゴミ袋を俺に差し出した。
台所関係の燃えるゴミらしい。
袋の口はきっちり縛られている。
「せめてこれくらい」
その“せめて”が、いつも胸に来る。
俺はしばらく袋を見つめていたが、やがて観念して受け取った。
「…わかった」
「ついでに顔も洗ってきなさい。すごい顔してるわよ」
「元からだ」
「元からでも今日はひどいのよ」
言うだけ言って、母さんは階下へ戻っていった。
俺は膝の上に置かれたゴミ袋を見下ろす。
軽くはない。
だが重すぎるわけでもない。
物理的には、だ。
問題は別のところにある。
朝の住宅街。
人々が何食わぬ顔で行き交い、挨拶と世間話が自然発生する、もっとも対人イベント密度の高い危険地帯。
その中を、寝起きの顔で、ゴミ袋片手に歩く。
それは単なる家事ではない。
明確な任務だ。
俺はのろのろと立ち上がり、鏡代わりに暗いPC画面へ顔を映した。
「…終わってるな」
母さんの言う通り、顔がひどかった。
目の下に微妙な影。
髪は寝癖で片側が跳ねている。
頬には布団の跡。
これで近所に出るのは、あまりにも防御力が低い。
俺は洗面所へ向かう前に、一度カーテンの隙間から外を確認した。
索敵である。
向かいの家の車はある。
つまりまだ出勤していないか、あるいは今日は休み。
斜め向かいの家の物干しには洗濯物なし。
まだ動き出していない。
道路には通学中の小学生らしき姿が一人、二人。
少ない。
犬の散歩はいない。
庭に出ている年配者も、今のところ見当たらない。
悪くない。
もちろん、これはあくまで目視できる範囲だけの情報だ。
死角から誰かが現れる可能性はある。
だが、それを言い出すと何もできなくなる。
洗面所で顔を洗い、髪を手ぐしでどうにか押さえつけ、部屋着の上から一応パーカーを羽織る。
これで完全ではないが、最低限の外出形態は整った。
ゴミ袋を持ち、もう一度窓から外を見る。
さっきの小学生たちはもう見えない。
今ならいけるかもしれない。
玄関までの廊下を歩く。
富子は台所で味噌汁の火加減を見ていた。
「行ってくる」
俺がそう言うと、富子は振り返りもせず言った。
「はいはい」
軽い。
こちらはこれから任務だというのに。
玄関で靴を履く。
紐のないスニーカーは、こういう時だけ便利だ。
屈む時間が少ない。
ドアノブに手をかける。
外の空気を思うだけで、胸の奥が少しざわついた。
大丈夫だ。
ゴミ捨て場までは数十歩。
誰にも会わなければ一分もかからない。
挨拶さえ発生しなければ、これはほぼノーダメージで終わる。
俺はそう自分に言い聞かせ、静かにドアを開けた。
朝の光が、まっすぐ顔に刺さった。
「っ…」
思わず目を細める。
外は妙に明るく、空気はひんやりしていて、どこかの家から洗剤の匂いが流れてくる。
遠くでカラスが鳴いた。
自転車のブレーキ音もする。
生活だ。
他人の生活が、そこらじゅうに満ちている。
俺はゴミ袋をなるべく自然に持ち直し、玄関を閉めた。
音を立てないように。
いかにも“今、出てきました”という感じを消すために。
門を出る。
道路へ一歩。
呼吸が少し浅くなる。
ゴミ捨て場までは右へ少し歩いた先。
見えている。
近い。
近いが、近いからといって安心はできない。
近距離任務ほど油断したところで死ぬ。
俺はできるだけ視線を下げすぎず、しかし誰とも目が合わない高度を探りながら歩いた。
一歩。
二歩。
三歩。
左の家の門が開いた音がして、心臓が跳ねる。
視界の端に人影。
中年くらいの男。スーツ姿。
俺はとっさに視線を前方へ固定し、“もともと何も気にしていませんでした”という歩き方を装う。
相手もこちらを見ていない。
助かった。
さらに進む。
ゴミ捨て場はもう目の前だ。
網のかかった青いボックスが見える。
今日の俺は、勝てるかもしれない。
しゃがみ込んで、ゴミ袋を置く。
周囲を一瞬確認。
よし。
任務完了。
そう思った、その瞬間だった。
「あらあら、太郎ちゃん!」
終わった。
俺はゆっくりと振り返った。
田村梅子。
七十代前半、近所における善意と情報網の化身。
子どもの頃から俺を知っていて、今でも何のためらいもなく“太郎ちゃん”と呼ぶ数少ない存在である。
悪人ではない。
むしろかなりの善人だ。
だからこそ厄介だった。
梅子さんは手に買い物袋を提げ、こちらへにこにこと歩いてくる。
「珍しいわねえ、朝から」
「…どうも」
やっとそれだけ出した。
「ゴミ出し?えらいじゃない」
「まあ…」
「富子さん助かるわねえ」
その情報共有はやめてほしい。
「今日はお休み?」
きた。
何がきたかと言えば、“社会側の問い”である。
この問いはいつだって返答の最適解がない。
俺は一瞬迷ってから、曖昧に答えた。
「…そんな感じです」
「まあ、今どきはおうちでできるお仕事もあるものねえ」
そういう方向へ誤解してもらえるなら、それはそれでありがたいのかもしれない。
だが、こちらから積極的に乗ると罪悪感が出る。
難しい。
「はあ」
俺の返事が曖昧でも、梅子さんは一切気にしない。
「でも朝に会うなんてほんと久しぶり。昔はよく学校行く前に走ってたのにねえ」
やめてくれ。
過去形の“普通に生活していた俺”を引っ張り出されると地味に効く。
「そんな時期もありましたね」
「足速かったのよねえ、太郎ちゃん。運動会でねえ」
「…覚えてますね」
「覚えてるわよお。近所の子のことだもの」
悪意はない。
一片もない。
だから切れない。
梅子さんはさらに続ける。
「富子さん元気?この前お漬物もらったのよ。おいしかったわあ」
「元気です」
「お父さん、まだ向こうなの?」
「…はい」
「大変ねえ。でも真面目な人だから」
その言い方をされると、俺だけが真面目じゃないみたいに聞こえる。
いや、実際そうなのかもしれないが、わざわざ言語化されると傷つく。
俺は会話を切るタイミングを探した。
だが、ない。
梅子さんの会話は川の流れみたいなもので、どこで堰き止めても別の話題が合流してくる。
「じゃ、じゃあ、これで」
なんとか口を挟むと、梅子さんはにっこり笑った。
「ええ、ええ。また顔見せてちょうだいね」
その“また”は、こちらに再任務を約束させる響きを持っていた。
「…どうも」
会釈して、その場を離れる。
背中を向けた瞬間に疲労がどっと出た。
たった数分。
されど数分。
こちらはゴミを捨てに出ただけなのに、なぜ精神をここまで削られねばならないのか。
玄関にたどり着き、ドアを閉めた瞬間、ようやく肺の奥まで息が入った。
生還である。
靴を脱ぎ、廊下に立ち尽くしていると、台所から富子が顔を出した。
「あら、遅かったわね」
「遅くない。事故があった」
「何」
「梅子さんに会った」
それだけで、富子はすべてを察したらしい。
「ああ」
納得したように頷く。
「長かったでしょ」
「長いとかそういう問題じゃない。会話の流れが切れないんだよ、あの人は」
「梅子さん、話好きだからねえ」
「善意なのはわかってるんだ」
「わかってるならいいじゃない」
「よくない。善意だから断りにくいんだよ」
富子は味噌汁の火を止めながら、まるでこちらの疲弊を重量換算していない声で言った。
「はいはい。ご飯できてるから顔拭いて座りなさい」
はいはい、で済ませるな。
こちらは今、朝の住宅街という最前線から帰還したばかりなのだ。
だが、その主張をしても通じないことはわかっていた。
俺は洗面所に寄ってから、重い足取りでリビングへ向かった。
朝食の匂いはやけにまともで、白いご飯と味噌汁と焼き魚が並んでいる。
こういう生活の整った光景を見ると、自分だけが変な形で時間からはみ出しているような気分になる。
「いただきます」
小さく言って座る。
富子は向かいに腰を下ろし、何気ない声で言った。
「次は資源ゴミの日ね」
俺は箸を止めた。
「…まだあるのか」
「あるに決まってるでしょ。ゴミは毎週出るの」
この世界は残酷だった。
俺はしばらく黙ったあと、焼き魚の皮をつつきながら言った。
「朝の住宅街は、戦場だ」
富子は味噌汁をすすってから、きっぱり言った。
「ゴミ出しは家事のひとつよ」
その一言で、俺の壮大な疲労感は容赦なく生活の一部へ押し戻された。
だが、違うのだ。
家事であることと、戦場であることは両立する。
少なくとも俺の中では。
そう反論したかったが、口にしてもたぶん伝わらない。
俺は黙って魚を口に運んだ。
うまい。
うまいが、それはそれとして疲れた。
朝の光はまだ窓の向こうで白く、世界は何事もなく回っている。
俺だけが勝手に消耗しているようで、少しだけ腹が立った。
それでも一つだけ、はっきりしていることがある。
今日、俺はこの家のゴミを、確かに外へ運んだ。
誰にも褒められないし、母さんにとっては当然のことだったとしても、俺にとっては小さくない任務だった。
…まあ、二度と楽勝とは言わないが。
ともかく、俺は生きて帰ったのだ。
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