プロローグ 「インターホンが鳴った日」
数ある作品の中から読んでいただきありがとうございます。
この作品を心から楽しんでいただけたら嬉しいです。
昼とは、もっとも油断できない時間帯である。
世の人間たちが活発に動き、営業が訪れ、宅配が来て、近所の連中が何食わぬ顔で生活を営む、光の時間。
言い換えれば、こちらの平穏がもっとも脅かされやすい危険帯でもあった。
その日の俺――佐藤太郎は、二階の自室にて静かなる巡回任務を遂行していた。
任務内容は複数に及ぶ。
昨夜途中で閉じた動画の続きの確認。
通販サイトの発送状況チェック。
匿名掲示板における、昨晩のスレッドの生存確認。
ソシャゲのログインボーナス受領。
さらに言えば、昼食のタイミングをいつにするかという重大な兵站判断も残されていた。
これを無職の昼間と呼ぶ者がいるかもしれない。
浅い。
実に浅い認識だ。
表面だけ見れば、たしかに布団の上にあぐらをかき、薄暗い部屋でスマホとノートPCを往復しているだけの中年男かもしれない。
だが本質は違う。
俺は、自宅を守っているのだ。
外界に不用意に接触せず、危険を招き入れず、精神の安定を維持しながら、この拠点の平穏を守る。
それが自宅警備員たる俺の責務である。
…誰が何と言おうと、である。
カーテンは半分閉めてある。
窓から差し込む昼の光は必要最低限。
明るすぎる部屋は落ち着かないし、そもそも外から人影が見える可能性がある。
防衛上よろしくない。
ノートPCの画面には通販サイトの発送通知が開かれていた。
昨夜、深夜テンションで注文した外付けのUSBハブと、ついでにカートへ放り込んでしまった安売りのインスタントスープセット。
発送状況は「出荷済み」。
到着予定は本日中となっている。
つまり、今日どこかで奴は来る。
宅配便。
外部から明確に接触してくる存在。
彼らは悪ではない。
むしろ社会を支える重要なインフラだろう。
わかっている。
だが、わかっていることと、対応できることは違う。
俺は画面を閉じ、スマホで掲示板アプリを開いた。
昨夜見ていたスレはまだ残っている。
よし。
更新。
更新。
更新――。
階下から、食器の触れ合う音がした。
カチャ、という乾いた音。
続いて引き出しの開閉音。
さらに、少し間を置いてから、包丁がまな板を叩く軽いリズム。
母さんだ。
佐藤富子。
六十代後半にしてなお生活の動きに一切の無駄がなく、この家の実質的な支配権を握る女。
俺にとって最大の味方であり、同時に最大の敵でもある。
今の音の流れからすると、昼飯の準備に入った段階だろう。
機嫌は悪くない。
包丁のテンポが一定だからだ。
機嫌が悪い時はもっと速いし、引き出しの閉め方が強い。
俺は一瞬だけ安心する。
この家には、この家なりの秩序がある。
俺はそれを知っている。
音で、人の気配で、床のきしみ方で、だいたいわかる。
たとえば母さんが洗濯機を回したあとに掃除機を持ち出した日は、昼までに最低でも一度は「部屋、片づけなさい」と言われる。
逆に、午前中から漬物の容器をいじっている日は比較的平和だ。
廊下の歩幅だけで、今が機嫌のいい富子なのか、わりと腹を立てている富子なのかも判断できる。
家の中なら、俺は強い。
それが俺の、数少ない確かな領域だった。
だから、その瞬間までは、平穏だったのだ。
ピンポーン。
――来た。
全身が止まった。
スマホを持つ手がわずかに滑り、落としかける。
喉の奥がひゅっと縮む。
背中の筋肉が変なふうに固まった。
インターホン。
この家において、もっとも直接的な警報装置。
平穏が破られた合図。
俺は瞬きすら忘れて、ドアの向こう――いや、家の玄関の向こうにいる“何か”に意識を集中させた。
候補は複数ある。
第一候補は宅配便。
可能性としては高い。
発送通知も来ている。
理性はそう言っていた。
第二候補は営業だ。
光回線だの保険だの太陽光だの、そういう奴らは昼に来る。
奴らは明るい声でこちらの防壁を無視してくるから厄介だ。
第三候補は町内会関係。
回覧板、募金、防災訓練、清掃当番。
考えただけで胃が縮む。
第四候補は宗教。
表情が穏やかすぎるのが逆に怖い。
第五候補となると近所の誰かか。
これはこれで面倒だ。
用件があるようでだいたい大したことはなく、それなのに会話だけは発生する。
そして最悪の可能性――親戚だ。
俺はそこで思考を止めた。
駄目だ。
その可能性を広げると本当に動けなくなる。
チャイムの余韻が家の中に溶けていく。
そのあとが来ない。
二度目は鳴らないのか。
それとも、こちらの出方をうかがっているのか。
すでに諦めて去ったのか。
いや、逆に無言で立っている可能性もある。
そういうのが一番怖い。
俺はそっとPCの音量をゼロにした。
意味があるかはわからない。
だが、こちらの存在を悟らせないための初動としては間違っていないだろう。
たぶん。
下の階では、包丁の音が止まっていた。
母さんも聞いたはずだ。
なら、母さんが出る可能性はある。
いや、だが俺宛の荷物なら「太郎ー、荷物ー」と呼ばれる可能性もある。
それはそれで嫌だ。
嫌すぎる。
呼ばれてから出るのは、最初から出るより二倍くらい恥ずかしい。
俺は布団から静かに立ち上がった。
床板が鳴らない位置に体重を乗せる。
自室のドアを、音を殺して数センチだけ開ける。
廊下は静かだ。
階下からは、鍋の蓋が鳴る音だけ。
どうする。
確認だけはすべきか。
モニターを見るだけならノーリスクに近い。
だが、階段を下りる途中で母さんと鉢合わせたら説明が面倒だ。
「出るの?出ないの?」という単純な質問に対し、俺はいつも説明が長くなる。
自分でもわかっている。
とはいえ、確認せずにやり過ごして、あとから自分の荷物だと判明するのもダメージが大きい。
俺は深呼吸して、一歩、廊下へ出た。
足音を殺し、壁際を移動する。
階段の上まで来て、下をうかがう。
リビングの方から母さんが出てきた。
目が合った。
「あんた、何してんの」
開口一番それである。
さすがだ。
余計な前置きが一切ない。
「…状況確認中だ」
「何の」
「来訪者の」
「インターホン鳴ったんだから来訪者でしょ」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味なのよ」
説明しづらい。
来訪者の“正体”と“脅威度”を見極めているのだと言っても、たぶん伝わらない。
母さんはため息をついた。
この時点で、俺に対する期待値は限りなく低い。
「出ないの?」
「まだ判断材料が足りない」
「何の戦いしてるの、あんたは」
戦いではない。
防衛だ。
そう言い返したかったが、説明が長くなるのでやめた。
母さんは玄関横のモニターの方を顎でしゃくった。
「見るだけ見れば」
「…まあ、それはそうだが」
「だったら見なさいよ」
正論はいつだって人を追い詰める。
俺は階段を半分ほど下り、モニターの前へ立った。
画面をつける。
映ったのは、帽子を被った若い男だった。
段ボールを小脇に抱えている。
見覚えがある。
配達員だ。
黒田さん。
このあたりを担当しているらしい、いつも淡々とした男。
声も大きくないし、余計なことも言わない。
比較的当たりの配達員である。
宅配便。
その瞬間、危険度の種類が変わった。
営業でも宗教でも親戚でもない。
脅威ではない。
だが、だからこそ回避もしづらい。
しかも段ボールのサイズ感からして、たぶん俺の荷物だ。
USBハブか、スープセットか、あるいはその両方。
母さんが横からモニターを覗き込む。
「宅配じゃない。出なさい」
「…今、タイミングを見てる」
「何の」
「玄関開けるタイミングの、だ」
「今でしょ」
「軽く言うなよ」
「あんた、自分で頼んだ荷物でしょ?」
図星だった。
だからこそ、余計にきつい。
深夜にテンションだけで買った“生活の質がちょっと上がりそうな便利グッズ”を、昼間に正気の自分が受け取る。
この感覚、わかる人にはわかるはずだ。
たぶん。
俺は玄関へ向かった。
向かいながら、頭の中で最低限のやり取りを確認する。
こんにちは。
ありがとうございます。
判子いるのか?サインか?
受け取る手はどっちだ。
目を見た方がいいのか。
見すぎても変だ。
いや、配達員さんはそんなこと気にしてないだろ。
わかってる。
わかってるが――。
玄関ドアに手をかける。
そこで、外からかすかに足音が遠ざかるのが聞こえた。
嫌な予感がした。
俺は慌ててドアを開けた。
昼の空気が流れ込んでくる。
眩しい。
玄関先には誰もいない。
地面に白い紙が一枚、きっちり差し込まれていた。
不在票。
「……」
終わった。
俺はしゃがみ込み、紙を拾い上げた。
送り主の欄を見る。
見慣れた通販サイト名。
品名は曖昧な記載だが、たぶん俺の荷物で間違いない。
背後から母さんが来る気配がした。
「いたじゃない」
「…いたな」
「家に」
「…いた」
「なのに不在票入れられてるじゃない」
「結果的にはそうなった」
「そうなったじゃないのよ」
母さんの声には怒気というより、純粋な呆れがあった。
それが一番きつい。
「自分の荷物くらい、ちゃんと受け取りなさい」
「警戒は必要だろ」
「宅配便に?」
「世の中、見た目だけでは判断できないこともある」
「黒田さん何回目よ。もう顔見知りでしょ」
「顔見知りと言うほどではない」
「向こうは覚えてると思うわよ」
やめてほしい。
その可能性を具体化するのは本当にやめてほしい。
「だいたい、家の中にいて不在って何なの」
「戦術的撤退の結果だ」
「負けてるじゃない」
その通りだった。
俺は反論できず、不在票を見つめた。
再配達受付の時間が印字されている。
電話。
あるいはネットから。
どちらにせよ、またこちらが何らかのアクションを起こさねばならない。
重い。
荷物そのものより、受け取りのための工程が重すぎる。
母さんはそんな俺を見て、もう一度ため息をついた。
「まあいいわ。昼ごはんできるから降りてきなさい」
「…ああ」
「あと、明日また来るから、今度こそ出なさいよ」
「明日…」
「再配達でしょ」
現実は淡々としていた。
母さんはそれだけ言ってリビングへ戻る。
俺は玄関に一人残された。
手の中の不在票は軽い。
軽いのに、妙にずしりとくる。
昼の光が、やけに白かった。
俺はゆっくりと自室に戻った。
階段を上る足は重い。
部屋に入り、ドアを閉める。
いつもの薄暗さが、ようやく肺に空気を戻してくれた気がした。
机の上に不在票を置く。
ノートPCの画面では、さっきまで見ていた掲示板の更新が入っている。
動画サイトのタブも開いたままだ。
さっきまでの平穏はそこにあるのに、もう同じものではない。
今日、俺は知った。
敵とは必ずしも悪意を持って現れるわけではない。
むしろ善意と業務の顔で、正面から玄関に立つこともあるのだ。
そして俺の防衛線は、思ったより脆い。
不在票を見つめながら、俺は静かに息を吐いた。
「…奴は今日、俺の防衛線を一度突破した」
その瞬間、階下から母さんの声が飛んできた。
「太郎ー!ご飯冷めるわよー!あと明日ちゃんと出なさいよー!」
余韻も何もあったものではない。
俺はしばらく黙ってから、誰にともなく言った。
「…わかってる」
だが、わかっていることと、できることは、やはり違うのだった。
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