父の知り合いを増やさないでほしい
父の知り合いという存在は、いつだって少し身構える。
別に相手が悪いわけではない。
むしろたいてい、感じはいい。
人当たりも悪くない。
父と普通に話しているくらいだから、常識もある。
だから困るのだ。
感じがいい相手ほど、こちらは雑に逃げにくい。
感じがいい会話ほど、途中で切りづらい。
そして、感じがいい“父の知り合い”ほど、俺の中では妙にカテゴリ分けしにくい。
父の友達、ではない。
仕事関係、かもしれない。
昔の知り合い、かもしれない。
近所ではない。
家族でもない。
なのに、父を経由してこっちの生活圏へ少し入ってくる。
その微妙な距離感が、いちばんややこしい。
その日、俺はそのややこしさの真ん中に立っていた。
---
昼前、父が玄関で靴を履いていた。
それを見た瞬間、少し嫌な予感はした。
父が昼間に外へ出る時は、だいたい何かしら用事がある。
そして、最近はその用事の一部がこちらへ流れてくることも増えている。
「出るのか」
俺が言うと、父は短く頷いた。
「駅前までな」
また駅前か。
最近本当に頻度が上がった気がする。
「何しに」
「信用金庫と、あと少し」
その“あと少し”が怪しい。
父は時々、用事をまとめて一言で流す。
その中に面倒が一つか二つ紛れていることがある。
富子が台所から顔を出した。
「太郎、どうせなら一緒に行って、お米屋さん寄ってきてくれない?」
出た。
どうせなら。
「何でだよ」
「お父さん一人だと、また持つの面倒くさがるでしょ」
そこはたしかにそうだろう。
父は運ぶこと自体を嫌がるタイプではないが、量が増えると露骨に言葉数が減る。
そしてその時の空気は、わりと周囲にも伝染する。
「一人で行けるだろ」
俺が言うと、父は靴を履いたままこちらを見た。
「行けるが」
「じゃあいいだろ」
「お前がいる方が早い」
その言い方が、妙に自然だった。
少し前までなら、父はもう少し遠回りに言った気がする。
“手があれば助かる”とか、“ついでがあれば”とか。
今は短い。
必要だから頼む、というだけの形に近い。
そこへ良子まで来た。
最悪のタイミングである。
「お兄ちゃん駅前行くの?」
「まだ決まってない」
「決まってるよ」
勝手に確定させるな。
「じゃあ、駅ビルのとこの店でこれ見てきて」
スマホの画面を見せてくる。
ひなが使うヘアゴムらしい。
何で駅前外出が確定した瞬間に、依頼が一件増えるんだ。
「自分で行け」
「今日は無理」
「何で」
「ひな、あとで友達来るから」
理由としては弱い。
弱いが、絶妙に断りきれない弱さでもある。
富子が横から言う。
「じゃあついでに見てきてあげなさいよ」
「ついでが多いんだよ」
「でもどうせ駅前なんでしょ」
その“どうせ”の使い方、本当に良くない。
父はそこで一言だけ言った。
「行くぞ」
短い。
だが、最近の父はこういう時、本当に短くて助かる。
こっちがぐだぐだ言っていても、最終的に動く流れが見えているからかもしれない。
「……はいはい」
結局、そう返していた。
---
父と二人で駅前へ向かう。
歩きながら、少しだけ思う。
この構図も前より増えた。
昔は父と二人で外へ出ること自体、どこか妙に間が悪かった気がする。
今はまだ気楽というほどではないが、沈黙がただの沈黙として置けるくらいにはなっている。
商店街を抜け、駅前通りへ出る。
人が少し増える。
チェーン店の看板。
銀行。
ドラッグストア。
小さな時計屋。
生活圏の外縁。
「信用金庫はすぐか」
俺が聞くと、父は頷いた。
「すぐだ」
「米屋はそのあと?」
「そうだな」
「ヘアゴムも見ろって」
「良子か」
「そう」
「増えるな」
父がそう言って、少しだけ笑った気がした。
「他人事みたいに言うなよ」
「事実だろ」
それはそうだ。
この家は本当に、一つの外出へ用事をぶら下げるのがうまい。
信用金庫は予想通りすぐ終わった。
入口の前で父を待つ間、俺はただ立っていた。
最近、待つことにも少し慣れてきた気がする。
前なら“何もしていない感”がもっと落ち着かなかった。
今は、まあこういう時間もあるかと思える。
父が戻ってきて、そのまま駅ビルの方へ向かう。
ヘアゴムの店はすぐ見つかった。
良子に写真を送り、色の確認を取る。
返信が遅い。
こういう時に限って遅い。
「まだか」
父が言う。
「まだ」
「長いな」
「お前らみんな、人に頼む時だけ早いんだよ」
父が少しだけ肩をすくめる。
「そうかもな」
認めるのかよ。
ようやく返信が来る。
ピンクではなく紺らしい。
なぜ最初からそう言わないのか。
ヘアゴムを買って店を出たところで、父が足を止めた。
「ん?」
何かと思って視線を追うと、向こうから男が歩いてきていた。
五十代くらい。
父と同世代か少し上。
スーツではないが、きれいなシャツを着ている。
こっちに気づいて、顔が少し明るくなった。
「佐藤さん」
来た。
父の知り合いである。
父も軽く手を上げた。
「久しぶりです」
父の声が、家の中より少しだけ外向けになる。
この微妙な変化が、今でも少し新鮮だ。
「いやあ、こんなところで」
男の人が笑う。
俺は一歩だけ引いた位置に立つ。
この“父の知り合いとの会話時の立ち位置”も、まだ正解がわからない。
近すぎると会話に入る圧があるし、離れすぎると不自然だ。
「息子さん?」
来た。
予想通りだ。
父が軽く俺の方を見る。
「ええ」
短い。
でもそれで十分だった。
「どうも」
俺は軽く頭を下げる。
もう最近は、この一連の流れにも少し慣れた。
慣れたくはなかったが、慣れた。
「いやあ、前にも一度お会いしたかな」
男の人が言う。
ああ、たぶん前に駅前で会った人だ。
父の知り合いが、最近少しずつ増えている気がする。
増やさないでほしい。
「たしか銀行の前で」
俺がそう返すと、男の人は嬉しそうに頷いた。
「そうそう。
ちゃんと覚えてるんだね」
その言い方に、少しだけ引っかかる。
“覚えてるんだね”と軽く褒められるような年齢ではない気もするが、まあ向こうに悪気はない。
「一回会うと、わりと」
「へえ。
佐藤さん、いい息子さんだね」
父はそこで否定も肯定もせず、ただ少しだけ苦笑したような顔をした。
この反応も前より自然だなと思う。
男の人はさらに言った。
「この前も家のことよく見てくれて助かるって言ってたし」
俺はそこで、ほんの一瞬だけ父を見た。
言ってるのか。
外で。
そういうことを。
父は気づいていないふりなのか、本当に気にしていないのか、普通の顔で返していた。
「まあ、最近は」
その言い方も短い。
短いのに、ちゃんと肯定している。
「いやあ、いいことだよ。
家のこと見られる人って大事だからね」
感じのいい人だ。
だからこそ逃げにくい。
以前の俺なら、このあたりでだいぶ会話が苦しかったかもしれない。
今はまだ多少落ち着かないが、前ほど息苦しくはない。
「たまたまです」
俺がそう返すと、男の人は少し笑った。
「たまたまで続くなら十分だよ」
その返しは、ずるい。
善意のある大人は本当にずるい。
少し話したあと、相手は駅の方へ行った。
軽く頭を下げて別れる。
父と並んで歩き始めてから、俺は少しだけ息を吐いた。
「……増やさないでほしいんだけどな」
「何を」
「父さんの知り合い」
父が少しだけ笑う。
「増やしてるわけじゃない」
「遭遇率が高い」
「駅前だからだろ」
それはそうだ。
駅前には人が集まる。
人が集まるということは、父の知り合いとも会いやすい。
「前より普通だったな」
父が不意に言った。
「何が」
「ああいうの」
俺は少しだけ沈黙した。
さっきのやり取り。
たしかに前よりは自然だった気がする。
完全に余裕ではない。
だが、昔のように“できるだけ存在感を消す”だけではなかった。
「……まあ、前よりは」
「そうか」
それだけで終わる。
だが、その“そうか”が、妙にちょうどいい。
深掘りしない。
褒めすぎない。
でも流しもしない。
父はさらに一言だけ足した。
「だいぶましだな」
その言葉が、思っていたよりまっすぐ入ってきた。
上から目線、と言えばそうだ。
父親なのだから当然かもしれない。
でも、そこに悪い棘はなかった。
「……何だよ、その評価」
思わずそう返すと、父は米屋の方へ視線を向けたまま言う。
「本当のことだろ」
その通りなのかもしれない。
前よりまし。
劇的ではない。
でも、ちゃんと変わっている。
---
米屋で袋を受け取り、帰り道。
俺は米袋ではなく、ヘアゴムとちょっとした消耗品の入った袋を持っていた。
父が米を持つ。
その分担も自然だった。
家へ戻ると、良子が最初にヘアゴムへ食いついた。
「買えた?」
「紺だった」
「そうそう。
ありがと」
ひなも横で嬉しそうに見ている。
富子は米袋を見て頷いた。
「あら、重かったでしょ」
「まあな」
父がそれに短く返す。
何となく、家の中の空気も外の続きみたいに感じられた。
少し前なら、外と内で父との会話の温度がもっと違った気がする。
今はそこが少しだけなだらかだ。
良子が俺を見て聞く。
「何かあった?」
「何が」
「顔。
ちょっとだけ外の空気引きずってる時のやつ」
よく見てるな。
「父さんの知り合いに会った」
「あー」
その“あー”だけでだいぶ通じるのが嫌だ。
「どうだった?」
「前より、だいぶまし、らしい」
俺が少しだけ父の言い方を真似ると、良子は吹き出した。
「え、お父さんそんなこと言ったの?」
「言った」
「へえ」
良子は少しだけ嬉しそうだった。
それもまた、変な感じだ。
父はそれを聞いても、特に訂正しなかった。
ただ和室へ戻りながら、ぽつりと言う。
「別に間違ってない」
それで十分だった。
---
夜。
自室。
椅子に座り、エナジードリンクを開ける。
炭酸の音。
「父の知り合い、その先まで増やさないでほしいんだけどな……」
思わずそう呟く。
感じのいい人。
普通の会話。
家のことを見てくれて助かる、という父の言葉。
前よりまし、という評価。
どれも小さい。
だが、小さいからこそ夜まで残る。
父の世界の外縁が、少しずつこっちにも触れてくる。
その時、以前よりちゃんと立っていられる自分がいる。
「……まあ、増えすぎるのは勘弁だけどな」
最後にそう付け足して、俺は少しだけ笑った。
少し進む。
でも進みすぎない。
今はたぶん、そのくらいでちょうどいい。
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