風間凛、前より普通に話せる
人間は、答えが出たあとに楽になることがある。
もちろん、全部がそうではない。
答えが出たせいで余計に面倒になることも、世の中にはたくさんある。
テストの点とか。
体重とか。
銀行口座の残高とか。
そういうものは、見ないままの方が心が平和な場合もある。
だが、人間関係には逆のものもある。
わからないまま、探り続ける方がしんどい。
何を言ってもヒントに見える。
何を見ても意味がある気がする。
その状態が長く続くと、人はだんだん勝手に疲れる。
そして俺は、少し前までずっとそれをやっていた。
にぼし姫。
風間凛。
ほぼそうだろうと思いながら、でも最後の一言だけは飲み込んでいた。
言えば今の空気が変わる気がして、言わないまま少しずつ消耗していた。
けれど、あのやり取りで、もうだいたいのことは共有された。
明言し切ったわけではない。
だが、ほぼ答えは出ている。
そしてその“ほぼ”が、前より少しだけ俺を楽にしていた。
そのことを、俺は店の外で知ることになる。
---
その日の夕方、俺は駅前の本屋にいた。
理由はシンプルだ。
良子に雑誌を頼まれた。
ひなにシールのついたノートを頼まれた。
ついでに、富子が言うには切らしているらしい料理酒を駅前のスーパーで買う必要があった。
そして俺は自分用に新刊のラノベを一冊買うつもりだった。
この“家の頼まれものに紛れて自分の本を買う”感じが、最近の俺の外出らしいなと思う。
完全に自分だけの用事でもない。
かといって全部が家のためでもない。
そういう中途半端さが、今の生活にはちょうど合っているのかもしれない。
本屋の中は涼しかった。
棚。
平台。
新刊コーナー。
文房具売り場の端に積まれたキャラクターシール。
ひなのノートはすぐ見つかった。
良子の雑誌もあった。
自分のラノベも新刊棚の一番上にあった。
「珍しく早いな」
思わずそう呟く。
こういう“全部が素直に揃う日”はそれだけで少し機嫌がよくなる。
会計を済ませて、本屋を出る。
袋の中には雑誌、ノート、ラノベ。
このあとスーパーに寄って料理酒を買えば任務完了だ。
そう思って、店の前の歩道へ出た時だった。
「あ」
声がした。
短い。
だが、聞き慣れている。
振り向くと、凛がいた。
私服だった。
コンビニの制服ではなく、薄いグレーのカーディガンに黒いスカート。
手には文庫本が一冊。
たぶん、本屋帰りなのだろう。
以前なら、ここで少し固まっていたと思う。
いや、かなり固まっていたかもしれない。
店のレジではなく、本屋の前。
生活圏の中ではあるが、コンビニではない。
その“少しずれた場所”で会うと、前の俺は妙に挙動不審になっていた。
だが、その日は少し違った。
「……よう」
それなりに自然に声が出た。
自分で少し驚く。
いや、かなり驚く。
今の“よう”は、俺の中ではかなり滑らかだった。
凛も少しだけ目を丸くしたように見えたが、すぐにいつもの温度へ戻った。
「こんにちは」
「本屋か」
「見ればわかると思います」
その返しに、少しだけ笑ってしまう。
「お前ほんと、その言い方好きだな」
「見たままなので」
そう言って、凛は手の中の文庫本を少し持ち上げた。
見せるつもりがあるのかないのかわからない動きだ。
「何買ったんだ」
聞いてから、自分で少しだけ引っかかった。
前の俺なら、ここで“何買ったんだ”まではたぶん聞いていない。
会った。
気まずい。
短く終わる。
そのくらいだったはずだ。
凛は文庫本の表紙をちらっと見せた。
「新訳のやつです」
「へえ」
タイトルを見る。
少し前に話題になっていた古典の新訳版だった。
凛がそういうものを読むのは、何となくわかる気もする。
「お前そういうの読むんだな」
「失礼ですね」
「いや、何となくコンビニ店員の時の印象だと」
「コンビニ店員は本読まないと思ってます?」
その問い方が少しだけ可笑しい。
「思ってないけど」
「ならいいです」
このテンポ。
この短い切り返し。
やっぱり、前よりずっと話しやすい。
正体を“ほぼ共有した”ことが、こんなふうに効くのかと少しだけ思う。
あの時までは、一つ一つの言葉に余計な意味が乗りすぎていた。
今はそこが少し減った。
完全に消えたわけではない。
でも、前よりは明らかに薄い。
「そっちは?」
凛が聞いた。
「頼まれものと、自分の」
「混ざってますね」
「最近な」
袋の中を少し見下ろす。
雑誌。
ノート。
ラノベ。
「生活感とオタク感の配分が変です」
「お前、相変わらず観測が細かいな」
「だいぶ慣れました」
その言い方に、また少しだけ引っかかる。
慣れた。
それはたぶん、お互いに言えることなのだろう。
「……何に」
俺が聞くと、凛は一拍置いてから言った。
「そっちの買い物内容にです」
その逃がし方も、前ならもっと神経を使って受け止めていた気がする。
今はもう、少しだけ肩の力を抜いて聞ける。
「そっちもな」
俺がそう返すと、凛が少しだけ首を傾けた。
「何がですか」
「知らないふり」
「まだしてるつもりはあります」
「つもり、ね」
「そっちもでしょ」
「まあな」
その“まあな”が、前よりずっと楽に出る。
歩道の人通りはそこそこあった。
学生。
買い物帰りの人。
自転車。
車の音。
それでも、この会話だけが妙に静かに感じる。
「これから帰るのか」
俺が聞く。
「そうです」
「スーパー寄る」
「料理酒ですか」
何でそこまでわかるんだよ。
思わず少し笑ってしまう。
「観測しすぎだろ」
「前に買ってました」
「前に買ったやつと、今日のやつは別件だよ」
「でも、また頼まれてる顔してます」
「顔でそこまでわかるの嫌なんだよな」
凛はほんの少しだけ笑った。
本当に少しだ。
だが、コンビニのレジ越しの時より、その笑いがやわらかく見えた。
「同じ方向ですね」
凛が歩き出しながら言う。
たしかに、スーパーの方向は同じだった。
俺は少しだけ迷って、それから並ぶように歩き出した。
この“並んで歩く”というのも、前の俺には少しハードルが高かった気がする。
今も別に余裕ではない。
だが、固まるほどでもなくなっている。
「本屋、よく来るのか」
「たまにです。
コンビニより落ち着くので」
「それはわかる」
「そっちは」
「俺もたまに。
ただ、前より“ついで”が増えた」
「それもわかります」
「そこはわかるなよ」
「でも、いいと思いますよ」
「何が」
「ついでがある方が、外に出やすいこともあるので」
その一言に、俺は少しだけ黙った。
たしかにそうだった。
駅前。
スーパー。
習い事。
迎え。
買い物。
全部、自分一人の強い意志で行っているわけではない。
頼まれもの。
ついで。
押し出された流れ。
そういうものに乗って、少しずつ外へ出ている。
昔の俺なら、それを格好悪いと思ったかもしれない。
今はもう、そこまできれいごとではいられない。
出られる形があるなら、それでいいのかもしれない。
「……そうかもな」
素直にそう返すと、凛は少しだけこちらを見た。
「今日は素直ですね」
「お前、それ好きだな」
「見たままです」
「ほんとにそれ好きだな」
そこでまた少しだけ笑う。
変な感じだった。
店の外。
駅前の歩道。
私服の凛。
頼まれものの入った本屋袋。
そして、前より普通に続く会話。
ここまで来るのに、ずいぶん遠回りした気もする。
でも、この作品にはたぶんそれくらいが合っている。
スーパーの前で、凛が立ち止まった。
「じゃあ、私はこっちなので」
「おう」
短い別れだ。
それでいい。
「また」
凛が言う。
その“また”も、今は妙に自然に聞こえる。
「……また」
俺が返すと、凛は軽く手を上げて、そのまま別の方向へ歩いていった。
俺はしばらくその背中を見て、それからスーパーの自動ドアへ向かった。
---
料理酒をかごに入れながら、少しだけ考える。
前より普通に話せた。
それは事実だ。
何か劇的なことが起きたわけじゃない。
手をつないだわけでもない。
大きな告白があったわけでもない。
ただ、本屋の前で会って、少し並んで歩いて、スーパーの前で別れただけだ。
それだけ。
でも、その“それだけ”が前の俺には少し難しかった。
「……答えが出たあとって、こういう感じなのかもな」
思わず小さく呟く。
全部がはっきりしたわけじゃない。
今も明言し切ってはいない。
だが、探るよりはずっと楽だ。
意味を読みすぎて固まることが減る。
だから普通に少し話せる。
それは思ったより、大きかった。
---
家へ戻ると、富子がすぐ料理酒を受け取った。
「買えた?」
「買えた」
「ありがとう。
あら、本も買ったの?」
「ついでにな」
「よかったじゃない」
良子も来ていて、雑誌を受け取りながら聞いてきた。
「駅前どうだった?」
「普通」
「その“普通”はちょっと怪しいね」
「何が」
「お兄ちゃんの“普通”って、たまにちょっと大きいから」
鋭い。
こいつは本当に鋭い。
だが、今は別にそこを深掘りされたくなかった。
まだ自分の中でも、少し整っていない。
「……別に」
「出た」
ひながノートを受け取りながら言う。
「おじさん、ちょっと機嫌いい?」
「よくない」
「でもちょっと」
「気のせいだ」
その返しをした時点で、たぶん少しだけ出ていたのだろう。
だが、そこはまだ自分でも認めたくなかった。
---
夜。
自室。
机の前に座る。
買ってきたラノベを机へ置く。
エナジードリンクを開ける。
「店の外だと、前より普通に話せる、か」
言葉にしてみる。
変だ。
少し前まで、コンビニのレジですら妙に消耗していた。
それが今は、本屋の前で会って、少し歩いて、そこまで削られずに帰ってきている。
答えが出たからなのか。
少なくとも、“ほぼ答えを共有している”状態になったからなのか。
たぶんその両方だ。
曖昧さが少し減るだけで、人はずいぶん普通になれるらしい。
「……悪くなかったんだよな」
ぽつりとそう呟いた。
前より普通に話せた。
それが少し変で、少し悪くなかった。
今のところは、その感想で十分だった。
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