健太、お前の学校の周りまで俺の担当なのか
学校という場所には、独特の緊張感がある。
別に軍事施設とか、そういう話ではない。
ただ、あそこにはあそこ特有の空気がある。
時間割。
提出物。
先生。
保護者。
連絡帳。
プリント。
そういう“ちゃんとしなければならないもの”が、そこらじゅうに漂っている。
だから俺はあまり得意ではない。
いや、正確に言えば、“学校そのもの”というより、学校まわりの人間関係が少し苦手なのだと思う。
先生に渡すもの。
保護者が把握している前提の話。
子どもの口から出る曖昧な説明。
そういうものが組み合わさると、途端に世界がややこしくなる。
そのややこしさに、近所の小学生代表として健太が飛び込んでくると、だいぶ面倒だ。
その日も、俺はその面倒に巻き込まれていた。
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夕方前。
自室。
静か。
平和。
最高。
そう思っていた時に限って、人生は横から余計なイベントを差し込んでくる。
バン。
ドアの開き方でわかる。
ノックの概念が薄い。
つまり健太だ。
「おじさん!!」
やっぱりな。
俺は椅子の上で目を閉じた。
「ノックしろ」
「した!」
「しながら開けるな」
「緊急だから!」
その“緊急”はだいたい健太基準だ。
大人基準では、中の上くらいの困りごとであることが多い。
「何だよ」
「学校のやつ!!」
広い。
「学校の何だよ」
「プリント!!」
もっと広い。
健太は手にくしゃっとした紙を持っていた。
プリントというより、プリントの残骸に近い。
四つ折りされたあと一度広げられ、さらにたぶんどこかへ押し込まれた痕跡がある。
俺は嫌な予感しかしなかった。
「……見せろ」
「これなんだけど!」
紙を受け取る。
目を通す。
学校からのお知らせだった。
内容は簡単だ。
図工で使う材料を明日までに持ってこい、というやつ。
牛乳パック二本。
輪ゴム数本。
はさみ。
のり。
あと“必要であれば空き箱”。
「何だよ、これくらい」
俺がそう言うと、健太は全力で首を振った。
「ちがう! 裏!」
裏を見る。
そこには、保護者確認欄みたいなものがあった。
日付。
確認印。
あと、材料で準備できないものがあれば書いてください、みたいな欄。
「で?」
「お母さんが今いない!」
そこか。
「電話しろ」
「出ない!」
まあ、買い物中か何かで出られないこともあるだろう。
「父さんは」
「まだ帰ってない!」
「じゃあ帰ってきてから」
「でも先生、今日見せろって言ってた!」
そこまで聞いて、少しだけ面倒の輪郭が見えてきた。
「……今日って、もう終わってるだろ」
「いや、これ、今から近くのお友だちの家に持ってくと、先生のとこ行く時一緒に出せるって!」
何だその委託方式は。
子どもの世界には時々、大人が知らないローカル配送システムが存在する。
近所の誰かの親が先生に渡す。
習い事のついでに預ける。
そういう“親ネットワーク前提”の流れだ。
だが、健太の説明は雑すぎて、全容がまるで見えない。
「落ち着いて最初から言え」
「えーと、これ今日お母さんに見せてハンコかなんかして、で、六時までに翔太んち持ってけば、翔太のお母さんが先生に持ってくんだって」
なるほど。
ようやく見えた。
つまり問題は二つだ。
保護者確認が要る。
だが母親不在。
そして締切が近い。
「良子!」
俺が廊下の方へ向かって呼ぶと、ちょうどよく階段を上がってきた良子が顔を出した。
「何?」
「健太のこれ、見てくれ」
「何で私」
「母親枠に一番近いだろ」
「その分類雑じゃない?」
「今は時間ないんだよ」
良子がプリントを見る。
一瞬で状況を察したらしく、健太へ聞く。
「おばさん今いないの?」
「いない!」
「電話は?」
「出ない!」
「翔太くん家はどこ?」
「公園の向こう!」
雑な説明だが、健太の普段の行動範囲を考えれば何となくわかる。
良子は少しだけ考えてから言った。
「これ、お母さんの確認欄、私書いていいのかな」
「親じゃないしな」
「だよね」
健太はそのやり取りに本気で焦り始めた。
「どうするの!?」
「うるさい」
そこへ、ひなが階段の下から顔を出した。
「けんた、また?」
「またじゃない!」
「でもまただよ」
その返しは正しい。
俺はプリントをもう一度見た。
必要なものは家にありそうだ。
問題は確認欄だけだ。
「……これ、父兄じゃなくても見たってわかればいいだけじゃないのか」
俺が言うと、良子が紙を覗き込みながら言う。
「まあ、そうかも。
“確認しました”の意味が強いんだろうし」
「だったら、健太の母親に電話した記録だけつけといて、俺が一言書けば」
「何て?」
「“母不在のため、近隣保護者補助確認済み”とか」
良子が吹き出した。
「何その堅い言い方」
「でも意味は通るだろ」
健太は不安そうだ。
「それで大丈夫なの?」
「たぶん」
「たぶん!?」
健太、お前は本当に“たぶん”にだけ過剰反応するな。
普段、自分でも使いまくってるだろ。
良子は少し考えてから頷いた。
「まあ、翔太くんのお母さんに事情言えば通じると思うよ」
「よし」
俺はプリントの余白に短く書いた。
“母不在のため、近隣家族にて確認。材料準備済み。佐藤”
「何で佐藤なの」
良子が聞く。
「うちの名字だからだよ」
「いや、それはわかるけど」
「時間ないんだろ」
「たしかに」
健太はその字を見ていたが、たぶん意味は半分もわかっていない。
「これでいいの?」
「知らん。
でも何もないよりはいい」
「ハンコないよ!」
「お前の世界にそんなにハンコ信仰あるのか」
「だって学校だもん!」
そこは少しわかるのが嫌だ。
学校はとにかく、四角い枠と印と署名が好きだからな。
良子が言う。
「じゃ、私ちょっと一緒に翔太くん家まで行く」
「何で俺もついてくんだよ」
「だって字書いたのお兄ちゃんでしょ」
最悪だ。
そこに責任が発生するのか。
「大丈夫だろ。
近所だし」
「お兄ちゃんがさっき“たぶん”って言ったから、もうそこまで行った方が早い」
正しい。
悔しいが正しい。
「……学校周りまで俺の担当なのかよ」
思わずそう漏らすと、ひなが静かに言った。
「けんたが持ってくるから」
それも正しい。
---
公園の向こう、翔太の家は本当に近かった。
近い。
だが近いからといって、全部こっちの担当になるのは違うと思う。
チャイムを押すと、翔太の母親が出てきた。
事情を話す。
プリントを見せる。
「あー、全然大丈夫ですよ」
拍子抜けするくらい、あっさりだった。
「先生、こういうのわりと見ますから。
材料そろってるなら問題ないと思います」
そうなのか。
子どものプリントというのは、もっと厳格なものかと思っていた。
いや、内容にもよるのだろうが。
健太はその場で露骨に力が抜けていた。
「よかったぁ……」
「最初からそう言えよ」
「だって焦ったんだもん!」
「お前はいつも焦り方だけ一人前だな」
翔太の母親は少し笑いながら、プリントを受け取った。
「太郎さん、ありがとうございます」
またその呼び方だ。
学校周りでもそれなのか。
「いや、まあ……」
「健太くん、一人だと絶対忘れそうだから助かりました」
それはかなり同意だ。
だが、その“助かりました”の中に俺が普通に入っていることが、少しだけ変な感じでもある。
帰り道、健太はかなり元気を取り戻していた。
「危なかったー!」
「お前の説明が一番危なかったよ」
「でも間に合ったじゃん!」
「結果論だろ」
ひなは横で言う。
「学校の近くじゃなくてよかったね」
「何が」
「先生いたら、けんたもっとあわててた」
「あー、それはある」
そして、その一言に少しだけ笑ってしまった。
健太は学校の先生という存在に、妙に弱いのだ。
元気なくせに、そういうところだけきっちり小学生である。
「おじさん」
健太が急にこっちを見た。
「何」
「学校のやつも、やっぱおじさんいると平気だった」
またそれだ。
「平気じゃないよ。
面倒だったよ」
「でも何とかなった」
「何とかしたんだよ」
「だから、何とかなるってことじゃん!」
その雑な結論、本当にやめてほしい。
だが、完全に間違ってもいないのがさらに困る。
良子が横で笑っていた。
「健太くんの中では、もう完全に“外でも使えるおじさん”だね」
「言い方」
「でもそうでしょ」
「そう!」
健太が元気よく肯定するな。
ひなはもっと静かだった。
「学校のことだと、けんたちょっと不安なんだよ」
その言い方は、さっきまでの騒ぎを少し違う角度から見せる。
たしかにそうかもしれない。
自転車の鍵とか、おもちゃとか、そのへんのトラブルとは違う。
学校は子どもにとって、少し重い。
大人の目、先生の目、締切、忘れ物。
そういうものが全部乗る。
「……まあ、そういう時くらいはな」
俺がそう言うと、健太はよくわかっていない顔で頷いた。
「うん!」
この“うん”もまた、たぶん半分くらいしか意味を理解していない。
だが、それでもいいのかもしれない。
---
家へ戻ると、父が和室の前にいた。
「何だ、出てたのか」
「健太の学校プリント」
俺がそう言うと、父は少しだけ眉を上げた。
「学校までか」
「学校“周り”までだよ」
「十分広いな」
そこだけは本当にその通りだ。
良子が父へ説明する。
父は短く聞いて、最後に一言だけ言った。
「まあ、間に合ったならいいだろ」
その“間に合ったならいい”は、今の俺にはわりとちょうどいいまとめ方だった。
大げさでもない。
でも軽くもしない。
健太は玄関で靴を履きながら、振り返って言った。
「おじさん!」
「何だよ」
「また学校のやつあったら来る!」
「来るな。
まず自分で見ろ」
「見る!
でも来る!」
やっぱりそうなるのかよ。
ひなが小さくため息をついていた。
「けんた、たぶんまた同じことする」
「するな!」
「でもする」
その会話が、なぜか妙に正しいのが嫌だった。
---
夜。
自室。
椅子に座って、スマホを机へ置く。
部屋の中は静かだ。
「学校周りまで、か……」
思わずそう呟く。
近所。
商店街。
駅前。
そこに加えて、学校周辺。
生活圏の外縁が、少しずつ広がっている。
広げたいわけではない。
だが、押し出されているうちに、気づけば足を踏み入れている。
前の俺なら、もっと抵抗したかもしれない。
今も抵抗はしている。
かなりしている。
だが、完全には止まらない。
「……お前のせいなんだよなあ、健太」
そう呟いて、少しだけ笑った。
騒がしくて、雑で、トラブルばかり持ってくる。
でも、その雑な頼り方のせいで、こっちの可動域が少しずつ広がっているのも事実だった。
それを成長と呼ぶかどうかは、まだ少し保留でいい気がした。
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