ひなの習い事は、おじさんの待機任務つき
待機という言葉には、妙な敗北感がある。
出動でもない。
攻略でもない。
解決でもない。
待機だ。
何かが起きるまでその場にいる。
起きなければ、基本的には何もしない。
成果があるようでない。
ないようで、でもいないと困るかもしれない。
そういう曖昧な役割だ。
昔の俺は、この手の役割があまり好きではなかった。
何をすればいいのかがはっきりしないからだ。
道具も使わない。
技術もいらない。
ただ、その場にいるだけ。
だが人間関係というのは時々、その“いるだけ”に妙な意味を乗せてくる。
それが一番面倒で、一番処理に困る。
その日、俺はまたしてもそのタイプの任務についていた。
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発端は、昼過ぎの良子からのメッセージだった。
『お兄ちゃん、今日ひなのピアノなんだけど』
そこで嫌な予感がした。
うちの家族から来るメッセージは、文頭でだいたいわかる。
雑談ではない。
要件だ。
しかも十中八九、こちらの可動域を前提にしたやつである。
『何』
と返す。
『迎えお願いしていい?』
来た。
『何で俺』
と返す。
『今日ちょっと買い物が長引きそうで』
『お母さんも今出てるし』
その言い方だと、断る側が心の狭い人間みたいになる。
実際にはそうでもない。
ただ、自分の部屋にいたいだけだ。
『父さんは』
と送る。
『今日町内会の人来るって言ってた』
『たぶん今ちょうど家』
ああ、そういえば父が午前中にそんなことを言っていた気がする。
和室に誰か来るなら、たしかに動きにくいかもしれない。
『近いし、終わるまで待っててくれるだけでいいから』
と良子。
その“近いし”と“待っててくれるだけ”が、毎回ずるい。
簡単そうに聞こえる言葉を二つ並べて、断りづらさだけを上げてくる。
『何時』
と返す。
『四時半くらい』
『教室の前でひな待っててくれたら助かる』
四時半。
まだ少し時間はある。
あるが、そうやって少し時間があると、逆に“なら行けるでしょ”の空気が濃くなるのが良くない。
俺はベッドの上で天井を見た。
「……待機任務かよ」
声に出すと、余計に嫌な響きだった。
だが結局、四時を少し過ぎた頃には、俺はサンダルを履いて家を出ていた。
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ピアノ教室は駅前へ行く手前、商店街を抜けた先の古いビルの二階にあった。
一階は空き店舗になっている。
二階に小さな教室がいくつか入っていて、ピアノ、英語、習字あたりが週ごとに使われている。
いかにも“地域の子どもたちが通う場所”という感じの建物だ。
俺が着いた時には、まだ少し早かった。
「早すぎるな……」
つい口に出る。
待つだけの任務において、“少し早い”はかなり長い。
十分が十五分に感じるし、五分でも妙に伸びる。
建物の前には小さな駐輪場。
横に自販機。
少し先にコインパーキング。
そして、それぞれの場所に、同じような立場らしい大人がちらほらいた。
腕を組んで立っている父親。
スマホを見ている母親。
近所の知り合いらしい二人で喋っている祖母同士。
この空気が、まだ少し苦手だ。
完全な部外者ではない。
でも、完全に馴染んでもいない。
ただそこにいる大人として、存在だけが浮かない程度に溶け込む必要がある。
これが地味に難しい。
最初、入口のすぐ横に立ってみた。
だが近すぎる気がする。
次に少し離れた街灯の下へ移動した。
今度は遠い気がする。
何なんだこのゲームは。
待機ポジションの正解が見えない。
「……めんどくさいな」
自販機で缶コーヒーを買う。
特に飲みたかったわけではない。
ただ、何か手に持っていた方が“ただ突っ立ってる人”感が少し減る気がした。
プシュ、と音を立てて缶を開ける。
ちゃんと冷えている。
少し甘い。
待機任務の報酬としてはまあまあだ。
スマホが震えた。
良子からだ。
『着いた?』
『着いた』
と返す。
『ありがと』
『ひなに、おじさん来るって言ったらちょっと安心してた』
その一文で、また微妙な顔になる。
「そういうのが一番面倒なんだよな……」
安心してた。
その言い方はよくない。
ただ迎えに行くだけの任務に、妙に意味が乗ってしまう。
だが、そう思ってしまった時点で、もうこちらも完全には他人事でいられていないのだろう。
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五分。
八分。
たぶんそのくらい。
待っている時間は、本当に変な伸び方をする。
特に何かが起きるわけではない。
目の前を自転車が通る。
子どもが一人走っていく。
向かいの店のシャッターが少しだけ上がる。
それだけだ。
だが、その“それだけ”を見ているしかない時間というのは、思ったより長い。
建物の二階から、ピアノの音が小さく漏れてくる。
止まって、また始まる。
たぶんレッスンの区切りだろう。
「前の俺なら、やってないんだよな」
ぽつりと呟いた。
迎えに来て、外で待つ。
特に何かをするわけでもない。
ただ“出てきた時にいる人”になる。
前の俺なら、その役割をかなり軽く見たはずだ。
電話が来たら出ればいい。
終わったら連絡してくれればいい。
そう言って、自室にいたかもしれない。
今も、その方が合理的ではあると思う。
だが、ひなにとってはそうではないのだろう。
出てきた時、顔を上げた先に知っている人がいる。
その“いる”が少し安心になる。
それは理屈としてはわかる。
わかるから困る。
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やがて、二階の扉が開いた。
先に一人、小さな男の子が出てくる。
母親らしい人のところへ走っていく。
少し遅れて、別の女の子。
その子は祖母らしい人に駆け寄る。
そして、その次にひなが出てきた。
ピアノバッグを肩にかけて、片手に楽譜の入った薄いケースを持っている。
階段を降りて、入口を出て、きょろっと周囲を見る。
その視線がこちらを捕まえた瞬間、顔がふっとほどけた。
「あ」
その小さな声が、今日の任務の意味を全部持っていく。
俺は自販機の横から軽く手を上げた。
「おう」
ひなは小走りでこっちへ来た。
「ほんとにいた」
「その確認いるか?」
「だって、まだかなってちょっと思った」
「早めに来てるよ」
「ずっと?」
「まあな」
そう答えてから、自分でも少しだけ変な感じがした。
俺は今、“ずっと待ってた人”としてここに立っている。
ひなは俺の顔を見て、それから少しだけほっとしたように息をついた。
「じゃあよかった」
「何が」
「出た時に、おじさんいたから」
その言い方は、小さい。
でも十分だった。
待っていたこと。
そこにいたこと。
それがちゃんと意味になっている。
「……そうかよ」
俺はそれしか返せなかった。
「うん」
ひなは頷いて、バッグを持ち直した。
「帰る?」
「帰るか」
並んで歩き始める。
夕方の道。
商店街の方から揚げ物の匂いが少し流れてくる。
空は昼よりやわらかい色になっていた。
「今日、どうだった」
俺が聞くと、ひなは少し考えた。
「ちょっとだけできた」
「またその評価か」
「でもほんとにちょっとだけ」
便利な言葉だな、それ。
「見せてみ」
ひながケースを少し開けて、楽譜の端を見せる。
赤鉛筆で先生らしい丸がいくつかついている。
「へえ、前より増えてるな」
「うん」
「じゃあちゃんとやってるじゃん」
「……ちょっとだけね」
そこでまた少し笑ってしまう。
あいつは本当に、自分の手柄を盛らない。
控えめなのか、評価が厳しいのか、その両方か。
少し歩いたところで、ひながぽつりと言った。
「おじさん、今日ほんとに待ってるだけだったね」
「それな」
「つまんなかった?」
その問い方が少しだけまっすぐだったので、俺はすぐに答えられなかった。
つまらない、で切ることもできる。
待機任務は長いし、立っているだけだし、俺向きではない。
だが、今日のひなの顔を見たあとだと、“つまらなかった”だけでもない気がした。
「……長かった」
「うん」
「でも、お前が出てきた時に、俺がいた方がいいなら、それでいいんじゃないか」
言ってから、自分でも少し照れくさい。
何だその発言は。
俺はいつからそういう保護者寄りのことを言うようになった。
だがひなは、変に笑わず、からかわず、ただ頷いた。
「うん。よかった」
その一言で、今日の任務は終了した気がした。
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帰宅すると、良子が玄関で待っていた。
「ごめん、遅くなった」
「別に」
ひながすぐピアノバッグを置いて、今日のことを喋り始める。
良子がそれを聞いている横で、小さく俺に言った。
「助かった」
「待ってただけだよ」
「それが助かったんだって」
またそれだ。
俺は靴を脱ぎながら言う。
「今日そういうの多いな」
「そういう時もあるでしょ」
良子は笑う。
「ひな、出た時お兄ちゃんいて、ちょっと安心したって」
「本人にも言われた」
「でしょ」
当たり前みたいに言うな。
こっちは一々ちょっと引っかかっているんだよ。
父が和室から顔を出した。
「迎え行ってたのか」
「そうだよ」
「どうだった」
「待ってただけ」
父は少しだけ頷いた。
「それで十分だろ」
またそれだ。
父は最近、この“それで十分”をよく使う。
大げさに持ち上げもしないが、軽くもしすぎない。
今の俺にはたぶん、そのくらいがいちばん助かる。
---
夜。
自室。
椅子に座って、エナジードリンクを開ける。
炭酸の音が、少し静かな部屋に広がる。
「待機任務つき、か……」
思わずそう呟く。
今日の俺は、何も直していない。
何も運んでいない。
何も買ってもいない。
ただ、教室の前に立って、二階から出てくる子どもたちを見て、ひなが出てくるのを待っていただけだ。
なのに、その“だけ”が妙に残っている。
待つというのは、見た目が地味だ。
成果も見えづらい。
だが、出てきた子どもの顔が少しほっとするなら、それはたぶん意味のある時間なのだろう。
「……嫌いじゃないわけじゃないのかもな」
その言葉が、思っていたより自然に出た。
好きではない。
長いし、面倒だし、立ち位置も難しい。
でも、嫌いじゃないわけじゃない。
その程度の変化で、今は十分だった。
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