プロローグ 駅前までが近所扱いになってる
近所の定義は、人によって違う。
これはかなり大事なことだ。
徒歩三分までを近所と言う人もいれば、自転車で十分ならまあ近所という人もいる。
もっと雑な人になると、電車に乗らなければ全部近所みたいな顔をする。
その感覚で人を巻き込むのはやめてほしい。
うちで言えば、富子がかなりそのタイプだった。
あの人にとっての“ちょっとそこまで”は、普通の人間より二段階くらい広い。
コンビニはもちろん、スーパーも“すぐ”。
ホームセンターも“まあ近い”。
そして最近では、駅前までもその範囲に入り始めている。
納得いかない。
駅前はもう近所ではない。
少なくとも俺の中ではそうだ。
人が多い。
店が多い。
ついでが増える。
つまり、面倒が濃い。
その日の俺は、まさにその“面倒の濃いエリア”へ押し出されようとしていた。
---
朝。
俺は自室でだらだらしていた。
だらだらという言葉には、もっと敬意が払われるべきだと思う。
あれは無為ではない。
心の余白を整える作業である。
動画を流し、スマホを見て、何となく本棚へ目をやり、でもまだ何もしない。
そういう時間が人には要る。
その大事な作業の最中、一階から富子の声が飛んできた。
「太郎ー」
出た。
「何ー」
「あとで駅前行くなら、電池買ってきてー」
俺はベッドの上で片目を開けた。
待て。
最初から前提がおかしい。
「行かねえよ」
まずそこを否定する。
「行くでしょ」
何で断定なんだよ。
「何でそうなる」
「だってお父さん、時計屋さん寄るって言ってたし」
時計屋。
ああ、父がこの前、腕時計の電池が切れたとか何とか言っていた気がする。
「それ父さんの用事だろ」
「でもついでに駅前行くなら一緒でしょ」
もう始まっている。
“ついで”の拡大解釈が始まっている。
俺は諦め半分で階段を下りた。
リビングへ行くと、父が和室の前で腕時計を手にしていた。
たしかにそれっぽい。
富子は乾電池の空パックを持っている。
「何だよ」
「これな」
父が腕時計を少し持ち上げる。
「電池交換、駅前の店の方が早いらしい」
「じゃあ行けば」
「行くぞ」
短い。
「一人で行けるだろ」
「行けるが」
「じゃあ何で俺」
そこで父は少しだけ間を置いてから言った。
「帰り、米屋も寄るかもしれん」
増えた。
予想通り増えた。
「それも一人で行けるだろ」
「持つのが面倒だ」
珍しく正直だな。
富子が横から乗ってくる。
「ほら、じゃあちょうどいいじゃない。
電池も買えるし」
「ちょうどよくない」
「あと洗剤も見てきて」
「増やすな」
「駅前まで行くならドラッグストアもあるでしょ」
駅前まで行くなら、ではない。
行くことが確定してから言え。
だが、この家ではいつもこうだ。
一つの外出予定が見えると、その導線へ家中の細かい用事が流れ込んでくる。
気づけば買い物袋が重くなり、目的地が増え、帰宅時の疲労だけが残る。
そこへさらに、二階から足音がした。
嫌な予感がする。
「おはよー」
良子だった。
最悪のタイミングである。
「何でいるんだよ」
「ひど。実家来ただけじゃん」
「この流れで来るな」
「何の流れ?」
とぼけるな。
絶対察してるだろ。
案の定、富子がすぐ言う。
「お兄ちゃんたち駅前行くから、何かある?」
早い。
連携が早い。
しかも本人の意思確認を完全に飛ばしている。
「ある」
良子が即答した。
やっぱりな。
「ひなのノートなくなりそうだから、それお願い。
あとプリン」
「最後の一個いらねえだろ」
「いるよ」
「何で」
「帰ってきて冷蔵庫にプリンあると、人ってちょっと機嫌よくなるから」
その理屈はわからなくもないのが腹立たしい。
父が短く言う。
「ノートくらいならいいだろ」
「父さんまで何でそっち側なんだよ」
「ついでだろ」
出た。
ついで。
この家の支配言語である。
その時、また玄関が開いた。
「おじゃましまーす」
ひなだった。
後ろから健太の声もする。
「オレも来た!」
何でだ。
何で今日に限って、生活圏の主要人物が朝からこんなに揃うのか。
ひながリビングへ入ってきて、俺を見てすぐ言う。
「おじさん、駅前行くの?」
「まだ決まってない」
「行くでしょ」
お前までその言い方をするな。
「何でそう思う」
「だって、みんなもうその話してる」
たしかにしている。
してしまっている。
この家では、一度話題が流れ始めると、それはもう半分決定なのだ。
健太は勢いだけで言った。
「オレ、文房具屋行きたい!」
「お前は行かない」
「何で!」
「人数が増えると面倒が増える」
「でも楽しそう!」
「お前だけな」
良子が笑う。
「お兄ちゃん、もう顔が“駅前遠征任務”になってる」
「うるさい」
「でもほんとそうだよ。
頭の中で順番並べてるでしょ」
図星だった。
たしかにもう、俺の脳内では簡易マップができている。
時計屋。
ドラッグストア。
文具店。
米屋。
場合によってはコンビニ。
そしてついでにプリン。
何なんだこれ。
普通に一冊のRPG序盤の街じゃないか。
「……駅前までを近所扱いするの、やめろよほんと」
思わずそう漏らす。
富子は平然としていた。
「近いじゃない」
「近くない」
「歩いて行けるし」
「歩いて行けることと近いことは別だろ」
父は時計をポケットへ入れながら言う。
「そんなに大げさでもない」
「いや大げさだよ。
駅前はもう近所じゃない」
ひなが少し考えてから言った。
「じゃあ、近所の外側?」
「そうだよ」
「でも、すぐ行ける」
「お前ら、距離感のバグり方が同じなんだよな」
良子がそこへ、妙に楽しそうな顔で言った。
「でもたしかに、お兄ちゃん前より駅前行くようになったよね」
その言葉に、少しだけ止まる。
たしかにそうだ。
前なら、駅前へ出ること自体もっとイベント感があった。
服を選び、気分を作り、行く理由を固めないと動きにくかった気がする。
今は、文句を言いながらでも結局行っている。
ついでで押し出され、頼まれごとで動き、帰ってくる。
それがいいことかどうかはさておき、変化ではある。
「……だからって近所ではない」
俺は最後までそこだけは譲らなかった。
---
結局、父と二人で出ることになった。
健太は本気でついてきたそうだったが、さすがに止められた。
ひなは「プリンよろしく」とだけ言い、良子は「ノートB5のやつね」と雑に追加し、富子は「洗剤も忘れないで」と当然のように送り出した。
何でこんなに背負って出るんだ。
玄関を出る時点で、俺の中ではすでに遠征だった。
父は歩きながら言う。
「そんなに嫌か」
「駅前は面倒なんだよ」
「店がある方が便利だろ」
「便利なのと、面倒じゃないのは別だ」
「そうか」
そこで会話が一度切れる。
父とのこういう短い往復にも、もうだいぶ慣れた。
住宅街を抜け、商店街に入る。
そこからさらに少し歩くと、駅前の空気が濃くなる。
人が増える。
音が増える。
看板が増える。
それだけで、俺の中では“近所の外”感がある。
「やっぱり近所じゃないな」
「まだ言ってるのか」
「大事なことだろ」
父が少しだけ笑った気がした。
駅前の時計屋は、思ったよりすぐ済んだ。
電池交換には少し時間がかかるらしく、三十分後にまた来てくれと言われる。
「ほらな」
俺が言う。
「だから面倒なんだよ」
「待ってる間に他の買い物できるだろ」
「そういう話じゃない」
だが、結局その待ち時間でドラッグストアへ行き、乾電池と洗剤を買い、文具店でノートを買い、ついでにひなが使いそうな可愛いシールまで良子に頼まれて追加された。
「何でシールまで」
「写真送ったら、いるって」
「便利に使うなあいつも」
父はその横で米屋の袋を持ち上げながら言う。
「プリンは最後でいいな」
「それはそう」
その判断だけは一致した。
駅前を父と二人で歩く。
店から店へ。
用事から用事へ。
昔の俺なら、こういう“目的が複数ある外出”だけでだいぶ消耗していたかもしれない。
今も疲れる。
かなり疲れる。
だが、足が止まるほどではない。
「太郎」
「何」
「次、時計取りに戻るぞ」
「はいはい」
返事が妙に自然に出た。
それが自分でも少し引っかかる。
時計を受け取り、最後にコンビニでプリンを買う。
この“最後にプリンを買う”という行為が、妙にこの家らしい。
用事の締めが甘味である。
帰り道、袋はそこそこ重かった。
父が米、俺が洗剤と文具とプリン。
こういう荷物分担まで、最近は前より自然だ。
「ほら」
父が米袋を少し持ち直しながら言う。
「近所みたいなもんだろ」
「違う」
「でももう普通に来てる」
その一言が、少しだけ残った。
普通に来てる。
たしかにそうだ。
文句は言う。
かなり言う。
だが、来てはいる。
駅前まで。
しかも頼まれごとをいくつも抱えて。
「……納得はいかないけどな」
「それでいいだろ」
父は短くそう言った。
---
家へ戻ると、富子がすぐに袋を受け取った。
「買えた?」
「買えた」
「洗剤も?」
「ある」
「ノートは?」
「ある」
「プリン!」
ひなが一番最初に反応した。
やっぱりそこか。
「あるよ」
「やった」
健太まで横から言う。
「オレのは?」
「ない」
「何で!」
「お前の依頼じゃないからだよ」
良子はノートを見ながら笑っていた。
「お兄ちゃん、駅前任務おつかれ」
「誰のせいだと思ってる」
「でもちゃんと全部買ってきたじゃん」
「だからって近所扱いはしない」
「まだ言ってる」
ひながそこで当然みたいに言った。
「でも、おじさん、前より駅前行けるよね」
俺は少しだけ黙った。
たしかにそうだ。
前より行ける。
前より、そこで立っていられる。
前より、複数の用事を抱えてもどうにか回せる。
だからといって、近所ではない。
そこだけは譲れないが、変化まで否定はできなかった。
「……まあ、前よりはな」
それが精いっぱいだった。
良子が、少しだけやさしい顔で言う。
「それで十分じゃん」
たぶん、その通りなのだろう。
---
夜。
自室へ戻る。
ドアを閉める。
椅子に座る。
机の上のエナジードリンクを開ける。
「駅前までが近所あつかいになってきた、か……」
言葉にすると、やっぱり納得はいかない。
だが、前よりそこへ行けるようになったのは事実だった。
大きな変化じゃない。
社会がどうとか、人生がどうとか、そういう話ではない。
ただ、少し前の俺なら、駅前というだけで気持ちが重かった。
今は文句を言いながらでも、ついでで押し出されても、どうにか行って帰ってこられる。
その違いは、思ったより小さくないのかもしれない。
「……それでも近所じゃないけどな」
最後にそう呟いて、俺は少しだけ笑った。
譲れない線が残っているくらいで、たぶんちょうどいい。
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