エピローグ 「まだ俺の部屋だから、たぶん大丈夫だ」
部屋というものは、最後に戻るためにある。
これはたぶん、かなり本質だ。
寝るためとか、物を置くためとか、いろいろ役割はある。
だが結局、人間が自室にいちばん求めているのは“戻れること”なのだと思う。
外で何があっても、家の中が少しうるさくても、近所の人間関係が妙に濃くなっても、ドアを閉めて、自分の机と椅子と棚と充電ケーブルの位置を見れば、少しだけ呼吸が揃う。
それが部屋の強さだ。
そして、たぶん今の俺が前より少しだけ外へ出られるようになったのも、その強さがまだ残っているからだった。
その日は、朝から少しうるさかった。
この作品において“朝から少しうるさい”は、もはや天気予報みたいなものだ。
そしてだいたい当たる。
「太郎ー」
富子。
朝一番の呼び声としては、今日も遠慮がなかった。
俺はベッドの上で片目だけ開けた。
カーテンの隙間から差す光。
まだ頭は少し重い。
できればもう少し寝ていたい。
「何ー」
「ちょっと見てー」
その“ちょっと見て”が信用できないことを、俺はもう何度も学んでいる。
それでも聞こえてしまえば、完全に無視もできない。
階段を下りる。
リビングへ行く。
和室の襖が半分開いていて、父がそこにいた。
テーブルの上には電卓と封筒。
富子は台所から顔だけ出している。
「何」
「この電池、どれだかわからないのよ」
指さされたのは、テレビのリモコンだった。
拍子抜けするくらい小さい用事だ。
「単四」
「ほんと?」
「見ればわかるだろ」
「お父さんが単三じゃないかって」
父が和室から言う。
「見た目が似てるからな」
「長さが違うだろ」
そう言いながらリモコンの蓋を開ける。
単四二本。
はい終了。
「ほら」
「あらほんと」
富子が笑う。
父は少しだけ頷く。
「そうか」
このくらいの会話でも、最近は妙に日常として処理される。
前なら、俺が下りてくる前にもっと家の中で完結していたかもしれない。
今はなぜか、細かい確認役みたいな位置に俺がいる。
「じゃあ、あとで買っといて」
富子が言った。
「何でだよ」
「どうせ出るでしょ」
何だその確信は。
だが、たしかに今日はあとで出る予定がある。
梅子さんに、昼前ちょっと掲示板見てほしいと言われていた。
良子からは、ひなのプリンもついでにと言われている。
そしてたぶん、自分のエナドリも買う。
全部、小さい。
だが全部、頭の中で一つの流れになっている。
「……出るけど」
「じゃあいいじゃない」
よくない。
でもこの家では、だいたいこうして話が進む。
そこへ、ちょうど玄関が開いた。
「おはよー!」
健太。
朝から元気だな、お前は本当に。
「何しに来た」
「ひな呼びに!」
後ろからひなが入ってくる。
「おはよう、おじさん」
「おう」
そのやり取りも、もうかなり自然だった。
ひなは当然みたいに家へ入り、健太は当然みたいに騒ぐ。
俺も当然みたいに返す。
父が和室からそれを見て、短く言った。
「にぎやかだな」
「うるさいだけだよ」
「違うよ」
ひなが即座に言う。
「にぎやか」
最近、このへんの評価の違いにも少し慣れてきた。
うるさい。
にぎやか。
同じ現象を、誰がどう受け取るかの差でしかないのかもしれない。
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昼前。
俺は結局、いつものように外へ出ていた。
掲示板。
電池。
プリン。
ついでに牛乳。
そのへんが全部レジ袋の中で並んでいる。
商店街を歩く。
空は少し薄い青で、風は強くない。
近所の八百屋が野菜を並べている。
クリーニング屋の前を自転車が通る。
犬の散歩のおばさんが会釈してくる。
「あら、太郎さん」
まただ。
最近、本当に“太郎さん”率が増えた。
「どうも」
「今日もおつかい?」
そう聞かれて、俺は少しだけ袋を持ち直した。
「まあ、そんな感じです」
「助かるわよねえ、いると」
そう言われて、俺は前よりほんの少しだけ流し方を覚えた気がする。
「重いんですよ、その言い方」
「あら、ごめんなさい」
おばさんは笑っていた。
悪意はない。
だからこそ、前ほどは腹も立たない。
コンビニへ入る。
冷房。
レジ。
凛。
いつも通りだ。
だが“いつも通り”の中身は、前とは少し違っている。
「いらっしゃいませ」
「……どうも」
商品を置く。
電池。
プリン。
牛乳。
エナドリ。
凛はそれを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「今日はバランスいいですね」
「何のだよ」
「頼まれものと自分の分の」
その言い方に、少しだけ笑ってしまう。
「観測が細かいんだよ」
「そうでしたっけ」
「そうだよ」
少し前までなら、こういう会話一つで妙に消耗していた。
今も落ち着くわけではない。
だが、“答えはもうだいたい出てる”という前提があるぶんだけ、逆に変な逃げ方をしなくてよくなった感じもある。
凛は袋へ商品を入れながら、ぽつりと言った。
「でも、前より普通です」
「何が」
「買い物も、顔も」
その一言に、俺は少しだけ間を置いてから返した。
「そっちもな」
凛が手を止めるほどではない。
だが、少しだけ空気が変わる。
「何がですか」
「知らないふり、前より雑」
言ってしまってから、少しだけ自分で可笑しくなる。
ずいぶん普通に言うようになったな、と思う。
凛は数秒だけ黙って、それからごく小さく笑った。
「そうかもしれません」
それで十分だった。
全部を言い切る必要はない。
今はもう、そういう距離だ。
「ありがとうございました」
「……どうも」
店を出る。
レジ袋の重さ。
少し冷たい牛乳。
いつもの道。
「普通、か」
小さく呟く。
前より普通。
それはたぶん、かなり大きいことなのに、言葉としてはずいぶん地味だった。
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午後。
掲示板の紙を貼り直し、電池を渡し、プリンを冷蔵庫へ入れ、牛乳をしまい、梅子さんに“助かったわあ”と言われ、ひなにグミを半分取られ、健太に自由研究の続きを見せられた。
全部、小さい。
全部、よくあること。
でも、それが全部“前より自然に流れている”ことが、自分で少しだけ不思議だった。
「おじさん、ここどうする?」
健太が紙を見せる。
「それは自分で考えろ」
「えー」
ひなが横から言う。
「ここ、けんたの字でかすぎ」
「ひど!」
良子が笑う。
「お兄ちゃん、ひなと健太くんの間で完全に調整役じゃん」
「やってない」
「やってるよ」
富子が台所から言う。
「太郎、麦茶少なくなってるからあとでつくっといて」
「何で俺」
「今いるから」
その理屈、本当に強いな。
父が和室から出てきて、紙袋を一つ持っていた。
「これ、駅前行くついであったら出しといてくれ」
「今じゃないと駄目か」
「急がん」
「じゃあ今度な」
「そうか」
そのやり取りまで、もう前よりずっと普通だ。
前なら“何で俺”のあとに、もう少し引っかかりがあった気がする。
今は文句を言って、でも受けて、会話がそれで進む。
ひながその様子を見て、ぽつりと言う。
「おじさん、今日もちゃんといるね」
「その評価ほんと好きだな」
「だってそうだもん」
健太はもっと雑だった。
「使えるし!」
「お前は言い方を考えろ」
「褒めてる!」
父がそこで、少しだけ笑った。
「まあ、間違ってはないな」
「父さんまで乗るなよ」
だが、家の中の空気は妙に軽かった。
誰も無理に何かを感動的にしていない。
頼む。
返す。
文句を言う。
でもやる。
その繰り返しの中で、少しずつ位置だけが定まっている。
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夕方。
ようやく部屋へ戻る。
ドアを閉める。
机。
椅子。
本棚。
ベッド。
少しぬるくなった空気。
「はあ……」
深く息を吐く。
今日もうるさかった。
朝から呼ばれ、外へ出て、近所で声をかけられ、買い物して、家へ戻って、また小さい用事をいくつも処理した。
面倒だ。
かなり面倒だ。
なのに、前より一つ一つに対する拒否の角が少し丸くなっている気がする。
それが成長なのか、諦めなのか、あるいは生活圏への馴染みなのかはまだよくわからない。
ただ、一つだけははっきりしている。
この部屋がまだ俺の部屋だということだ。
机の上の置き方。
棚の並び。
読みかけの本の位置。
開きっぱなしのPC。
どれも俺のルールでそこにある。
この部屋は前みたいに完全な結界ではないかもしれない。
ひなも来る。
健太も来る。
たまに美咲も来る。
避難所扱いまでされた。
それでも、最後に戻ってきた時の静けさはまだ俺のものだ。
ドアを閉めた時に、今日一日が少し整う感じも残っている。
「……俺の部屋がまだ俺の部屋だから、か」
そう言葉にしてみる。
たぶん、それなのだ。
家の外へ少し出る。
近所の中で名前が通る。
子どもたちに頼られる。
父とも少し自然に話す。
凛とも前より逃げない。
そういう全部を、どうにか回せているのは、この部屋へ戻ってこられるからだ。
外へ広がった。
だいぶ広がった。
でも、広がった先に飲まれずに済んでいるのは、最後の拠点が変わっていないからだ。
俺は椅子へ深く座り、背もたれに体重を預けた。
「面倒だし、うるさいし、落ち着かない」
口に出す。
それは本音だ。
本当に本音だ。
少し間を置いてから、続ける。
「でも、この部屋がまだ俺の部屋なら、たぶん明日も少しくらいは外へ出られる」
その言い方が、今の俺にはいちばんしっくりきた。
立派でもない。
前向きすぎもしない。
ただ、今日までを踏まえた時に、一番正確な言葉だった。
面倒でも。
うるさくても。
人に呼ばれても。
担当外の用事がなぜか全部回ってきても。
この部屋がまだここにあって、最後に戻ってこられるなら、たぶん少しくらいはやれる。
それで十分だった。
ここまで『最強の自宅警備員、俺』を読んでくださって、本当にありがとうございました。
この物語には、世界を救うような大事件はありません。
あるのは、実家の台所と、近所のコンビニと、掲示板と、子どもたちの声と、自室のドア一枚分の距離間でした。
でも、大人の人生は案外そういう小さいことでできているのだと思います。
牛乳を買うこと。
誰かの名札を直すこと。
近所の用事を引き受けること。
迎えに行って、ただ外で待つこと。
そんな何でもないことの積み重ねの中で、佐藤太郎は少しずつ“当たり前にいる人”になっていきました。
太郎は最後まで立派な主人公ではありません。
面倒くさがりで、文句を言って、自室が大好きなままです。
けれどそのままの彼が、前ならやらなかったことを少しずつ引き受け、家族や近所や子どもたちの中で居場所を持っていく。
その“少しの変化”を書きたくて、このシリーズを書いてきました。
ひなや健太のまっすぐさ、富子や良子の遠慮のなさ、父との不器用な距離、凛との曖昧で静かな関係。
そのどれもが、太郎を無理やり変えるのではなく、少しずつ外へ連れ出してくれたのだと思います。
そして最後まで、この物語の中心にあったのはやはり太郎の部屋でした。
逃げ場であり、帰る場所であり、だからこそ少しだけ外へ出られる場所。
この帰る場所がある限り、人はまた少しだけ頑張れる。
この物語でいちばん書きたかったのは、その感覚でした。
物語はいったんここで閉じます。
けれど、太郎たちの日常はこの先もきっと続いていきます。
また牛乳を頼まれ、また近所に呼ばれ、また文句を言いながら、それでも少しずつ日常を回していくのでしょう。
ここまで付き合ってくださって、本当にありがとうございました。
この少しうるさくて、少し面倒で、でもどこかやさしい日常が、あなたの中に少しでも残ってくれたなら嬉しいです。




