「自宅警備員、外で待つことを覚える」
待つ、という行為は、見た目が地味だ。
やることがない。
成果も見えづらい。
その場で立っているだけに見える。
ゲームで言えば、プレイヤーが一番面白くない時間である。
だから俺は、昔からあまり好きではなかった。
何かを直すとか、運ぶとか、設定するとか、そういう“やったら変化が出る作業”の方がまだいい。
待つのは違う。
あれは何もしていないように見えて、でもその場を離れられない。
自由がないくせに、達成感も薄い。
かなり割に合わない。
だが、その日、俺は外で待っていた。
自宅警備員のくせに、家の外で。
しかも特に何かを修理するわけでも、買い物をするわけでもなく、ただ待つためだけに。
人生は本当に、何がどうなるかわからない。
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発端は良子からの電話だった。
夕方前。
俺は自室で平和にしていた。
窓の外は少し暗くなり始めていて、まだ夜ではないが、夏の終わりらしい柔らかい色が差していた。
机。
スマホ。
半分残ったエナジードリンク。
かなりよい。
その平和を、着信音が少し雑に壊した。
「……何だよ」
画面を見る。
良子。
嫌な予感がした。
家の中にいる人間からの連絡は、だいたい“今いるなら”案件に繋がる。
「もしもし」
『お兄ちゃん、今部屋?』
「いるけど」
『ちょっと頼みたいことあって』
来た。
嫌な予感、的中である。
「何」
『ひなの習字、今日迎え行く予定だったんだけど、ちょっとこっち出るの遅れそうで』
「知らん」
『知らんじゃないの。
だから、先に行って待っててくれない?』
俺はベッドの方へ体重を預けた。
「何で俺」
『近いし』
出た。
この生活圏における最強の呪文。
近いし。
「お前、その理屈ほんと便利に使うよな」
『だってほんとに近いし。
あと、ひな一人で出てきた時に知ってる人いた方がいいでしょ』
それを言われると少し弱い。
ひなの習字教室は、商店街の先にある古い文化教室みたいなところだ。
歩いて行ける距離。
近い。
腹立たしいことに、本当に近い。
「何時」
『あと二十分くらいで終わる』
「早いな」
『だからお願い。
終わるまで外にいてくれるだけでいいから』
外にいてくれるだけ。
それはつまり、待機任務である。
作業ではない。
待つだけだ。
俺があまり好きではない種類のやつ。
「……父さんは」
『今日まだ和室で何かやってるでしょ。
お兄ちゃんの方が動きやすいかなって』
それはたぶんそうだ。
悔しいが、そうなのだ。
「母さんは」
『買い物』
「何でこういう時だけ、みんな微妙に埋まってるんだよ」
『生活ってそういうもんでしょ』
その返しは雑に正しい。
俺はしばらく黙って、それから小さく息を吐いた。
「……わかった」
『助かる!
ひなには、おじさん行くって言っとく』
「それ先に言うなよ」
『もう言った』
「早いんだよ!」
だが切られたあとで怒っても遅い。
良子は本当に、この手の仕事の振り方だけは手慣れてきている。
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一階へ下りると、父が和室の前にいた。
「出るのか」
「ひなの迎え」
俺がそう言うと、父は少しだけ頷いた。
「習字か」
「らしい」
「暗くなる前でよかったな」
その言い方が妙に普通で、少しだけ助かった。
“お前が行くのか”みたいな変な驚きもなく、ただ状況として受け取っている。
「待つだけだよ」
「それで十分だろ」
父は短くそう言った。
その一言も、今の俺には少し残る。
待つだけ。
でも十分。
昔の俺なら、たぶんその“だけ”を理由に行きたくないと思った。
今も思わないわけではない。
だが父の言い方は、そこを軽く切り分けてくる。
「まあな」
俺はそう返して、サンダルを履いた。
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習字教室のある建物は、商店街を少し抜けた先の古い二階建てだった。
一階は空き店舗になっていて、二階にピアノ教室と習字教室が入っている。
外壁は少し色あせているが、手すりや看板はきちんとしていて、地域の子どもがよく出入りしている場所でもある。
俺が着いた時には、まだ少し早かった。
「……早すぎたな」
腕時計代わりのスマホを見る。
終了予定まで十分以上ある。
最悪だ。
待機任務において“少し早い”はかなり長い。
ただの十分が妙に長く感じる。
建物の前には小さな駐輪場。
横に自販機。
少し離れたところに街灯。
人通りはそこそこあるが、多くはない。
俺は最初、入口の横に立った。
だが何となく落ち着かない。
関係者でもない男が無言で入口の横に立っていると、それはそれで見た目が怪しい。
少し離れてみる。
今度は遠い。
ひなが出てきた時に気づきにくい気がする。
「……めんどくせえな」
思わずそう漏らす。
待つだけなのに、立ち位置の正解がない。
これだから待機任務は好きじゃないのだ。
結局、自販機の横に立って缶コーヒーを一本買った。
買う必要はなかったが、何か手に持っている方がまだ自然な気がする。
缶を開ける。
ぬるくはない。
ちゃんと冷えている。
その時、二階から子どもの声が少しだけ聞こえた。
習字教室のものか、隣のピアノ教室のものかはわからない。
こういう時、建物の外で待っている大人というのは案外多いのかもしれない、と少し思う。
実際、向かいの電柱の近くには祖父母らしい二人組がいた。
少し先には自転車にまたがった母親らしい人もいる。
みんな待っている。
スマホを見たり、空を見たり、ただ建物を見たり。
何もしていないようで、でもちゃんとそこにいる。
「……そういうもんか」
俺は小さく呟いた。
前の俺なら、こういう場所に立っている自分を想像もしなかったかもしれない。
誰かの迎え。
しかも自分の子どもでもない姪の。
用事が終わるまで、外で立って待つ。
地味だ。
地味すぎる。
だが、ひなにとっては意味があるのだろう。
少なくとも良子はそう思っていたし、たぶん父もそう思っていた。
スマホが震える。
良子からだった。
『着いた?』
『着いた』
と返す。
『ありがと』
『ひな、ちょっと安心してた』
その二文に、また微妙な気分になる。
頼られるのは面倒だ。
でも、安心してた、と言われると少しだけ立ち位置が変わる。
『まだ終わってない』
と返す。
『待つだけでいいから』
と良子。
わかってる。
だが、その“待つだけ”が思っていたより長いのだ。
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五分。
七分。
十分。
待っている時間というのは、本当に変な伸び方をする。
スマホを見れば短くなるわけでもない。
むしろ“まだ二分しか経ってないのか”が増えるだけだ。
俺は缶コーヒーを飲みながら、建物の二階を見ていた。
窓の向こうには時々人影が動く。
何となく、あれがひなかもしれないと思うが、よくわからない。
歩道を自転車が通る。
犬の散歩のおばさんが通る。
商店街のシャッターが一つ閉まる。
ただそれだけのことが、妙に目に入る。
待っている間、人は周囲をよく見る。
見てしまう。
動けないぶんだけ、視線だけが散るのだろう。
「前の俺なら、たぶんやってないんだよな」
思わずそう口に出た。
頼まれても、何か理由をつけて断ったかもしれない。
あるいは“終わったら電話して”で済ませたかもしれない。
そうすれば家を出ずに済む。
外で無意味に立たずに済む。
だが今の俺は、ここにいる。
別に、立派だからではない。
面倒くさがりなのは変わらない。
部屋の方が好きなのも変わらない。
ただ、ひなが出てきた時に、知っている顔が一つある方がいい。
その程度の理屈に、昔より少しだけ逆らわなくなった。
それだけだ。
それだけなのだが、それだけで人は前と違う場所に立ってしまうことがある。
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やがて、二階の扉が開いた。
何人かの子どもが先に出てきた。
手に半紙の筒。
習字道具のバッグ。
親らしい人のところへ走っていく子もいる。
少し遅れて、ひなが出てきた。
肩から習字バッグ。
手に作品を丸めた筒。
玄関を一歩出たところで、きょろっと周囲を見る。
そして、こっちを見つけた。
「あ」
小さい声だったが、その瞬間に顔がほどけたのがわかった。
俺は自販機の横から軽く手を上げる。
「おう」
ひなは小走りでこっちへ来た。
「ほんとにいた」
「何だその確認」
「だって、もしかしたらまだかなって思った」
「早めに来てるよ」
「ずっといた?」
「まあな」
その問いに少しだけ、自分でも変な感じがした。
“ずっといた”と言えるだけの時間を、俺はここでちゃんと過ごしていたのだ。
ひなは俺の顔を見てから、持っていた筒を少し持ち直した。
「じゃあよかった」
「何が」
「出た時に、おじさんいたから」
その言い方は、説明が足りないようでいて、十分だった。
出た時に知ってる人がいる。
待っている人がいる。
それだけで、子どもにとっては少し安心するのだろう。
「……そうかよ」
俺はそれしか返せなかった。
「うん」
ひなは頷く。
それ以上、余計なことは言わない。
そういうところも、あいつらしい。
「帰るか」
「うん」
並んで歩く。
夕方の道。
さっきまで一人で立っていた場所を、今は二人で通り過ぎる。
「今日、字うまく書けた?」
俺が聞くと、ひなは少し考えてから答えた。
「ちょっとだけ」
「その評価便利だな」
「でもほんとにちょっとだけ」
「見せろよ」
ひなが筒の中の紙を少しだけ引き出す。
墨のにじみ。
まだ少し曲がっている線。
でも、前より形になっているのはわかる。
「へえ、ちゃんとしてるじゃん」
「ほんと?」
「ほんと」
ひなは少しだけ嬉しそうだった。
「おじさん、今日待ってるだけだったね」
「それな」
「つまんなかった?」
俺は一瞬だけ考えた。
つまらない、という言い方もできる。
地味だったし、長く感じたし、立っているだけだった。
でも、そこで“つまらなかった”とだけ答えるのも、何か違う気がした。
「……長かった」
「うん」
「でも、まあ」
「まあ?」
「お前が出てきた時に俺がいた方がよかったなら、それでいいんじゃないか」
言ってから、自分でも少しだけ照れくさくなる。
何だその保護者みたいな発言は。
だがひなは、変に茶化さず、ただ頷いた。
「うん。よかった」
その一言で、たぶん今日の待機任務はそれなりに完了したのだろう。
---
家へ戻ると、良子がすぐに出てきた。
「ごめん、間に合わなかった」
「別に」
ひなはすぐ作品を見せに行く。
良子がそれを褒める。
富子も奥から顔を出す。
いつもの家の流れだ。
その横で、良子が小声で言った。
「ありがと」
「待ってただけだよ」
「それが助かったんだって」
またそれだ。
今日そういうの多いな、と思う。
いや、最近ずっと多いのかもしれない。
「ひな、終わって出た時、お兄ちゃんいたの嬉しかったって」
「……本人にも言われた」
「でしょ」
良子は笑う。
「お兄ちゃん、前ならこういうの結構嫌がってたよね」
「今も嫌だよ」
「でも行ったじゃん」
「近かったからな」
「出た、近かったから」
それはもう、この生活圏における最大の言い訳であり、最大の罠でもある。
---
夜。
自室。
机の前に座り、スマホを置く。
部屋は静かだ。
「待つだけ、ね」
そう呟く。
今日の俺は、何も直していない。
何も買っていない。
何も設定していない。
ただ外で立って、時間を見て、二階の窓を眺めて、ひなが出てくるのを待っていただけだ。
なのに、その“だけ”が、思っていたより妙に残っている。
待つだけのこと。
前の俺なら、たぶんそれを切り捨てた。
意味が薄い。
効率が悪い。
家にいた方が楽。
そう思ったはずだ。
だが今は、そういう“何もしないように見える役割”の中にも、少し意味があるらしいとわかってしまった。
「……外で待つことを覚えるとか、何なんだよほんと」
自分で言っていて少し笑う。
大げさだ。
かなり大げさだ。
でも、昔の俺には本当になかった感覚でもある。
誰かのために外で待つ。
その人が出てきた時に、そこにいる。
たったそれだけのこと。
でも、その“たったそれだけ”が、人によっては少し安心になる。
「まあ、嫌いじゃないわけじゃないのかもな」
その結論は、少しだけ意外だった。
好きとまでは言わない。
面倒だし、長いし、落ち着かない。
でも、嫌いじゃないわけじゃない。
その程度の変化で、今は十分だった。
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