「部屋の空気は、人を選ぶ」
空気には、相性がある。
科学の話ではない。
酸素がどうとか湿度がどうとか、そういう意味ではなく、もっと雑で、もっと感覚的な話だ。
人によって落ち着く部屋と落ち着かない部屋がある。
同じソファでも、座る人が違うと妙に騒がしく感じたり、逆に静かだったりする。
場所そのものが何かを選んでいるように見える瞬間がある。
そして俺の部屋は、たぶん少しそういう性質を持ち始めていた。
誰が入っても同じではない。
誰でも歓迎、というわけでもない。
だが、完全に閉じているわけでもない。
その中途半端さが、最近の俺の部屋らしかった。
その日の午後、俺は自室で平和にしていた。
最近、“平和にしていた”から話が始まる率が高い気がする。
そして、そのあと高確率で平和ではなくなる。
構造としてあまりよくない。
だが、その時は本当に静かだった。
窓の外は薄曇り。
風は弱い。
エアコンも必要ないくらいの気温。
机の上には開きっぱなしのノートPCと、読みかけのラノベと、半分だけ残ったエナジードリンク。
最高である。
こういう時間のために部屋はあるのだ。
誰にも呼ばれず、誰にも頼まれず、ただ自分のペースで物と時間を置いておける場所。
それが自室の尊さというものだ。
だから、ノックの音がした時点で少し嫌な予感がした。
コンコン。
控えめ。
健太ではない。
あいつはもう少し音が雑だ。
「何」
「おじさん」
ひなだった。
「どうした」
「ちょっといい?」
この“ちょっといい?”は、ひなの中ではかなり礼儀正しい部類だ。
問題は、内容が本当にちょっとで済むかどうかである。
「何だよ」
ドアが少し開いて、ひなが顔を出した。
その後ろに、見慣れた顔がもう一つある。
美咲だった。
俺はそこで少しだけ目を細めた。
「……何で二人いるんだ」
「遊んでた」
ひなの答えはいつも必要十分すぎる。
美咲は少しだけ遠慮した顔で言った。
「急に雨ふってきて……」
窓の外を見る。
たしかに、さっきまで曇ってはいたが、今は細かい雨が降り始めている。
強くはない。
だが、外で遊び続けるには微妙なやつだ。
「下、今おばあちゃんとママが電話してるから」
ひなが続ける。
「で?」
「ちょっとだけ、ここいていい?」
来た。
だが、今回は少し違う。
ひな一人ではなく、美咲がいる。
この差は地味に大きい。
ひなはもう部屋にかなり馴染んでいる。
健太も騒がしいが、あいつなりの居方を覚えている。
だが、美咲はまだそこまでではない。
前より普通に話すようにはなったが、“俺の部屋に当然みたいにいる側”かと言われると違う。
その微妙な差が、ドアの前の空気にも出ていた。
「……ちょっとだけな」
俺がそう言うと、ひなはすぐ入ってきた。
「やった」
早い。
一方、美咲はドアのところで一拍置いた。
「おじゃまします」
ちゃんとしている。
このへんの差だ。
「おう」
俺がそう返すと、美咲は少しだけ安心したように部屋へ入った。
この時点で、空気がもう違う。
ひながいる時の部屋の空気は、わりとすぐ落ち着く。
そこへ美咲が加わると、少しだけ“来客”の成分が増える。
嫌ではない。
だが、自分の中の結界が一段だけ内側へ寄る感じがある。
「そこ座れ」
床のクッションを指すと、美咲は「うん」と言って座った。
ひなはもう当然みたいにベッドの端である。
「おじさん、これ読んでたの?」
ひなが本を持ち上げる。
「触るなって言う前に持つな」
「持っただけ」
「その理屈は危ない」
美咲は部屋を見回していたが、健太みたいに
“うわ秘密基地!”
みたいなことは言わない。
そこも違う。
「ほんとに、ちゃんとしてるんだね」
美咲がぽつりと言う。
「どういう意味だよ」
「ひなが言ってたから。
でも、もっとごちゃごちゃしてるのかと思った」
「俺がどういう説明されてるんだ」
ひなが即答する。
「家のこと強いおじさん」
「雑すぎるんだよな、その肩書き」
美咲はちょっと笑った。
「でも、なんかわかる」
それもまた困る。
雑な肩書きが他人に共有されて、しかも通じてしまうのが一番困る。
外の雨はまだ弱い。
つまり、今すぐ帰る感じではない。
そしてこういう“少しの雨宿り”が、実際には二十分くらいになるのを俺は知っている。
「飲み物いるか」
言ってから、自分で少し驚いた。
今のはかなり自然に出た。
完全に来客対応ではないか。
ひなが頷く。
「いる」
当然だな。
美咲は少し遠慮した。
「え、いいよ」
「ひなだけ出す方が変だろ」
「じゃあ……ちょっとだけ」
俺は立ち上がって一階へ行き、麦茶を二つ持って戻った。
こういう動きも、以前の俺ならもう少し抵抗があった気がする。
今はもう、“部屋へ人がいるなら飲み物くらい”が半分自然になっているのが嫌だ。
「はい」
「ありがと」
「ありがとうございます」
ひなと美咲では、やはり言い方が違う。
その違いが、そのまま部屋の中の空気にも出る。
ひなはコップを持って足をぶらぶらさせている。
美咲は膝を揃えて座っている。
どちらが正しいとかではない。
ただ、馴染み方が違うのだ。
「おじさんの部屋、静かだね」
美咲が言った。
「下がうるさいだけだ」
「でも、なんか落ち着く」
その評価はひな寄りだな、と思う。
「ひなは前からそう思ってるよ」
ひなが言う。
「でしょ」
「うん」
美咲が頷く。
二人のそのやり取りを見て、少しだけ変な気分になる。
俺の部屋に対する評価が、子ども同士で共有されている。
しかも“落ち着く”とか“静か”とか、わりと居場所として本質的なところで。
やめてほしい。
やめてほしいが、完全に嫌でもない。
そこがまた面倒だ。
その時、またノックの音がした。
コンコン、ではない。
もっと雑だ。
「おじさん!」
健太である。
最悪だ。
空気が変わる。
「駄目だ」
俺が即答すると、ドアの向こうで健太が言う。
「何で!」
「多い」
「何が!」
「人数が」
「オレも入る!」
「だから駄目だって言ってるだろ」
ひなが言う。
「けんた、今ちょっとちがう」
「何が!?」
その説明はたぶん健太には難しい。
ドアが少し開き、健太が顔だけ突っ込んでくる。
部屋の中を見て、ひなと美咲と俺を確認する。
「何か静かだ」
「そうだよ」
「何で」
「お前が入ってないからだ」
「ひどっ!」
だが、これはかなり本音だった。
健太が入ると、空気が変わる。
嫌とか悪いとかではない。
ただ、もう少し騒がしくなって、もう少し“秘密基地”寄りになる。
今のこの部屋はそうではない。
雨宿りの女子二人がいて、静かに麦茶を飲んでいる。
少し来客寄りで、少し落ち着いた空気だ。
そこへ健太は合わない。
それを俺は、前よりちゃんと感じ取れるようになっていた。
「下行け」
「えー」
「良子いるだろ」
「いるけど」
「じゃあいいだろ」
健太は不満そうだったが、最終的には引いた。
引きながらも「あとで来る!」と捨て台詞を残していった。
来なくていい。
ドアが閉まる。
部屋にまた静けさが戻る。
「健太くんって、ほんと元気だね」
美咲が苦笑いで言う。
「元気っていうか、勢いだけで生きてる」
「でも、ちょっと面白い」
「それはわかる」
俺がそう返すと、美咲は少しだけ驚いた顔をした。
「おじさん、そういうこと言うんだ」
「どういう意味だよ」
「なんかもっと、ずっと困ってるだけかと思ってた」
「困ってはいる」
「でも、嫌そうなのと、本当に嫌なのはちょっと違うよね」
その一言が、思ったより鋭かった。
俺は少しだけ黙る。
たしかにそうだ。
健太に対しても、ひなに対しても、最近はその差がある。
面倒だ。
うるさい。
落ち着かない。
でも、本当に全部が嫌というわけでもない。
「……お前、小学生にしては変に見てるな」
「えへへ」
照れるところなのか。
ひながそこで、当然みたいに言う。
「おじさんの部屋、たぶん人えらんでるよ」
俺は思わずそっちを見た。
「何だそれ」
「だって、けんただとちょっとうるさくなる」
「まあ……そうだな」
「ひなはだいじょうぶ」
「自分で言うな」
「でもそうでしょ」
その言い方も、たしかに間違っていない。
ひなはこの部屋にかなり馴染んでいる。
空気を変えない。
俺も前ほど疲れない。
美咲はまだ少し来客寄りだが、静かな分だけ空気に馴染んでいる。
健太は駄目だ。
悪いわけではないが、この空気には合わない。
つまり、部屋が人を選んでいる、というのは少し正しいのかもしれない。
「……部屋のせいにするなよ」
俺がそう言うと、ひなは首をかしげた。
「でも、おじさんもそう思ったでしょ」
否定しづらい。
その時、一階から良子の声が聞こえた。
「ひなー、美咲ちゃんー、雨弱くなってきたよー」
美咲が窓の方を見る。
たしかに、さっきよりだいぶ細くなっている。
「じゃあ、そろそろ帰る」
美咲が立ち上がる。
ひなもベッドから降りる。
「おじさん、ありがと」
「別に」
「麦茶も」
「それくらいはな」
美咲はドアのところで少しだけ振り返った。
「おじゃましました」
「おう」
「なんか、ほんとに落ち着いた」
その一言を残して、美咲は下りていった。
ひなはその後ろで当然みたいに言う。
「でしょ」
そして自分も出る直前、俺を見て言った。
「おじさんの部屋、誰でもいいわけじゃないよね」
俺は少しだけ肩をすくめた。
「……そうかもな」
「うん」
ひなは満足そうに頷いて、下りていった。
ドアが閉まる。
静かになる。
俺は椅子に座り直し、部屋の中を見回した。
机。
本棚。
ベッド。
コップ二つ。
さっきまで人がいた気配。
「部屋の空気が人を選んでる、か」
独り言にしてみると、変な言葉だ。
だが、そこまで外れてもいない気がする。
この部屋はまだ俺の部屋だ。
誰が入っても同じではない。
誰でも歓迎、というわけでもない。
でも、入れてもいい相手はもうちゃんといる。
それは、結界が壊れたというより、結界の門の開け方が少しわかるようになった感じに近いのかもしれなかった。
「……まあ、それならまだいいか」
そう呟いてから、俺はコップを持って一階へ下りた。
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