「父は父で、俺の扱いがうまくなってきたようだ」
人に何かを頼む、というのは案外むずかしい。
頼み慣れている人は、たぶんそう思わないのだろう。
「これお願い」
「ついでにそれも」
「あとでやっといて」
そういう言葉を、呼吸と同じくらい自然に投げられる人が世の中にはいる。
うちで言えば、富子がそうだ。
あの人の依頼は軽い。
軽いくせに回避しづらい。
そして気づけば数が増えている。
かなり厄介なタイプの“頼める人”である。
一方で、父は違う。
父の頼み方は昔から少し硬かった。
というか、そもそも俺に何かを頼むこと自体が少なかった。
必要なら自分でやるし、言うにしても少し遠回りだった。
「これ、わかるか」
「ちょっと見られるか」
そういう、頼んでいるようでまだ少し距離がある言い方。
だからこそ、その日の一言は妙に残った。
その日の午後、俺はリビングでだらだらしていた。
だらだら、というのは重要だ。
最近の俺は前より外へ出ることも増えたが、それでも“何もしていない時間”は大事である。
ただ座っている。
テレビは点いているが、そんなに見ていない。
スマホも見るが、真剣ではない。
そういう、行動と停止のあいだみたいな時間。
父は和室にいた。
帰省の荷物を少し整理しているらしく、紙袋の音やファスナーの音が時々聞こえる。
富子は台所。
良子とひなはまだ来ていない。
健太の襲来もない。
つまり、かなり平和寄りの午後だった。
その平和を、父の声が少しだけ揺らした。
「太郎」
「何」
返事はしたが、まだ顔は向けない。
このくらいの距離感がちょうどいい。
「ちょっとこれ頼む」
俺はそこで、少しだけ動きを止めた。
今の言い方。
妙に自然だったな。
父が和室から出てきて、手にしていたのは小さな紙袋だった。
中には何か箱みたいなものが入っている。
「何これ」
「向こうで使ってる髭剃りの替刃。
この前買ったやつが違ってたらしくてな」
「へえ」
「駅前の電器屋で合うの見てもらいたい」
なるほど。
内容としては普通だ。
特に重くない。
日常的な用事。
だが問題はそこではない。
父が今、かなり自然に
**「ちょっとこれ頼む」**
と言ったことだ。
頼み方が、妙に普通だった。
昔ならもう少し前置きがあったかもしれない。
これ見られるか、とか。
時間あるか、とか。
今はそれがない。
“頼む”が、もう会話の中へそのまま入ってきている。
「今日行くならついででいい」
父が続ける。
「行かなきゃそのうちでいい」
そこも、妙に自然だ。
押しつけではない。
だが遠慮しすぎてもいない。
頼み方としてちょうどいいところへ来ている。
俺は紙袋を受け取った。
「……まあ、あとで行く」
「そうか」
それで終わった。
終わったのだが、その短いやり取りの中に、妙な引っかかりが残る。
父はそれ以上、何も言わず和室へ戻った。
俺は紙袋を膝の上に置いたまま、しばらくぼんやりしていた。
「何その顔」
台所から富子が言う。
「別に」
「別にじゃないでしょ。
今ちょっと止まってたわよ」
「気のせいだ」
「お父さんに頼まれたから?」
その言い方が、いちいち鋭い。
「……何でもない」
「ふうん」
富子はそれ以上突っ込まなかった。
そこがこの人のうまいところでもある。
気づいていても、必要以上にはいじらない。
だが、俺の中では少し残った。
父は父で、俺を使うのがうまくなってきたのではないか。
そんな言い方はひどい気もするが、かなり本質に近い。
“頼り方”が自然になってきているのだ。
それがいいことなのかどうかは、まだ少し判断がつかなかった。
---
夕方、俺は駅前の電器屋にいた。
紙袋の中の替刃を持って、店員に型番を確認してもらう。
こういう作業自体は大したことじゃない。
むしろ、目的が明確な買い物は気が楽だ。
「こちらですね」
店員が棚から持ってきた箱を見て、俺は紙袋の中の型番と見比べる。
たしかに違っていた。
父が間違えたというより、たぶん売り場の表記がわかりづらかったのだろう。
「これでいいです」
会計。
袋を受け取る。
それだけ。
本当にそれだけの用事だ。
なのに、店を出たあとで少しだけ考えてしまう。
この“それだけ”の用事を、父は今まではあまり俺に回してこなかった。
向こうで使うものなら自分で何とかしたかもしれないし、違う替刃を買ったこと自体をそのまま流したかもしれない。
それを今は、普通に
**これ頼む**
で渡してきた。
深い意味はないのだろう。
たぶん、本当にない。
それでも、人との関係というのは、こういう小さい頼み方の変化に出る。
重い話なんか一切していない。
和解っぽいこともない。
ただ、生活の中の細かいタスクが少しずつ共有される。
それだけで、距離というのは案外変わるのかもしれない。
帰りに、富子に頼まれていた洗剤も買った。
どうせ駅前に出たなら、というやつだ。
ついでの範囲が広いのはもう諦めている。
---
家へ戻ると、父は和室で本を読んでいた。
「買えた」
俺が紙袋を持って言うと、父はすぐ顔を上げた。
「おう」
立ち上がる。
袋を受け取る。
箱を見る。
型番を見る。
「これだな」
「前のと一文字違ってた」
「そうか」
「見づらかったぞ、棚」
「やっぱりそうか」
父が少しだけ納得した顔をした。
この“やっぱり”も何となくわかる。
自分の見落としというより、売り場のわかりにくさだと思いたい気持ち。
買い物ではよくある。
「ありがとな」
父が言った。
その一言は短かった。
だが、それで十分だった。
「別に」
俺も短く返す。
いつもの言葉。
だが、今日はそれでちょうどよかった。
そこへ良子とひなが来た。
玄関の開く音。
足音。
そして良子の第一声。
「お兄ちゃん、今帰ったの?」
「帰ったよ」
「何してたの」
父が何でもない顔で言う。
「ちょっと頼みごと」
それだけだ。
だが、それだけで良子は察した顔になる。
「へえ」
こいつ、本当に顔色を読むのが早いな。
「何だよ」
「いや、別に」
お前までその返しを使うな。
ひなが俺の袋を見て言う。
「おじさん、お買い物?」
「そうだよ」
「また頼まれたの?」
「まあな」
ひなは特に不思議がりもせず頷いた。
「おじさん、そういうの多いね」
「最近な」
「でも、やるもんね」
その言い方もまた、妙に自然だった。
責めてもいない。
褒めてもいない。
ただ、そういう人だと認識しているだけ。
良子が靴を脱ぎながら言う。
「お兄ちゃんさ」
「何」
「なんかほんと、最近“頼めば動く人”として完成してきたよね」
「うるさい」
「いや、悪い意味じゃなくて」
「悪く聞こえるんだよ」
父がそこで、本当に何でもない調子で言った。
「前より頼みやすいのはあるな」
俺は少しだけ言葉に詰まった。
父の口からそれが出るのか。
しかも、そんなに平然と。
良子も一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐ笑う。
「え、何それ。
お父さんからそういうの出るんだ」
「本当のことだろ」
父は短く言う。
それ以上でもそれ以下でもない、という顔だ。
だが、こっちはその程度の一言でかなり揺れる。
「……頼みやすいって何だよ」
思わずそう返すと、父は少しだけ考えてから言った。
「言えば動くし、変に放りもせんだろ」
それは、たぶん褒め言葉だった。
かなり父なりの、だが。
言えば動く。
変に放らない。
派手さはない。
だが、生活の中ではたしかに大事な評価だ。
ひながそこで静かに頷く。
「うん」
「お前までうなずくな」
「だってそうだもん」
最近、ほんとにこのパターンが多いな。
良子はにやにやしている。
「お兄ちゃん、今日ちょっと効いてるね」
「効いてない」
「効いてるって。
顔が“どう処理していいかわかんない”時のやつだもん」
それは否定しづらかった。
---
夜、自室へ戻る。
ドアを閉める。
椅子に座る。
静かだ。
「頼みやすい、ね……」
思わず口に出る。
父にそう言われるのは、妙に変な感じだった。
昔なら、まず出てこなかった言葉だろう。
そして今の俺も、まだそれを素直には受け取れない。
だが、嫌だったかと言われると、そこも少し違う。
頼りやすい。
言えば動く。
放らない。
そういう評価は、以前の俺からするとかなり遠い場所にあった気がする。
少なくとも、家の中では。
「……父は父で、俺を使うのがうまくなってきたんだよな」
少しひどい言い方だ。
だが、本質でもある。
頼み方が自然になった。
遠慮が減った。
それはつまり、父の中でも“こっちへ振って大丈夫な用事”として俺が少し定着してきたということだ。
そして、俺もそれを前ほど構えず受けている。
「同じ家の大人、か」
ぽつりと呟く。
親子だとか、父と息子だとか、そういう重い言葉を経由しなくても、家の中には別の関係の形があるのかもしれない。
同じ家にいる大人。
役割が少しずつ分かれていて、必要な時は短く頼んで、終われば礼を言う。
それなら、まだやりやすい。
感動するほどの話ではない。
劇的でもない。
でも、そういう“小さい普通”の積み重ねの方が、今の俺たちには合っている気がした。
机の上のエナジードリンクを手に取る。
開ける。
炭酸の音。
「……まあ、悪くはないか」
その結論が出るまでに、思ったより時間がかかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!!
もし作品を気に入っていただけましたら、
下部の☆☆☆☆☆より評価をいただけると大変励みになります。
★★★★★を入れていただけると作者のやる気が大幅に上がります(^^)/
また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。
引き続きよろしくお願いいたします。




