「ひなはすぐにおじさんを呼ぶ」
信頼というものは、だいたい静かに重い。
ドラマみたいに大げさな言葉で来ることは少ない。
「あなたしかいないの」だの「お願い、助けて」だの、そういう派手な展開は現実ではまず起きない。
現実の信頼はもっと地味だ。
困った時に、自然にこっちへ来る。
わざわざ大きく頼みもしない。
当然みたいな顔で「これ」と持ってくる。
そして片づくと、当たり前みたいに安心して戻っていく。
だから気づきにくい。
気づいた時には、わりと深いところまで来ている。
その日、俺はそれを自室で静かに食らっていた。
午後だった。
珍しく、平和だった。
富子は買い物へ出ていて、父は和室で何か書き物をしていた。
良子はまだ来ていない。
健太の声もしない。
つまり、かなり当たり日である。
俺は机に向かい、だらだらと動画を流しながら、開きっぱなしのゲーム攻略Wikiを眺めていた。
やるかどうかは決めていない。
ただ眺める。
この“やる前の情報だけ見てる時間”というのは、わりと豊かだ。
実際にやるより長くなることもあるが、それはそれで問題ない。
窓の外は明るい。
風は少しぬるい。
エアコンの音も静かだ。
「今日は静かだな……」
そう呟いた時点で、たぶんフラグは立っていたのだろう。
コンコン。
控えめなノックの音がした。
「何」
「おじさん」
ひなだった。
健太と違って、あいつはちゃんとノックをする。
ただし返事を待つとは限らない。
ドアが少し開き、ひなが顔を出した。
「どうした」
「ちょっと」
その“ちょっと”は、子どもの言葉の中ではわりと信用できる方だ。
大人の“ちょっと”よりは、ずっとましである。
ひなは部屋の中へ入り、両手で何かを持っていた。
小さい巾着みたいな袋だ。
「何だそれ」
「これね、学校の」
袋から出てきたのは、名札だった。
正確には、名札につける安全ピンのついた白いケースみたいなやつ。
その留め具の片方が、外れかけている。
「とれそう」
ひなはそれだけ言って、俺へ差し出した。
俺は一瞬だけ止まった。
「母さんは?」
「下にいない」
「良子は?」
「まだ」
「父さんは?」
「和室」
「父さんに見せろよ」
「おじさんがいい」
その返しが早かった。
俺は少しだけ目を細める。
「何で」
「だって、おじさんこういうのすぐ見るもん」
その言い方が、あまりにも自然で困る。
“お願い”ではない。
“見てくれる?”でもない。
“こういうのすぐ見るもん”。
つまり、もう前提なのだ。
困った時に持っていけば、俺が見て、たぶん何とかする。
ひなの中ではそこまでルートが固定されている。
「……母さんでもいいだろ」
「でも今いないし」
「父さんでも」
「おじさんの方が早い」
それはたしかにそうかもしれない。
そして、そうかもしれないからこそ困る。
俺は名札を受け取った。
「どこでなった」
「わかんない。
気づいたら、こっちちょっとふわふわしてた」
説明が独特だが、まあわかる。
金具の片方が外れて、固定が甘くなっている状態だ。
「これくらいなら」
指先で金具を戻す。
押し込む。
少し硬い。
だが難しくはない。
「ほら」
返す。
「なおった?」
「見ろ」
ひなは名札を受け取って、表と裏を確認した。
それから、ほっとしたように小さく息をついた。
「うん」
その“うん”が妙にまっすぐで、少しだけ困る。
「それだけか」
「うん」
「じゃあよかったな」
「うん。ありがと」
ひなはそこで帰るのかと思った。
だが帰らなかった。
ベッドの端にちょこんと座って、名札を袋へ戻している。
「何だよ」
「ちょっと休憩」
「何のだ」
「なおってよかった休憩」
「そんな休憩あるのか」
「あるよ」
子どもの理屈は本当に自由だな。
ひなは数秒、黙って袋の紐を結び直していた。
部屋は静かだった。
外の車の音が少しだけ聞こえる。
こういう静かな時間の中に、子どもが一人いても前ほど落ち着かなくない、という事実に、俺は少しだけあとから気づく。
ひながふと聞いた。
「おじさん、何見てたの?」
「ゲームのやつ」
「やってないの?」
「まだ」
「なんで」
「今は見てるだけでいいんだよ」
「へんなの」
そう言いながら、ひなは別に馬鹿にした顔はしない。
ただ、本当に不思議そうなだけだ。
「ひなはやる前にあんまり見ない」
「子どもだからな」
「おじさんは?」
「……大人だからだろ」
我ながら説得力の薄い返事だった。
実際には、大人だからというより、決断に時間がかかる性質の問題な気もする。
ひなは少し考えてから言った。
「でも、おじさん、ちゃんと見てくれる」
「何を」
「こういうの」
袋の中の名札を軽く叩く。
「だから、おじさんでよかった」
その言い方に、また少しだけ喉が詰まる。
大げさじゃない。
感動の演出もない。
ただ、本当にそう思ったから言っただけ、という声。
こっちはそういうのに弱いのだ。
いや、たぶん誰でも少しは弱い。
「……別に、これくらいなら」
「うん」
ひなは頷いた。
頷いて、でもそこで終わらせなかった。
「でも、ひな、最初からおじさんのとこ来たよ」
俺は視線を少し逸らした。
「それ、さっきも言ってたろ」
「うん。
だって、おじさんならちゃんと見るから」
ちゃんと見る。
その評価は、最近ひなの中で何度か出てきている。
“ちゃんとしてる”とか、“ちゃんといる”とか。
雑なようでいて、たぶん子どもなりにかなり本質を掴んでいる言い方なのだろう。
適当に流さない。
途中で投げない。
見たら見る。
直せるなら直す。
そういう意味での“ちゃんと”なのだと思う。
「……母さんに言えば、母さんも見るだろ」
「でもおじさんの方が、早いし」
ひなはそこで少しだけ笑った。
「あと、なんか落ち着く」
その一言は、名札の金具よりずっと手強かった。
俺はしばらく何も言えず、結局こう返すしかなかった。
「お前の評価、いちいち重いんだよ」
「重い?」
「何でもない」
ひなはきょとんとした。
まあ、わからなくていい。
その時、ドアが少し開いた。
「ひなー、いた」
良子だった。
部屋の中を見て、ベッドの端のひなと俺、そしてひなの手の中の名札を見比べる。
その時点で全部察した顔になる。
察しがよすぎるのもどうかと思う。
「直してもらったの?」
良子が聞く。
「うん」
「ふーん」
その“ふーん”は、だいたい何か含みがある時のやつだ。
「何だよ」
「いやあ、ひな、最初からお兄ちゃんのとこ来たんだなって」
やっぱりそこか。
「だって、おじさんだから」
ひなが当然みたいに言う。
良子は少しだけ笑ってから、靴下のまま部屋へ入り、机の横に立った。
「ひな、お母さんに先言えばよかったのに」
「でも、おじさんの方が早いし」
「うわ」
良子が変な顔をした。
「その言い方、地味に効くやつじゃん」
「何が」
「別に」
お前まで“別に”を使うな。
良子はベッドの縁に手を置いて、少しだけ真面目な顔になった。
「ひな、ほんとに最初にお兄ちゃん呼ぶようになったね」
その言葉は、さっきのひなの言葉とは別の角度で刺さる。
ひなは当然みたいに頷いた。
「うん」
「何で」
「だって、おじさんいるし」
その答えが一番困る。
理由が単純すぎるのだ。
いるから。
呼べるから。
見てくれるから。
それだけのことで最初の相手に選ばれる。
子どもの信頼というのは、本当にそういうふうにできているのかもしれない。
良子は俺を見た。
「お兄ちゃん、なんか今ちょっと困ってる顔してる」
「困るだろ」
「何で?」
「何でって……」
言葉にしづらい。
嬉しいとか、照れるとか、重いとか、いろいろ混ざっている。
そしてそのどれもを素直に口に出せるほど、俺はできた人間でもない。
「……別に、そこまで最初に来なくてもいいだろって思うだけだ」
「でも来るんだよ」
「来るな」
「無理でしょ」
良子が笑う。
「ひなの中ではもう、お兄ちゃんかなり上位なんだって」
「何のランキングだよ」
「困った時に頼る人ランキング」
「嫌なランキングだな」
「でも一位っぽい」
ひながそこで小さく手を挙げた。
「ひなの中では、一位だよ」
やめろ。
そんなにはっきり言うな。
心の準備がない。
「……お前、ほんとそういうの急に言うな」
「ほんとのことだもん」
子どもの“ほんとのこと”は強い。
誇張がない。
だから逃げにくい。
良子はそれを見て、少しだけやさしい顔で笑った。
「よかったじゃん」
「よくは……」
と言いかけて、やめた。
よくない、と言い切るのも違う。
むず痒い。
落ち着かない。
重い。
でも、悪いだけではない。
「……何でもない」
それが精いっぱいだった。
ひなはもう十分話したと思ったのか、ぴょんとベッドから降りた。
「じゃ、下いく」
「おう」
「名札、明日だいじょうぶだよね」
「たぶん」
「よかった」
その“よかった”が、最初に部屋へ入ってきた時より軽くなっている。
もう安心している声だ。
ドアのところで、ひなは振り返った。
「おじさん」
「何」
「また何かあったら来るね」
「宣言するな」
「だって来るもん」
そう言って、ひなは下りていった。
良子はドアの前で一瞬だけ止まり、振り返る。
「お兄ちゃん」
「何」
「ひなに最初に呼ばれるの、ちゃんと嬉しいんでしょ」
「……うるさい」
「否定しないんだ」
「うるさい」
良子は少し笑って、それ以上は言わずにドアを閉めた。
部屋が静かになる。
さっきまでの小さな気配だけが、少し残っている。
名札の件自体は、本当に大したことじゃなかった。
金具を戻しただけ。
数秒で終わる作業だ。
なのに、その前後のやり取りが妙に残る。
困った時に最初に来る。
おじさんならちゃんと見る。
落ち着く。
一位。
「……重いんだよなあ」
思わずそう漏らした。
便利とか、使えるとか、そういう雑な評価ならまだ流せる。
子どものこういうまっすぐな信頼は、別のところへ刺さる。
俺は椅子に座り直し、さっきまで眺めていた攻略Wikiへ視線を戻した。
だが、内容はほとんど頭に入ってこない。
画面の向こうの最適解より、さっきのひなの一言の方が、よほど処理が難しい。
「……最初から呼ぶなよ、ほんと」
そう呟いてから、少しだけ笑ってしまった。
呼ぶなと言ったところで、たぶんまた来るのだろう。
困りごとはなくならないし、ひなはたぶんもう、迷わない。
そして俺も、そのたびに文句を言いながら、たぶんまた見るのだ。
不本意だが。
かなり不本意だが。
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