プロローグ 「担当外の用事ほど、俺に回ってくる」
第5幕の始まりです。
担当外の仕事ほど、なぜかこっちへ来る。
これは会社の話ではない。
いや、半分くらいは会社の話でもある。
昔の俺がいたブラック企業でも、たしかにそういうことはあった。
営業の仕事なのに総務みたいなことをやらされ、総務の仕事かと思ったら雑用で、最後にはなぜか誰の担当でもない尻拭いが回ってくる。
ただ、今言いたいのはもっと身近で、もっと逃げづらい話だ。
家である。
近所である。
生活圏である。
そして今の俺――佐藤太郎は、その生活圏において、なぜか“まああいつに言えば何とかなるだろ”枠へ着実に押し込まれつつある。
不本意だ。
かなり不本意だ。
だが、それを不本意と言い切るには、最近の俺は少し動きすぎてしまっていた。
その日も朝から、まったく落ち着かなかった。
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休日の朝というものは、本来、静かであるべきだ。
目が覚めてもすぐには起きず、ベッドの上で少しぼんやりして、スマホを見るか見ないかくらいのところで時間を溶かす。
そういう怠惰な余白があってこそ、休日には価値がある。
なのに、その日は朝から一階が少しうるさかった。
「太郎ー!」
富子である。
俺はベッドの上で目を開けた。
天井。
薄い光。
まだ眠い。
だが一階からの呼び声というのは、聞こえた時点で精神へじわじわ来る。
「何ー!」
声だけ返す。
「ちょっと見てー!」
それが信用できないことはもう知っている。
“ちょっと見て”で済んだことはほとんどない。
見た瞬間、“じゃあついでにこれも”へ進化するのだ。
俺はしぶしぶ起きて、階段を下りた。
リビングでは、富子が両手にペットボトルを持っていた。
何だ。
もっと深刻な家電トラブルか何かかと思った。
「何」
「このキャップ、固いのよ」
「……それで呼んだのか」
「だって開かないんだもの」
たしかに固そうではある。
だが、それを朝一番に二階の人間へ依頼するのか。
「自分でやれよ」
「やったわよ」
「父さんは」
「和室」
つまり今この瞬間、最寄りの“開けられそうな大人”として俺が選ばれたわけか。
不本意だが、理屈は通ってしまう。
俺はペットボトルを受け取ってひねる。
開く。
もう一本。
開く。
「ほら」
「ありがと」
終了。
たったそれだけのことだ。
それなのに、朝から一回“任務達成”みたいな気分にさせられるのが少し癪だった。
だが、当然それで終わらない。
「じゃあついでに、帰りに牛乳買ってきて」
「何のついでだよ」
「今開けてくれたついで」
「ついでの単位が広すぎるだろ」
富子はまったく気にした様子もなく冷蔵庫を開けていた。
この人の中では、たぶん“今下にいるなら全部まとめて頼める”くらいの感覚なのだろう。
あまりにも効率重視である。
こちらの気分はあまり考慮されていない。
そこへ和室から父が出てきた。
「太郎」
「何」
「あとでプリンター見てくれ」
増えた。
「何で」
「印刷できん」
「それたぶん設定だろ」
「だから見てくれって言ってる」
短い。
相変わらず短い。
だが、最近の父はこういう“これ頼む”をわりと自然に言うようになった。
それが妙にまだ慣れない。
「あとでな」
「急がん」
その返しだけで、わりと助かる。
“今すぐ”ではないのが大きい。
だが、その会話を聞いていた良子がソファから笑い混じりに言った。
「じゃあお兄ちゃん、牛乳のついでにプリンもお願い」
「何でだよ」
「ひなが来るから」
また増えた。
しかも、今度は子ども案件である。
「ついでじゃないだろ」
「でもどうせ買いに行くんでしょ?」
「行くけど」
「じゃあいいじゃん」
この家の人間は本当に“行くなら全部一緒”理論で人を追い詰めてくる。
そこへ、ちょうど玄関の開く音がした。
「おはよー!」
元気だな。
健太だった。
さらに続けて、ひなの声。
「おじゃまします」
ああ、来た。
しかもタイミングが最悪に噛み合っている。
プリン追加依頼の直後に本人登場。
逃げ道がまた一つ減った。
ひながリビングへ入ってきて、俺を見るなり当然のように言った。
「おじさん、おはよう」
「おう」
「今日、あとでグミもいる」
「何でだよ」
お前まで乗るな。
「だって、プリンだけだとちょっとさびしい」
「知らんがな」
健太は横から自由研究の紙をぶんぶん振っていた。
「おじさん見てこれ!」
「朝からかよ」
「今のうちに見てもらいたい!」
何なんだ。
なぜ俺の休日の朝は、家族と近所の子どもによる複合タスク管理画面みたいになっているのか。
良子は完全に面白がっていた。
「お兄ちゃん、もう朝から処理落ちしてる」
「してない」
「してるよ。
今もう頭の中で優先順位つけてる顔してる」
図星だったので腹が立つ。
たしかに、俺の頭の中では今、勝手にタスクが並び始めていた。
一、父のプリンター。
二、牛乳。
三、プリン。
四、グミ。
五、健太の自由研究。
六、今後追加されるであろう何か。
最後の項目がある時点で、もう終わっている。
「……朝から多いんだよ」
思わず本音が出る。
富子は平然としていた。
「まだこれくらいよ」
「“まだ”って何だよ」
その“まだ”の意味を聞く前に、玄関の方からまた声がした。
「あらあら、みんないるのねえ」
最悪だった。
田村梅子である。
なぜ今日に限って、生活圏の主要人物が全員揃うのか。
いや、限って、ではないのかもしれない。
最近はわりとこういうことが多い。
梅子さんは家の前から顔を出して言った。
「太郎ちゃん、あとでちょっとだけいい?」
その“ちょっとだけ”は信用してはいけない。
経験がそう言っている。
「何ですか」
「回覧板の確認と、あと掲示板の紙が少し剥がれててねえ」
来た。
近所案件である。
しかも軽そうに見えて、絶対軽く終わらないやつだ。
俺はその場で天井を見上げた。
「……何で全部俺に来るんだよ」
かなり本音だった。
だが、周囲は別にその言葉へ強く反論しなかった。
富子は牛乳の残量を見ているし、父はプリンターの電源を入れ直しているし、良子は笑っているし、ひなはグミの味を考えているし、健太は自由研究の紙をまだ振っているし、梅子さんは“あらまあ”みたいな顔で立っている。
つまり全員、ある意味では“そういうもの”として受け止めているのだ。
「だってお兄ちゃんいると早いし」
良子が言う。
「おじさん、ちゃんと見るし」
ひなが言う。
「おじさんならわかる!」
健太が言う。
「まあ、その辺はお前だろうな」
父が言う。
「助かるわあ」
梅子さんが言う。
何だこの包囲網は。
しかも誰も悪気がない。
悪気がないどころか、わりと素で言っている。
だからなおさら質が悪い。
俺はしばらく黙ってから、ようやく言った。
「……担当外なんだよ、本来」
「何の担当なの?」
健太が聞く。
知らん。
そこを聞かれると、こっちも返答に困る。
「自宅警備だろ」
ぼそっとそう返すと、良子が吹き出した。
「警備の範囲広がりすぎでしょ」
「広げた覚えないんだよ」
「でも今、家の中も近所も見てるじゃん」
言い方がよくない。
だが事実でもあるから余計に腹が立つ。
そこへひなが、何でもない顔で言った。
「おじさん、いると助かるもん」
その一言だけ、少し違う温度で入ってきた。
静かで、当たり前みたいで、だからこそ妙に重い。
俺は一瞬だけ言葉に詰まり、それから無理やり視線を逸らした。
「……そういうのが一番ずるいんだよな」
「何が?」
ひなはわかっていない。
わからなくていい。
良子だけが少しだけ、笑いを引っ込めた顔をしていた。
父も何も言わない。
富子だけが普通の声で言う。
「じゃあ、まずプリンター見てから買い物行ってきて」
「結局そこへ戻るのかよ」
「順番大事でしょ」
それはそうだ。
悔しいがその通りだ。
こうして俺の休日の朝は、自分の意思とはあまり関係なく動き出した。
プリンター。
牛乳。
プリン。
グミ。
自由研究。
回覧板。
掲示板。
全部、小さい。
どれ一つとして人生を変えるような大事件ではない。
だが、そういう小さいものが、なぜか全部こちらへ流れてくる。
担当外だ。
本当に担当外だ。
なのに、気づけば一つずつ処理している自分がいる。
それがまた、我ながら少し面倒だった。
---
結局、午前中だけでかなりのことをやった。
父のプリンターは単に接続先がずれていただけだった。
牛乳とプリンとグミは、コンビニではなくスーパー指定に変わった。
健太の自由研究は“字がでかすぎるからもう少し整理しろ”とだけ言った。
梅子さんの掲示板は、剥がれた紙の端を貼り直して済んだ。
回覧板はなぜか二件先まで俺が持っていくことになった。
何なんだ。
本当に何なんだ。
昼近くになってようやく自室へ戻り、椅子へ座った時には、もうそれなりに疲れていた。
まだ一日終わっていないのに、すでに“今日はやった方”みたいな気分になっている。
だが、この感覚にも少し慣れてしまっている自分がいるのが嫌だ。
「……担当外の用事ほど、なぜか俺に来る」
独り言が、そのまま部屋の中へ落ちる。
前なら、もっと露骨に逃げていたかもしれない。
部屋にこもる理由を探し、聞こえないふりをし、下へ降りない選択を本気で考えたはずだ。
今も、そうしたい気持ちがゼロではない。
だが、完全にそうもしなくなっている。
頼まれる。
面倒くさい。
文句を言う。
でもやる。
その結果、また次が来る。
この循環は、かなり良くない。
良くないのだが、完全に悪いとも言い切れないのが一番困る。
なぜなら、その循環の中には、ひなの“いると助かる”とか、父の“その辺はお前だろうな”とか、梅子さんの“助かるわあ”とか、そういう妙に軽くて妙に残る言葉も混ざっているからだ。
「……ほんと、面倒なんだよな」
そう呟いて、俺は机の上のエナジードリンクを開けた。
炭酸の音が、小さく部屋に広がる。
担当外の用事ほど、なぜか俺に来る。
その現実はたぶん、これからもしばらく続くのだろう。
そして俺は、そのたびに文句を言いながら、少しずつ片づけてしまうのだ。
不本意だが。
かなり不本意だが。
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