「俺の部屋、避難所扱いされる」
部屋には、本来ひとつの役割がある。
休む。
閉じる。
外を遮断する。
少なくとも俺にとって、自室とはそういう場所だった。
誰にも見られない。
誰にも入られない。
好きな物だけがあって、好きな順番で積まれていて、好きな音量で動画を流せる。
世界から少しだけ距離を取るための、最後の安全地帯。
つまり結界である。
そして結界というものは、本来、外の人間から守るために張るものだ。
間違っても、近所の小学生や姪や、その親や、場合によっては父親まで含めて“なんとなく落ち着く場所”として認識されていいものではない。
なのに最近、どうもその方向へ話が進んでいる気がする。
その日も、発端は天気だった。
昼過ぎから空が妙に暗いと思っていたら、案の定、夕方前に一気に降り始めた。
夏の終わり特有の、遠慮のない雨である。
最初はぱらつく程度だったのに、気づけば庭の土を叩き、窓ガラスを白く曇らせ、屋根をうるさく鳴らしていた。
俺は二階の自室にいた。
机。
ノートPC。
エアコン。
薄暗い部屋。
素晴らしい。
雨の日の部屋というのは悪くない。
外へ出なくていい理由が天候側から供給されるし、生活音も雨が適度に飲み込んでくれる。
こういう日は、部屋にいることがより正当化される気がする。
「今日は平和だな……」
小さく呟いた、その数分後である。
階下から、複数の足音と声が聞こえた。
嫌な予感しかしない。
「うわ、すご!」
健太。
まずこいつがいる時点で平和ではない。
「びしょびしょ」
ひな。
いるのか。
「ちょっと待って、タオル出すから!」
良子。
なるほど。
どうやらどこかの帰りに降られたらしい。
俺は椅子の上で止まった。
嫌な予感の輪郭が濃くなる。
この流れはよくない。
リビングが混む。
濡れた子どもが騒ぐ。
良子が対応する。
富子がタオルを出す。
そして、たいていそのあと“二階の方が静かじゃない?”みたいな話になる。
やめろ。
来るな。
しかし、人生はたいていこちらの祈りを聞かない。
ドアの外で、ひなの声がした。
「おじさん」
「駄目だ」
返す速度だけは早かった。
「まだ何も言ってない」
言わなくてもわかる。
「下、うるさい」
ほら来た。
「それはお前らがうるさいからだろ」
「でも、ちょっとだけ」
子どもの“ちょっとだけ”は信用してはいけない。
この教訓はもはや人生レベルで刻まれている。
ドアの外で健太も言う。
「おじさんの部屋の方がいい!」
「お前の“いい”は危ないんだよ」
「何で!」
「何でもだ」
そこへ良子の声が混ざる。
「お兄ちゃん、下、洗濯物とか広げててちょっと狭いの。
少しだけ上いさせて」
“少しだけ”の多重詠唱やめろ。
だが、良子の言うこと自体はわからなくもない。
濡れた子ども二人。
リビングにはタオルと着替え。
富子も動いている。
そこへ子どもがさらに騒いだら、たしかに少し面倒ではある。
面倒の押しつけ先が俺の部屋であることに納得はいかないが、理屈はある。
理屈があると、人は断りにくい。
俺は天井を見た。
「……十五分」
「やった!」
健太。
お前が一番早い。
「走るなよ」
「わかった!」
信用できない返事だった。
ドアを開ける。
ひなはすでにタオルで頭を拭いていて、健太は靴下だけ履き替えていた。
良子は予備のタオルを腕にかけている。
「ほんとにちょっとだけだから」
「お前の“ほんとに”もあまり信用してない」
「そこまで言う?」
「今までの積み重ねだろ」
それでも、良子の顔は少しだけ本当に悪いと思っている感じもあった。
そこまで追い返すほどでもない。
ひなは慣れた顔で部屋へ入る。
もうほとんど迷いがない。
健太は当然、秘密基地に入るみたいなテンションだ。
「うわー、やっぱここ落ち着く!」
「俺の部屋だぞ」
「だからでしょ」
その返しは意味がわからない。
ひなはベッドの端に座って、タオルで髪を拭きながら言う。
「下、さわがしいもん」
「それはそうだな」
部屋の中に三人。
以前なら、かなり落ち着かなかったはずだ。
今も落ち着かないことは落ち着かない。
だが、“人がいること自体”への拒否感は、前より少し薄い気がする。
それがまた、少し複雑だった。
健太は棚を見て回りそうな気配を出したので、即座に止めた。
「勝手に触るな」
「見てるだけ!」
「その言葉も信用してない」
「何なら信用するの」
「静かに座ってること」
「むずい」
そうだろうな。
良子は床へ座って、濡れた傘を廊下へ置いた。
「ほんと助かった。
あのまま下だとひなも健太くんもずっとわちゃわちゃしてたから」
「今もしてるだろ」
「でもちょっと落ち着いてる」
たしかに、下のリビングよりはマシだ。
部屋が狭い分、逆に動き回れない。
それが静けさに繋がっているのかもしれない。
不本意だが。
ひなが本棚の方を見て言う。
「おじさん、これまだよんでるの?」
「積んでるだけだ」
「よんでないの?」
「読む予定はある」
「その予定はいつ?」
「うるさいな」
積み本の概念を子どもへ説明してもたぶん伝わらない。
いや、大人にも伝わらない人は多いが。
健太は机の横の古いコントローラーを見ていた。
「これ前のやつ?」
「前のやつだ」
「またできる?」
「今日はやらない」
「何で!」
「濡れてるだろお前」
「あ、そっか」
たまにそういうところだけ素直だな。
外ではまだ雨が強く降っていた。
窓を打つ音。
少し暗い光。
部屋の中には、タオルの湿った匂いとエアコンの風。
その時、ドアが軽く叩かれた。
「太郎」
父だった。
俺は一瞬だけ身構える。
何だ。
何の用だ。
「何」
「タオル、足りるか」
ドア越しの声は短かった。
それだけだった。
良子が先に答える。
「大丈夫。ありがと」
父はそれで去るかと思ったが、少しだけ間があってから、ドアが少し開いた。
「……入るぞ」
いや、もう半分入ってるだろ。
父が部屋の中を見る。
視線がひな、健太、良子、そして俺の順に動く。
数秒。
その数秒だけで、妙に落ち着かなかった。
父が俺の部屋を見る機会自体はゼロではない。
だが、こうして“俺の部屋に他人が自然にいる状態”を見られるのはまた別だ。
「何だ、その顔」
思わず言うと、父は小さく首を振った。
「いや」
「いや、じゃないだろ」
「賑やかな部屋だなと思って」
その一言に、部屋の中の空気が一瞬だけ止まった。
健太は意味もなく嬉しそうだし、ひなは当然みたいな顔をしているし、良子は少しだけ笑いをこらえている。
俺だけが処理に困る。
「……元はそういう部屋じゃない」
「今はそう見える」
父はそれだけ言って、タオルをドアのところへ置いた。
「雨、まだ強いから、もう少しここにいればいい」
それもまた、何だか妙な感じだった。
父が、俺の部屋を子どもたちの一時避難所として普通に認識している。
数年前の俺が聞いたら、かなり嫌な顔をしただろう。
だが今の俺は、嫌というより、妙に落ち着かないだけだった。
父が下へ戻ると、良子がすぐ言う。
「お父さん、ちょっと面白がってたね」
「やめろ」
「だって“賑やかな部屋”だよ?」
「事実かもしれないけど言われると嫌なんだよ」
ひながきょとんとする。
「なんで?」
「……何となく」
「へんなの」
それはそうだ。
健太は窓の外を見ていた。
「でもここ、雨の日いいね」
「何だそれ」
「なんか秘密基地っぽい」
「お前はそればっかりだな」
ひなはもう少し静かだった。
「ひなは、ここ、なんかあんしんする」
その言い方の方が、たぶん少し強い。
秘密基地ではなく、安心する。
その評価は、思っているよりずっと部屋の意味を変えてしまう。
俺は視線を少し逸らした。
「……そうかよ」
それしか出ない。
たしかにこの部屋は、俺にとってはずっと安全地帯だった。
外から逃げて、閉じて、好きなものだけで呼吸を整える場所だった。
それが今、子どもにとっても“少し落ち着く場所”として機能している。
それはたぶん、悪いことではない。
でも、昔の俺からするとかなり想定外だった。
十五分のつもりが、雨が弱まるまで三十分くらいかかった。
結局、ひなは本を一冊めくり、健太はゲーム棚を遠くから眺め、良子はスマホを見ていた。
騒がしすぎるわけでもない。
妙に穏やかだった。
だからこそ、少しだけ複雑だ。
雨がようやく弱まってきた頃、良子が立ち上がった。
「じゃ、そろそろ下戻ろうか」
「えー」
健太が不満を言う。
「何でだよ」
「雨弱くなったし。
あと、おじさんの部屋は避難所じゃないから」
「今さらだな……」
俺が言うと、良子が笑う。
「いや、でも半分くらいそうなってるでしょ」
「認めるな」
ひなはベッドから降りて、当然みたいにタオルをまとめた。
「おじさん、ありがと」
「別に」
「また雨ふったら来るね」
「そういう予約はいらない」
健太も元気に言う。
「おじさんの部屋、やっぱ当たり!」
「その評価ほんとやめろ」
子どもたちが出ていく。
良子は最後に、少しだけ優しい顔で言った。
「でも、前ならもっと嫌がってたでしょ」
「……うるさい」
「うるさくないよ。
だいぶ変わったって」
その一言だけ置いて、良子も下りていった。
ドアが閉まる。
静かになる。
部屋に残ったのは、少し湿った空気と、ずれたクッションと、まだ温かい人の気配だった。
俺は椅子に座り、背もたれへ体を預けた。
「賑やかな部屋、ね……」
父の言葉を思い出す。
昔の俺なら、その評価をかなり嫌がっただろう。
結界にひびが入ったみたいで。
最後の安全地帯が曖昧になったみたいで。
だが今は、そこまでではない。
むしろ、“帰る場所”としての部屋の強さはそのままに、少しだけ他人を休ませる余地ができてしまった感じだ。
それがいいことなのかどうかは、まだよくわからない。
ただ、完全に嫌ではなかった。
「……避難所あつかいは勘弁してほしいけどな」
独り言をこぼしながら、俺は机の上のコントローラーを元の位置へ戻した。
結界は薄くなったのかもしれない。
でも、消えたわけじゃない。
たぶんそれで、今は十分だった。
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