「生活圏の中ボス、梅子さん」
善意は強い。
暴力より強いかもしれない。
少なくとも、断りづらさという一点においてはかなり強い。
怒鳴られたり脅されたりすれば、まだ反発のしようもある。
だが、にこにこしながら
「助かるわあ」
「ちょっとだけでいいの」
「無理ならもちろんいいんだけど」
と言われると、人はだいぶ弱い。
そして、その善意を最も安定して高火力でぶつけてくる存在こそ――田村梅子さんである。
俺の生活圏における中ボス。
いや、もう中ボスというより、定期的に出てくる善意イベントの発生源そのものだ。
その日も、発端は家の前だった。
最近このパターンが多い。
家の前というのは危険だ。
玄関の外に出た瞬間、近所という名のオープンワールドへ接続される。
そこには梅子さんがいて、健太がいて、回覧板があり、時々富子まで後方支援に回る。
安全圏ではない。
その日、俺はただゴミ出しを終えて戻る途中だった。
それだけだ。
所要時間三分。
人と接続する予定もなかった。
「あらあら、太郎ちゃん」
来た。
声の時点でわかる。
柔らかい。
明るい。
そして逃げづらい。
俺はゴミ袋を置いた帰り道で、門のあたりに立つ梅子さんを見つけてしまった。
花柄のエプロン。
手には小さな紙束。
これはだいたい良くない。
「おはようございます」
「おはよう。ちょうどよかったわあ」
またそれだ。
その“ちょうどよかった”はこちらにとってちょうどよくない、と何度言えば伝わるのか。
いや、伝える気もないのかもしれない。この人は。
「何ですか」
俺が一応聞くと、梅子さんは嬉しそうに紙束を少し持ち上げた。
「町内の掲示の張り替えがあるのよ。
ちょっとだけ手があると助かるなあと思って」
掲示。
張り替え。
軽そうに見える。
だが、軽そうな用事ほど危ない。
現場へ行くと“ついでにこれも”が増えるからだ。
「いや、俺は……」
断る準備に入った、その瞬間。
「太郎ー」
後ろから富子。
声だけで嫌な予感が完成する。
「何」
「梅子さん困ってるなら手伝ってあげなさいよ」
やめろ。
こちらが今まさに抵抗しようとしていたラインを、そうやって雑に折るな。
「でも掲示でしょ。
そんなすぐ終わるか?」
「すぐよすぐ。ねえ、梅子さん」
「ええ、ほんとにすぐよお」
信用できない大人が二人揃った。
俺は一瞬だけ天を仰いだ。
この状況で断るには、かなり明確な理由が要る。
だが残念ながら、俺には今すぐやるべき世界の危機もなければ、緊急の仕事もない。
つまり、行く。
文句は言う。
でも行く。
最近の俺はそのパターンが多い。
「……どこですか」
聞いた時点で、ほぼ負けだ。
「すぐそこ、集会所の前と、あと掲示板のとこだけ」
“あと”が入った。
やはり増える。
「そのあと回覧も少し確認したくて」
さらに増えた。
富子が横から言う。
「ついでに帰り、梅子さんちの段ボール一つ運んであげたら?」
「何で今追加するんだよ」
「どうせ近いでしょ」
この家の人間は本当に、人の移動をついでで圧縮しようとする。
梅子さんはまったく悪びれずに笑っていた。
「助かるわあ」
出た。
この一言が強い。
まだ何もしていないのに、未来の感謝で逃げ道を塞いでくる。
「……行けばいいんだろ」
「やさしいわねえ」
「違います」
違う。
やさしさではない。
断り損ねただけである。
だが、それを一々説明してもこの人たちには通じない。
---
集会所の前に着くと、掲示板の前にすでに脚立とテープと新しい掲示物が用意されていた。
ほら見ろ。
“ちょっと貼り替えるだけ”ではない。
脚立が出ている時点で、作業はそこそこ本格化している。
「これ、古いの剥がして新しいのに替えるだけだから」
梅子さんが言う。
「だけ、じゃないだろ」
「でも簡単よ」
「簡単と面倒は別です」
「あら、面白い言い方」
面白くはない。
わりと本音だ。
俺は掲示板の前に立ち、古い紙を外し始めた。
画鋲。
テープ。
少し色あせた町内会のお知らせ。
夏祭りの案内。
防災訓練。
敬老会。
こういう紙の層を見ると、生活圏というものは案外紙で回っているのだなと思う。
「それ、端からゆっくりねえ」
梅子さんが後ろから言う。
「わかってます」
「太郎ちゃん、こういうの器用よねえ」
「そう見えるだけです」
見えるだけではなく、たぶん実際ちょっと器用なのが腹立たしい。
こういう細かい作業ができてしまうから、余計に次も呼ばれる。
古い掲示物を剥がし、新しい紙を位置合わせする。
まっすぐ。
端を合わせる。
テープ。
押さえる。
こういう作業は嫌いじゃない。
嫌いじゃないのがまた問題だ。
やればできるし、やったら多少は気持ちいい。
だから完全に被害者ヅラもしづらい。
「おお、きれい」
梅子さんが素直に感心した。
「そうですか」
「やっぱり頼んでよかったわあ」
その言い方は、じわじわ効く。
近くを通った近所のおばさんが声をかけてきた。
「あら、太郎ちゃん働いてるじゃない」
やめろ。
その言い方はやめろ。
「いや、ちょっと手伝いで」
「助かるわよねえ、若い人がいると」
また若い判定だ。
もうこの近所では、四十手前でも“若い人”のカテゴリらしい。
高齢化の現実を感じるが、そのおかげでこっちへ作業が回ってきやすいのは複雑だ。
掲示板を一枚貼り終えたところで、梅子さんは満足そうに頷いた。
「じゃあ次、集会所の横のもお願いできる?」
来た。
次、である。
そして当然のように増える。
「最初に言ってください」
「すぐそこだから」
その理屈は聞き飽きた。
---
二か所目の掲示板を終えたあたりで、健太が現れた。
何でだよ。
いや、時間帯を考えれば別に不思議ではない。
学校もない。
近所だ。
だがタイミングがよすぎる。
「おじさーん!」
元気だな。
こっちはすでに少し疲れている。
「何だよ」
「何してんの?」
「見ればわかるだろ」
「紙はってる」
「そうだよ」
「何で?」
「頼まれたからだ」
この会話、本当に生産性がない。
さらにひなまで来た。
良子も一緒だ。
何なんだこの生活圏の収束力は。
「お兄ちゃん、また捕まってるじゃん」
「捕まってるんだよ」
「でもちょっと手慣れてるよね」
「うるさい」
ひなは掲示板を見上げる。
「おじさん、まっすぐ」
「そこ褒めるのか」
「だってまがってない」
たしかに、掲示はまっすぐであるべきだ。
そこに評価が入るのは、まあ、わからなくもない。
健太が梅子さんへ聞く。
「これ終わったらおじさん帰るの?」
やめろ。
変に期待を持たせるな。
俺だって帰りたい。
だが梅子さんは即答した。
「あと少しだけあるのよお」
ほらな。
絶対増えると思った。
「まだあるのかよ」
「段ボール一つと、回覧の確認だけ」
軽く言うな。
その“だけ”が積み重なるんだよ。
良子が笑う。
「お兄ちゃん、完全に梅子さんルート入ってるじゃん」
「何だその言い方」
「断れないサブクエ」
だいぶ正しいのが腹立たしい。
その後、俺は掲示を終え、集会所から余った紙束を倉庫へ運び、ついでに梅子さんちの前まで小さな段ボールを一つ運ぶことになった。
段ボール一つ。
それ自体は大したことない。
問題は、その一つ一つが全部“まあこのくらいなら”で引き受けられることだ。
つまり気づけば、午前が終わっている。
「いやあ、ほんと助かるわあ」
段ボールを置いた時点で、梅子さんがしみじみ言った。
「太郎ちゃん、もう十分戦力よ」
俺はその場で顔をしかめた。
「その評価、全然うれしくないんですけど」
「あら、何で」
「今後も呼ばれる感じがするからですよ」
「そりゃ呼ぶわよお」
即答だった。
やっぱりそうか。
健太が横で笑う。
「おじさん、戦力!」
「お前は楽しそうだな」
「だってそうじゃん」
ひなも静かに頷く。
「うん。おじさん、こういうのちゃんとやる」
「お前まで」
だが、ひなにとってはもうそれが普通なのだろう。
呼ばれたら行く。
文句を言う。
でもやる。
そういう大人として見られている気がする。
良子が少しだけ真面目な声で言った。
「でも実際、前のお兄ちゃんなら、こういうのもっと露骨に逃げてたと思うよ」
俺は返事に詰まった。
そうかもしれない。
たしかに昔なら、玄関から出ない理由を全力で探したかもしれない。
それが今は、“行きたくないけどまあ行くか”くらいにはなっている。
成長と言われるとむず痒い。
だが、変化ではあるのだろう。
「……だから困るんだよ」
俺は小さく呟いた。
「変にできると、次も来るから」
それはかなり本音だった。
梅子さんは笑う。
「いいじゃない。近いんだし」
その“近いんだし”に、生活圏すべてが詰まっている気がした。
近い。
顔が見える。
頼める。
やってくれる。
だから次も声がかかる。
面倒だ。
とても面倒だ。
それでも、完全に嫌なだけではないのが一番困る。
---
家へ戻る途中、ひなが俺の横を歩いた。
「おじさん」
「何」
「今日もちゃんとしてた」
「その評価ほんと便利だな」
「だめ?」
「だめじゃないけど」
「じゃあいい」
子どものロジックは強い。
門の前まで来ると、富子がちょうど庭に出ていた。
「あら、早かったじゃない」
「早くない」
「梅子さん、助かったって言ってたわよ」
「だろうな」
「よかったじゃない」
よくない。
いや、よくないわけでもない。
そこが腹立たしい。
良子が後ろからぼそっと言う。
「中ボス攻略成功って感じだね」
「攻略してない。
たぶん次も普通に出る」
「それが中ボスなんでしょ」
言い返せない。
俺は玄関を開けながら、小さく息を吐いた。
生活圏の中ボス、田村梅子。
善意。
圧。
断りづらさ。
そして、なぜか終わった後の微妙な達成感。
ああいう相手が一番厄介だ。
たぶん今後も、何度でも出てくる。
それでも、少なくとも今日はクリアした。
そういうことにしておくしかなかった。
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