「父の知り合いとは聞いてない」
人間関係には、まだ見ぬ敵がいる。
いや、敵と言うと語弊がある。
別に相手が悪意を持っているわけではない。
むしろたいてい、善良で、普通で、何なら感じもいい。
だから困るのだ。
感じのいい他人ほど、こちらは雑に拒否できない。
感じのいい会話ほど、途中で逃げるのも難しい。
そして感じのいい“父の知り合い”ほど、俺みたいな人間にとっては高難度の新ジャンルになる。
その日、俺はまさにそのジャンルの前で静かに削られていた。
父と二人で外に出ていたのである。
理由は、またしても富子だった。
「お父さん、駅前の銀行寄るって言ってたでしょ。
ついでに太郎も一緒に行って、帰りにお米屋さん寄ってきて」
この家の“ついで”は、本当に隙がない。
銀行。
駅前。
米屋。
単語だけ見れば平和だ。
だが、父と二人で駅前へ出る時点で、俺の中ではすでに小イベントが始まっている。
しかも駅前というのはよくない。
人が多い。
店が多い。
つまり、知り合い遭遇率も上がる。
その危険性を事前にもっと想定しておくべきだった。
だが人は、自分にとって嫌な可能性ほど少し甘く見積もる。
心がそうしないと持たないからだ。
車を降り、銀行の前に着いた時点では、まだそこまで悪くなかった。
父は用件がある。
俺は外で待つ。
その間、駅前の通りをぼんやり見ているだけで済む。
「すぐ戻る」
父が言う。
その“大人のすぐ”は信用できないが、今回はまあいい。
銀行ならそれなりに妥当だ。
「はいはい」
俺はそう返して、近くの植え込みのそばへ立った。
昼下がり。
駅前の人通りはそこそこある。
学生。
買い物帰りの年配客。
仕事の合間っぽいスーツ姿。
俺は壁にもたれず、ただぼんやり立っていた。
座る場所もなかったし、スマホを見るのも妙に落ち着かない。
こういう“待つだけ”の時間は、思ったより難しい。
何をしていても手持ち無沙汰な感じがある。
だが、ここまではまだ普通だった。
父が銀行から出てきた時、横にもう一人いた。
その時点で、嫌な予感はした。
「太郎」
父が手でこちらを呼ぶ。
やめろ。
その呼び方で察してしまうだろ。
父の横には、五十代くらいの男がいた。
背広ではない。
ポロシャツにスラックス。
日焼けした顔。
父より少しくだけた空気だが、感じのよさそうな人ではある。
感じがいいのが一番まずい。
俺は数歩近づいた。
逃げられない距離だ。
「こいつ、うちの息子」
来た。
来てしまった。
“息子ポジション”の強制発動である。
父が知り合いに俺を紹介する。
この構図が、なぜこんなに落ち着かないのか。
別に嘘でも何でもない。
ただの事実だ。
それなのに、急に“誰かの息子”として外の場へ置かれると、どうにも居心地が悪い。
「どうも」
俺は小さく頭を下げた。
出た。
また“どうも”だ。
この万能ワードに頼りすぎているのは自覚しているが、じゃあ他に何があると言われると難しい。
「いやあ、どうもどうも。
佐藤さんの息子さんか」
男はにこやかに言った。
その“佐藤さん”は父のことだ。
つまり外では、父はちゃんと“佐藤さん”として通っている。
当たり前のことなのに、こうして目の前で見ると少し新鮮だった。
「似てるなあ」
男が笑う。
何がだ。
顔か。
空気か。
気まずさか。
俺が曖昧に笑うと、父が小さく言った。
「銀行でたまたま会ってな」
「そうか」
それしか返せない。
男は悪気なく続けた。
「今はこっちにいるの?」
来た。
危険球。
重くはない。
世間話としてはかなり普通だ。
普通だからこそ避けづらい。
俺の脳内で、答えの候補が一瞬にして並ぶ。
まあ。
しばらく。
実家で。
今は。
近くに。
どれも嘘ではない。
だが、どれも少しずつ説明不足で、少しずつ余計な想像を生む。
「……まあ、こっちです」
結局それだった。
曖昧。
だが致命傷は避けている。
たぶん。
「そうなんだ。
いや、佐藤さんがたまに息子が家のこと見てくれて助かるって言うから」
俺はそこで、一瞬だけ父を見た。
何だそれ。
言ってたのか。
父は少しだけ咳払いして、目を逸らした。
「そんな大した話じゃない」
「いやいや、大したもんだよ。
家のことちゃんとできるのは助かるから」
やめてくれ。
知らない人の前で評価を積むな。
こっちは反応に困る。
「別に……」
またそれしか出ない。
男は感じよく笑っていた。
嫌な人ではない。
だから本当に困る。
「駅前の方、たまに来る?」
と、男がさらに聞いてくる。
会話が続いてしまう。
短く終わってくれ。
「たまに」
「そうなんだ。
じゃあまた会うかもしれないね」
「……まあ」
この“また会うかも”が重い。
父の知り合い。
外の大人。
駅前。
次回遭遇フラグをそんなに自然に立てるな。
父がここでようやく会話を引き取った。
「このあと米屋寄るから、そろそろ行く」
助かった。
男はすぐ頷いた。
「ああ、そうか。引き留めて悪かったね」
「いえ」
いや別に引き留められてはいない。
普通に会話していただけだ。
その“普通に会話していただけ”でこちらの精神が少し削れているだけで。
男が去っていく。
俺はしばらくその背中を見ていた。
父が歩き出しながら言う。
「行くか」
「ああ」
それだけ返して、横に並ぶ。
数歩のあいだ、沈黙があった。
別に気まずいわけではない。
ただ、さっきの会話の余韻がまだ残っている。
父が、前を見たまま言った。
「急で悪かった」
俺は少しだけ目を瞬かせた。
「何が」
「紹介したの」
その言い方が、ちょっと意外だった。
父はあまり、こういう細かいところで事後フォローを入れるタイプには見えなかったからだ。
「……別に」
またその返しだ。
だが今のは、本当にそこまで怒っているわけではなかった。
「お前、ああいうの苦手だろ」
父が言う。
そこを自覚しているのか。
いや、見ればわかるか。
俺はこういう時、たぶんかなりわかりやすい。
「苦手ではある」
「だろうな」
否定されない。
そこも少しだけ助かる。
米屋まで歩く。
店先には、白い袋の米がいくつか並んでいた。
紙の札。
産地の名前。
量り売りの案内。
こういう“目的のある場所”へ着くと、少し気が楽になる。
見るものがある。
やることがある。
会話が品物へ逃がせる。
「どれ買うって言ってた」
「いつもの」
「わかるのか」
「袋見れば」
父はそう言って、迷わず一つの銘柄を指した。
そこでようやく、さっきまでのざわつきが少し薄れた。
店の人と父が話す。
米を出してもらう。
袋を受け取る。
「持つ」
俺が言うと、父はすぐ渡した。
「重いぞ」
「米だからな」
それはそうだ。
持ち上げる。
思ったよりくる。
五キロ以上ある気がする。
だが、こういう“物理的な重さ”は案外ありがたい。
対人の気まずさを、手の疲れへ変換してくれるからだ。
店を出てから、父が小さく言った。
「さっきのは、あれで十分だ」
俺は少しだけ父を見た。
「何が」
「あの人への返し。
変に愛想よくする方がお前にはきついだろ」
図星だった。
そして、そこまで読んでいたのかという驚きもあった。
「……そうかもな」
「だからあれでいい」
父の言葉は短い。
短いが、今のはかなり助かった。
もっとちゃんとしろとか、普通に話せとか、そういう方向ではない。
“あれで十分”と言ってくれる。
そのくらいが、今の俺にはちょうどいい。
しばらく歩いて、俺はぽつりと聞いた。
「さっきの人、誰なんだ」
「前の職場の知り合いだ」
「へえ」
「たまにこっち戻ると会う」
父の“外の顔”が少しだけ見えた気がした。
仕事先で関わった人間。
こっちに戻ってきても、名前で呼び合う相手。
そういう人間関係が、父にもちゃんとある。
当たり前のことなのに、少しだけ不思議だ。
「お前もああいうの増えると面倒だろうな」
父が言った。
「増えなくていい」
「そうか」
「そうだよ」
そこで父が少しだけ笑った。
小さく。
本当に少しだけ。
その笑いに、俺も少しだけ肩の力が抜けた。
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家へ戻ると、富子が玄関で待っていた。
「買えた?」
「買えた」
「お米も?」
「ある」
袋を見せると、富子は満足そうに頷く。
「ありがと。
あら、銀行混んでた?」
父が靴を脱ぎながら答える。
「いや、そこで久しぶりに会った人がいてな」
やめろ。
今その話題を家の中へ持ち込むな。
案の定、良子が反応した。
「え、何それ」
「お兄ちゃん、紹介された?」
なぜ察しがいい。
「された」
「うわ、それキツそう」
「キツかった」
そこは即答だった。
良子が笑う。
「でもちゃんとやったんでしょ?」
「最小限でな」
父がそこで、何でもない調子で言った。
「それで十分だった」
またその一言だった。
だが、さっき言われたばかりのそれを、家の中でもう一度聞くと、妙に落ち着く。
良子はそれを聞いて少し意外そうな顔をしたが、すぐに笑った。
「へえ。
お父さんにそう言われると、お兄ちゃんちょっと救われるでしょ」
「別に」
「出た」
うるさい。
だが、完全には否定しない。
俺は米袋を置きながら、小さく息を吐いた。
父の知り合いという新ジャンルは、たしかに聞いていなかった。
かなり疲れた。
できれば今後も頻発してほしくない。
それでも、最後に“あれで十分”と言われたことで、だいぶ救われたのも事実だった。
人付き合いの正解は一つじゃない。
少なくとも今の俺には、最低限でも通る場面がある。
その程度の発見でも、今日は十分だった。
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