「にぼし姫、もう隠す気ないだろ」
疑惑には、段階がある。
最初は違和感だ。
あれ、今のちょっと変じゃないか。
気のせいかもしれない。
たまたまかもしれない。
そうやって流せるうちは、まだ平和である。
次に来るのが反復だ。
似たことがまた起きる。
偶然にしては多い。
でも確信するには弱い。
このあたりから、人は少しずつ落ち着かなくなる。
そして最悪なのが、その次だ。
**もう怪しいのに、確認する勇気だけがない状態。**
今の俺が、まさにそれだった。
にぼし姫。
ネットで知り合った、短文で刺してくる、妙に話の温度が合う相手。
風間凛。
近所のコンビニ店員。短くて、淡々としていて、たまに妙にわかっている。
別人かもしれない。
たぶん別人だ。
いや、かなり怪しい。
でも、もし同一人物だったら気まずい。
そしてこの“もしそうだったら”が、今の俺にとってはかなり重い。
だから確認できない。
できないくせに、毎回勝手に材料は増えていく。
非常に良くない流れだった。
その夜も、俺は自室でノートPCの前に座っていた。
部屋は静かだ。
エアコンの送風音。
窓の外の虫の声。
机の上のエナジードリンク。
かなり落ち着く環境のはずなのに、チャット画面を開いた瞬間だけ、その静けさに無駄な緊張が混じる。
白狼77。
にぼし姫。
いる。
この時点で、少し嫌な予感がした。
白狼77が先に投げてきた。
『太郎、最近コンビニ行きすぎじゃね?』
いきなり嫌だな。
『行ってない』
と返す。
『行ってるやつの否定早すぎ』
と白狼77。
『気のせいです』
とにぼし姫。
その一言に、俺は少しだけ画面を見つめた。
気のせいです。
その返しも、にぼし姫は本当にこういう感じだ。
短い。
投げ方が雑に見えて、地味に刺さる。
『お前が言うと余計怪しい』
と白狼77。
『そうですか』
とにぼし姫。
ほらそういうところだよ。
その“そうですか”の温度。
諦めてるようで、別に引いてはいない感じ。
凛の店内の返しにかなり近い。
白狼77が面白がって続ける。
『太郎さ』
『にぼし姫が誰か、だいぶ絞れてそうだよな』
やめろ。
そういう話題に急に踏み込むな。
外野はいつだって無責任だ。
『別に』
と返す。
『出た、別に』
『それもうだいぶ怪しい時のやつだろ』
『知らん』
にぼし姫がそこへ短く入れてきた。
『確認したいなら、すればいいのに』
俺はその一文を見たまま、少し止まった。
何だそれ。
それは、ただの一般論か。
白狼77が煽っている流れに乗っただけか。
それとも、もっと別の意味か。
『したくない』
と俺は返した。
即答だった。
我ながらびっくりするくらい、即答だった。
『なんで』
と白狼77。
そこへ、にぼし姫が先に返す。
『面倒だからでしょう』
図星すぎる。
たしかにそうだ。
怖いとか、緊張するとか、いろいろ言い方はある。
だが要するに“面倒”なのだ。
確認して違ったら痛い。
当たっていても今後が気まずい。
つまりどちらに転んでも面倒。
『それもある』
と返すと、白狼77が笑う。
『あるんかい』
『でも絶対もっとあるだろ』
ある。
かなりある。
だが、それを文字にするのはさらに面倒だ。
『店の外でまで気まずくなるの嫌なんだよ』
と、結局打ってしまった。
送った瞬間、少しだけ後悔した。
今のは、かなり具体的だ。
“店の外”という表現は、さすがに材料を出しすぎている。
白狼77が速い。
『店!?』
『はい出た!!』
最悪だ。
『違う』
と打つ。
『何が違うんだよ』
『今、自分で店って言ったじゃん』
『一般論だ』
『苦しすぎるわ』
にぼし姫は少し間を置いてから、こう返した。
『店の外で会うと、少し困りますよね』
やめろ。
もうそこまで来ると、隠す気があるのかないのかわからない。
しかも、その言い方がまた微妙にずるい。
“私もそう思う”にも見えるし、
“そういうこともありますよね”にも見える。
断定していないぶんだけ逃げ道がある。
だが、読んだこっちの心にはかなり残る。
『お前もうさ』
と打ちかけて、また止める。
ここで言うべきか。
“凛か?”
あるいはもっと遠回しに、“コンビニの人か?”
いや、どちらもだいぶ終わっている。
白狼77は完全に楽しそうだった。
『太郎、もう聞けよ』
『そこまで行ったらイベント進めろって』
『嫌だ』
と返す。
『なんで』
『怖いから』
送ってから、少しだけ天井を見た。
言ってしまった。
我ながら情けないが、本音だった。
怖いのだ。
別に命に関わる話ではない。
ただ、ネットの向こうと生活圏の中が繋がる、その気まずさが怖い。
にぼし姫から返事が来る。
『そんなに怖いものですか』
その問い方に、妙に腹が立った。
お前が言うな、という感じに近い。
『そりゃそうだろ』
と返す。
『レジで会って』
『外で会って』
『ネットでも話して』
『全部同じ相手だったら気まずいだろ』
そこまで打ってから、俺は完全に手を止めた。
これ、ほぼ告白では?
白狼77が即座に食いつく。
『ほぼ答え言ってて草』
やめろ。
にぼし姫の既読がつく。
数秒。
やけに長く感じる。
それから返ってきたのは、短い一文だった。
『私は、そこまで嫌じゃないかもしれません』
その瞬間、俺は本気でスマホを取り落としかけた。
「…何なんだよ」
思わず声が漏れる。
何なんだ今の。
誰目線だ。
一般論か。
個人の感想か。
何かを認めたのか。
認めていないのか。
しかも“嫌じゃない”というのがまた、妙に生々しい。
好きだとか、楽しいとか、そういう派手な言葉ではない。
ただ、“そこまで嫌じゃない”。
その温度が、むしろ本物っぽくて困る。
白狼77がまた騒ぐ。
『おいおいおい』
『にぼし姫、今かなり怪しいこと言ったぞ』
『気のせいです』
とにぼし姫。
もうその逃げ方も含めて怪しいんだよ。
『お前もう隠す気ないだろ』
と、俺はとうとう送ってしまった。
送ったあと、心臓が少しうるさくなる。
言った。
だいぶ言った。
返事は、少し遅れて来た。
『あると思ってました?』
それを見た瞬間、俺はベッドへ倒れ込んだ。
「終わってるだろもう…」
何だその返し。
認めていない。
だが、完全にも逃げていない。
つまり、一番困るラインで止めてくる。
白狼77は面白がりすぎていた。
『ダメだこれ』
『完全に遊ばれてるじゃん太郎』
『うるさい』
『でもにぼし姫、今のはかなり答え寄りだろ』
『そう思うならそうなんじゃないですか』
とにぼし姫。
その言い方も、凛そのものに見えてくるから良くない。
俺は少しだけ深呼吸して、最後にこう打った。
『今日はもう寝る』
『逃げた』
と白狼77。
『撤退です』
とにぼし姫。
その“撤退”という単語に、俺はまた少しだけ顔をしかめた。
前に俺がそういう言い回しをしたことがあった。
覚えているのか。
それともただの偶然か。
もう何でも怪しい。
そこまで来ている。
---
スマホを伏せる。
部屋は静かだ。
だが、頭の中だけがやたらうるさい。
にぼし姫。
凛。
店の外。
ネット。
“そこまで嫌じゃない”。
「…いや、嫌じゃないって何だよ」
誰に向けるでもなく呟く。
考えれば考えるほど、状況は濃くなっている。
なのに、決定打だけはまだ出ない。
そして俺も、自分から取りに行く勇気はまだない。
人はたまに、答えがほしいのではなく、答えが出る直前の状態へしがみつく。
そこならまだ、気まずさも曖昧なまま保てるからだ。
たぶん今の俺は、そこにいる。
それが情けないのはわかっている。
だが、わかっていても急には進めない。
「…お前もう隠す気ないだろ、ほんとに」
もう一度、小さく呟く。
返事はない。
当然だ。
スマホは伏せたままだし、部屋には俺しかいない。
それでも、あの短いやり取りの温度だけは、まだ指先に残っている気がした。
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