「ひなの友だちはおじさんに慣れている」
人は、知らないものを警戒する。
これは当たり前だ。
知らない大人。
知らない場所。
知らないルール。
そういうものに対して、一歩引くのは健全である。
だから最初、ひなの友だちが俺を見て「だれ?」と聞いた時も、べつに普通だった。
むしろ正常だった。
問題は、その“だれ?”がなくなった後である。
知らないものではなくなる。
警戒対象ではなくなる。
その結果どうなるかというと、今度は普通に話しかけられるのだ。
それがまた別方向に困る。
その日の午後、俺は家の前の道路でしゃがんでいた。
理由は、健太の自転車のチェーンが外れたからである。
近所の小学生という生き物は、本当にどうしてこう、乗り物と距離感の両方に雑なのか。
「おじさん、まだ?」
健太が横で聞く。
「待て」
「長い」
「長くしてんのはお前だろ」
チェーンを戻す作業自体はそこまで難しくない。
だが、自転車の横で小学生に急かされながらやると、地味に神経が削られる。
手が少し油で汚れる。
チェーンをかける。
ペダルを逆回転。
よし、入った。
「ほら」
「おお!」
健太のこういう時の“おお”は本当に雑だ。
だが、ちゃんと感心はしているらしい。
そこへひなが来た。
そしてその横に、見覚えのある女の子。
美咲だ。
一度会っている。ひなの友だちの一人である。
「あ、なおった?」
美咲が聞く。
「今な」
俺が立ち上がると、美咲は前みたいに一拍置いてから話しかけることはなかった。
もう、俺が“ひなのところのあのおじさん”であることを前提に見ている顔だ。
「すごいね」
「別に」
「また別にって言ってる」
ひながすぐ言う。
最近このやり取りも定番化してきた気がする。
美咲は少し笑っていた。
以前なら、ここで“誰?”とか“何してる人?”みたいな導入があった。
今はない。
それだけで、だいぶ状況が進んでいる。
「この前もなんか直してたよね?」
美咲が言う。
「この前?」
「ひなが言ってた。
家のこと強いって」
やめろ。
その変な称号、もう定着してるのか。
「“家のこと強い”って何なんだよ」
思わず言うと、ひなが当然みたいに返す。
「だってそうだよ」
「どういう意味でだ」
「なんか、いろいろわかる」
雑である。
だが、ひなの中では一貫しているのだろう。
美咲も頷く。
「ゲームもくわしいんでしょ?」
何でそこまで共有されているんだ。
健太が余計なことを言う。
「部屋もなんかすごいよ」
「お前、ほんとすぐそれ言うな」
「だってすごいもん」
美咲は興味ありそうな顔をした。
やめろ。
そこを掘るな。
「どうすごいの?」
「秘密基地みたい」
「違う!」
ほら来た。
この雑な評価の伝播。
良くない。
非常に良くない。
ひなは少しだけ考えてから、補足する。
「でも、ちゃんとしてる」
「その評価は初めてだな…」
だが前向きではある。
処理に困るが。
その時、美咲が足元を見て小さく声を上げた。
「あ」
「何」
見ると、美咲のバッグについていた小さなキーホルダーが外れていた。
ストラップ部分が緩んで、今にも落ちそうだ。
「これ、取れそう」
美咲が言う。
ひなが即座にこっちを見る。
健太も見る。
その視線はやめろ。
何でも俺に持ってくるな。
「…貸せ」
俺が手を出すと、美咲は素直にバッグを差し出した。
ここも違いだ。
前ならもう少し躊躇があったかもしれない。
今は普通に渡してくる。
金具を見て、少し押し込み、位置を戻す。
それで十分だった。
「はい」
「え、もういいの?」
「これくらいなら」
「すご」
美咲のその“すご”は、前の警戒込みではなく、かなりそのままの感心だった。
ひなが少し得意そうに言う。
「おじさん、こういうのすぐやるよ」
「すぐやる、じゃない。できる時だけだ」
「でもやる」
「まあ…」
完全否定しきれないのが最近増えてきた。
美咲はバッグのキーホルダーを見ながら言った。
「ほんとに、なんかいろいろできるんだね」
「いや、別に大したことじゃ」
「でも、すぐできた」
子どもの評価はシンプルだ。
大した技術かどうかではなく、“今困ってたことがすぐ直った”の一点で決まる。
それはたぶん、間違っていない。
間違っていないからこそ、こっちも変に否定しにくい。
道路の向こうで、別の子どもたちがボールを追いかけていた。
蝉の声は前より少し減った。
風はまだ暑いが、少しだけ季節が動いている気がする。
美咲が、ふと聞いた。
「おじさん、今日ひま?」
危険な質問だな。
「何で」
「公園でなわとびするから、数えてくれる人いるかなって」
何で俺が。
心の中ではそう思う。
思うが、言い切る前にひなが当然みたいに言った。
「おじさん、かぞえるのうまそう」
「その評価の根拠がわからん」
「でもちゃんとしてくれそう」
子どもたちの中で、俺はどういう人物像になっているのか。
探し物。
家のこと。
ゲーム。
修理。
そして今、縄跳びのカウントまで足されようとしている。
職業としてまとめづらい。
「いや、今日は…」
断ろうとした。
したのだが、そのタイミングで良子が玄関から顔を出した。
「お兄ちゃん、別にいいじゃん。
すぐ近くだし」
出た。
後方支援。
「お前はほんと、すぐそう言うな」
「だってほんとに近いし」
「近いかどうかの問題じゃない」
「でもひまなんでしょ?」
その言い方はひどい。
ひまかどうかで言えば、まあ、今すぐ絶対にやるべきことがあるわけではない。
だが、ひまと“子どもの縄跳びを数える”の間には、かなり大きな隔たりがあるはずだ。
しかし、子どもにとってその隔たりは存在しない。
頼める大人がいて、今いて、やってくれそうなら、それで十分なのだ。
美咲が少し遠慮がちに言う。
「むりならいいけど」
その“むりならいいけど”は、健太の“ちょっとだけ”よりずっと強い。
遠慮されると、逆に断りにくい。
俺は空を見た。
「…ちょっとだけな」
結局それだった。
「やった!」
健太。
お前が一番喜ぶな。
「おじさん、こっち!」
「引っ張るな」
こうして俺は、近所の公園で小学生女子の縄跳び回数を数える係になった。
人生は本当に、何がどう繋がるかわからない。
---
公園では、美咲とひなと、ついでにもう一人友だちが来て、縄跳びが始まった。
「いくよ!」
「待て、まだ始めるな」
「え、なんで」
「数える準備があるだろ」
「数える準備ってなに」
たしかに、縄跳びを数えるだけに大げさな準備はない。
ないが、気持ちの問題だ。
最初は十回。
次は二十回。
途中で引っかかる。
もう一回。
健太は横からやいやい口を出し、ひなは真剣、美咲は途中から少し悔しくなり、俺はそれを見ながらひたすら回数を数える。
「十八、十九、二十――今のは飛べてない」
「えー!」
「足引っかかっただろ」
「今のはセーフ!」
「アウトだ」
「おじさん、きびしい」
「正確さが大事だ」
「何でそんな真面目なの」
良子が後ろで笑っている。
お前ほんと楽しそうだな。
だが、こういう“回数を数える”みたいな役割は、ある意味楽でもある。
ルールがある。
数えればいい。
曖昧な会話よりよほどやりやすい。
「おじさん、いま何回?」
「二十七」
「よし」
「何がよしなんだ」
「なんかよし」
子どもの世界はこのへんが雑でいい。
途中でひなが水を飲みながら美咲に言った。
「でしょ」
「うん」
「おじさん、ちゃんとしてる」
その評価、また来たな。
「ちゃんとしてるって何だよ」
俺が言うと、美咲が少し笑って言った。
「なんか、ちゃんとしてる。
ちゃんと数えるし、ちゃんと直すし、ちゃんといる」
最後の一言に、俺は少しだけ言葉を失った。
ちゃんといる。
それは、ひなが前から使っていた評価に近かった。
今度はそれが、友だちの方へまで伝わっている。
よくわからない褒め言葉だ。
だが、たぶん子どもにとってはかなり大きい意味なのだろう。
適当に流さない。
途中でどこかへ行かない。
頼んだことをちゃんとやる。
そのくらいの意味で。
「…お前らの評価軸、独特だな」
俺がそう言うと、ひなが首をかしげる。
「そう?」
「そうだよ」
「でも、うちのおじさんだから」
その言い方が、あまりにも自然だった。
うちのおじさん。
前なら少し説明が混じっていたそれが、今は本当にただの事実として出る。
美咲も、それをもう何の違和感もなく受け入れている。
「うん、わかる」
その“わかる”に、妙な破壊力があった。
俺は少しだけ目を逸らし、子どもたちの縄跳びをもう一度数え始めた。
「一、二、三――」
数える声が、少しだけ自分でも落ち着いていた。
---
夕方、家へ戻る途中で、ひなが隣を歩いていた。
健太は少し先を走っている。
良子は後ろでスマホを見ている。
「おじさん」
「何」
「美咲、もうおじさん平気だね」
平気、か。
「前も別に何もしてないだろ」
「でも前は、ちょっとだけよそよそしかった」
「よそよそしい、だろ」
「それ」
細かいな。
「でも今はふつう」
ひなはそう言い切った。
普通。
その言葉は、今までも何度も出てきた。
俺にとっては難しい言葉だ。
だが、ひなが言う“普通”はたぶん、もっと単純だ。
警戒しない。
話しかける。
頼める。
そういう意味の普通。
「…そうかもな」
それが精いっぱいだった。
家の前に着くと、美咲が少し離れたところから手を振った。
「おじさん、またねー」
俺は一瞬だけ止まり、それから小さく手を上げた。
「…おう」
その返しも、前より少し自然だった気がする。
ひなはそれを見て、満足そうに頷いた。
「ね」
「何がだよ」
「もうふつう」
そう言われると、少しだけくすぐったい。
だが、悪い気はしなかった。
子どもの世界の中で、俺はたぶん少しずつ“知らない変な大人”ではなくなっている。
その事実は、面倒でもあり、ありがたくもあった。
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