「町内祭りは参加する側になると地獄」
祭りというものには、表と裏がある。
表はいい。
屋台。
提灯。
焼きそば。
かき氷。
子どもの笑い声。
夕方の少し浮ついた空気。
だが、裏は違う。
裏には、机がある。
段ボールがある。
養生テープがある。
微妙に足りない延長コードがある。
そして、誰かが運ばなければならない荷物と、誰かが貼らなければならない掲示物と、誰かが気づけばやっている細かい作業が山ほどある。
つまり、参加する側になると一気に地獄度が上がる。
その日の朝、俺はその地獄の入口に立っていた。
原因は、もちろん田村梅子である。
「あら、太郎ちゃん」
その呼びかけの時点で、嫌な予感はしていた。
俺は家の前に出ていた。
理由は単純で、富子にゴミ袋を出してこいと言われたからだ。
家の前でゴミ袋を置くだけの簡単なミッション。
本来なら、三分で終わる。
なのに、人生というものは、こういう時に限って余計なイベントを差し込んでくる。
門のあたりで、梅子さんがにこにこしながら立っていた。
その笑顔には悪意がない。
ないのだが、悪意がないからこそ断りづらい。
これが善意の怖いところである。
「おはようございます」
「おはよう。ちょうどよかったわあ」
出た。
“ちょうどよかった”。
その言葉が出た時点で、こちらがちょうどよくないことはだいたい確定している。
「何ですか」
「今日、町内のお祭りの準備があるのよねえ」
「へえ」
へえ、で終われ。
そう願ったが、当然終わらない。
「ちょっとだけ、人手があると助かるの」
ちょっとだけ。
大人の“ちょっとだけ”は信用してはいけない。
これはすでに学んだはずだ。
「いや、俺は…」
言いかけたところで、後ろから富子の声が飛んできた。
「太郎、時間あるでしょ」
最悪だ。
振り向くと、玄関先に富子。
しかも完全に“何を今さら”みたいな顔をしている。
「いや、でも…」
「午前中だけでいいんだって。行ってきなさいよ」
行ってきなさいよ、ではない。
今まさに断ろうとしていたところへ後方支援を入れるな。
梅子さんがやわらかく追撃する。
「ひなちゃんたちもあとで来るかもしれないし」
さらに悪い。
子どもカードを切るな。
それを出されると、ひなが楽しそうにしている光景が先に浮かんでしまって、断りにくさが増す。
「…何するんですか」
これはもう、半分落ちた質問だった。
「テント出したり、机並べたり、提灯の箱運んだり。そんな感じよお」
そんな感じ、で済まない量だな。
だが、その説明の中に“世間話をして盛り上げる”とか“司会をする”とかいう、より高難度の任務が入っていないだけまだマシだった。
運ぶ。
並べる。
貼る。
そのへんならまだ戦える。
俺は小さくため息をついた。
「…午前中だけなら」
「助かるわあ!」
梅子さんが即座に言った。
決定である。
この人の会話運びは、本当に断る隙がない。
富子はすでに家の中へ戻りかけていた。
「帽子かぶって行きなさいよー」
「人を雑に送り出すなよ…」
聞こえているのかいないのか、返事はなかった。
---
会場は近くの公園だった。
以前、町内清掃で行った場所でもある。
あの時は朝から草抜きとごみ拾いで、かなり精神を削られた記憶がある。
今回は祭り準備。
規模が大きい分、さらに面倒な気配しかしない。
公園へ着くと、すでに何人かの大人が動いていた。
折りたたみ机。
パイプ椅子。
段ボール。
紐。
提灯。
ブルーシート。
これぞ裏方、という景色である。
「あ、太郎ちゃん来た来た」
梅子さんが俺を見つけて手を振る。
この時点で、もう“来た人”として処理されている。
逃げ道はない。
「おはようございます」
「おはよう。じゃあまずこれお願いできる?」
早い。
雑談を挟まないのはありがたいが、着いた瞬間に任務が発生するのもそれはそれで忙しい。
指さされたのは、提灯の入った段ボールだった。
数としては多いが、重さはそこまででもない。
「これを倉庫から出して、あっちにまとめてもらっていい?」
「…はい」
「あと、そのあと机も少しお願いしたいの」
ほら増えた。
大人の“まずこれ”は信用できない。
結局あとが続く。
だがまあ、やることが明確ならまだ楽だ。
俺は段ボールを運んだ。
倉庫の中はやや薄暗く、埃っぽい。
祭り道具というのは、一年の大半を眠っているくせに、いざ使うとなると妙に存在感がある。
出す。
積む。
運ぶ。
これ自体は嫌いじゃない。
少なくとも、人と話すよりはずっとマシだ。
だが、問題はそこへ話しかけが混ざることだ。
「佐藤さんちの息子さんだよね?」
荷物を持っている時に限って来るな。
振り向くと、町内のどこかで見たような、でも名前は知らない男性が立っていた。
年齢は父より少し下くらいか。
たぶん清掃の日にも見た。
「…はい」
「助かるねえ。若い人がいると」
若くはない。
そこは訂正したい。
だが、ここで“いやもう若くないです”と真顔で言うのも変だ。
「まあ…運ぶくらいなら」
「いやいや、それが大事なんだよ」
そう言われると、それ以上は返しづらい。
悪意はゼロ。
完全に善意。
だからこそ厄介だ。
そこへ、遠くから元気な声が飛んだ。
「おじさーん!」
健太だった。
何でいる。
いや、祭り準備の場に近所の子どもが来てもおかしくはない。
だが、今ここへ来なくてもいいだろう。
見ると、ひなもいる。
さらに良子まで来ていた。
梅子さんの“あとで来るかも”は正しかったらしい。腹立たしいことに。
「おじさん、もういた!」
「見ればわかるだろ」
「何してるの?」
「祭りの準備だよ」
「すごい!」
何がだ。
段ボール運びだぞ。
ひなは俺の近くまで来ると、提灯の箱を見上げた。
「これ、おまつりの?」
「そうらしい」
「おじさん、もう働いてるね」
その評価の仕方、最近ひなの中で固定されてきている気がする。
良子が後ろから笑う。
「ほんとだ。ちゃんと戦力じゃん」
「やめろ、その言い方」
「でも事実でしょ」
言い返しづらい。
今まさに働いているのだから。
梅子さんが子どもたちを見て、にこにこしている。
「あらあら、みんな来たのねえ。
太郎ちゃん、机の方お願いしていい?」
来た。
追加任務。
俺は言われるまま、公園の端へ積まれていた折りたたみ机を運ぶことになった。
ここでもまた、会話より作業の方が楽だ。
机を二つ運び、脚を広げ、位置を合わせる。
ぐらつきがあれば調整する。
この一連の作業には正解がある。
人付き合いと違って、正しくやれば正しく収まる。
その確かさが好きなのだと思う。
「お兄ちゃん、手慣れてるね」
良子が言う。
「別に」
「いや、そういう時の“別に”は無理あるって」
健太は机の脚が開くところを見て、妙に感心していた。
「うわ、変形した」
「机だからな」
「でもなんかロボっぽい」
その感想はだいぶ雑だが、少しわかるのが嫌だ。
ひなが真面目に言う。
「おじさん、そういうの好きだもんね」
「何でそうなる」
「だって、ホームセンターでもちょっとつよかった」
その表現、もう定着する気か。
俺が机を置き終えると、梅子さんが次の指示を飛ばしてくる。
「太郎ちゃん、その提灯、紐通すの手伝える?」
細かい作業まで来た。
「できますけど」
「助かるわあ。
目がいい人の方が早いのよね」
目がいい人、ではない。
単に今ここにいるだけだ。
提灯と紐。
この手の単純作業も、やること自体は嫌いじゃない。
一定の手順で、同じことを繰り返す。
淡々としていて、会話の余地が少ない。
理想に近い。
だがそこへ、近所の人の声が時々飛んでくる。
「それ、こっち置いといて」
「テープある?」
「この位置でいいかな」
「ひなちゃん、そこ危ないよ」
情報量が多い。
祭りの裏方というのは、要するに“知らない人たちとの共同作業”なのだ。
それが高難度でないわけがない。
俺が紐を結んでいる横で、健太が提灯を持ち上げようとしていた。
「触るな」
「ちょっとだけ!」
「そのちょっとだけが一番危ない」
ひながすぐ言う。
「けんた、だめ」
「えー」
珍しくひなも同じ方向を向いていた。
こういう時、子ども二人が完全に同時に暴走しないのは助かる。
作業が一段落すると、今度はペットボトルのお茶が配られた。
「はい、お疲れさま」
梅子さんが渡してくる。
冷たい。
こういう時の冷たいお茶は妙にうまい。
「ありがとうございます」
「いやあ、ほんと助かるわ。
太郎ちゃんがいると荷物系が早いのよねえ」
その評価は、まあ、ありがたい。
ありがたいが、同時に今後のイベント発生率を上げるので素直に喜びづらい。
「運ぶだけなら」
「その“だけ”が大事なのよ」
善意の人は本当にこのへんの逃げ道を塞ぐのがうまい。
良子が横からにやにやしている。
「お兄ちゃん、町内でちゃんと使われてるね」
「やめろ、その言い方」
「でも事実だよ。
お兄ちゃん、たぶんもう“佐藤さんちの息子さん”から“一応戦力”くらいに格上げされてる」
それは全然うれしくない格上げだった。
父がもし今の俺を見たら何と言うだろう。
そう考えて、少しだけ妙な気分になる。
家の中ではまだぎこちない部分もあるのに、近所の祭り準備では普通に机を運んで提灯を結んでいる。
人間の適性というのは本当にわからない。
ひながペットボトルを持ちながら言う。
「おじさん、ちゃんといるね」
「またそれか」
「でもそう」
そうなのだろう。
ひなにとって、これは“ちゃんといる”の延長線上にあることなのだ。
健太はもっと雑だった。
「おじさん、祭りの人みたい」
「そういう役職じゃない」
「でもそんな感じする」
やめろ。
そんな感じはしない。
…たぶん。
昼前には、準備の大部分が終わった。
提灯は吊るされ、机は並び、掲示物も貼られた。
汗はかいたが、まあ、やることはやった。
俺がそろそろ離脱したい空気を出し始めた頃、梅子さんが言った。
「ほんとに助かったわあ。
もう太郎ちゃん、いてくれるとだいぶ違うのよ」
その言い方が、軽くなくて困る。
からかいでも社交辞令でもない。
本当に助かったと思っている声だった。
「…まあ、運ぶくらいなら」
「またそうやって小さく言う」
良子が横で笑う。
「でもほんと、お兄ちゃんいなかったら時間かかってたかもね」
「そうだなあ」
知らない大人の誰かまで乗ってくるな。
こっちが余計に居心地悪くなる。
ひなは当然のように言った。
「おじさん、えらい」
「褒め方が雑なんだよな…」
それでも、少しだけ悪くなかった。
祭り準備は地獄だ。
参加する側はかなり疲れる。
知らない大人は多いし、雑談は苦手だし、荷物は重い。
それでも、机を運んで、提灯を吊るして、冷たいお茶を飲んで、子どもたちが楽しそうにしているのを見ると、完全なマイナスだけでもない気がしてくる。
そこがいちばん面倒なのだ。
帰り道、ひなが俺の横に並んだ。
「おじさん」
「何」
「お祭り、また来る?」
「知らん」
「でも来るかもね」
「何でそう思う」
「だって、おじさんいると助かるんでしょ」
その言葉に、俺は少しだけ詰まった。
たしかに、梅子さんはそう言った。
そしてたぶん、次も何かあれば普通に声をかけてくるだろう。
面倒だ。
とても面倒だ。
でも、ひなのその言い方は、嫌な未来予告というより、少しだけ“いてくれて当然”に近かった。
「…そういうのが一番困るんだよな」
小さく呟くと、ひなは意味がわからないまま「?」という顔をした。
それでいい。
全部わからなくていい。
少なくとも今のところは。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!!
もし作品を気に入っていただけましたら、
下部の☆☆☆☆☆より評価をいただけると大変励みになります。
★★★★★を入れていただけると作者のやる気が大幅に上がります(^^)/
また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。
引き続きよろしくお願いいたします。




