「近所の駄菓子屋防衛線」
子どもの買い物は遅い。
これは偏見ではない。
事実である。
しかも、ただ遅いのではない。
本人たちはあれで本気なのだ。
十円単位で悩み、二十円の差で世界が変わり、買うか戻すかを五回くらい繰り返した末に、最終的に最初に手に取ったものへ戻る。
その一連の流れに、無駄はない。
少なくとも、子どもの中では。
だが付き添う側からすると、あれはかなり削られる。
精神が。
時間ではない。精神が。
その日、俺――佐藤太郎は、まさにそういう種類の削られ方をしていた。
発端は、ひなと健太である。
休日の午後。
俺は自室で、静かにしていたかった。
別に何か特別なことをしていたわけではない。
ネットを巡回し、動画を流し、時々ゲームを触る。
つまり、非常に健全な休日だった。
そこへ階下から、複数の声が聞こえた。
「おじさーん!」
健太。
いつものことだが、こいつは本当に声量がある。
「ひな、ラムネ買う」
ひな。
珍しく主張が先に出ている。
嫌な予感がした。
子どもが二人いて、買うという動詞が聞こえた時点で、だいたい碌でもない。
数秒後、ドアが開いた。
ノックは一応あった。
ただし開きながらだった。
もうそれは形式だけの儀式である。
「おじさん!」
「何だよ」
健太がまっすぐ言う。
「駄菓子屋行こう」
「断る」
反射で断った。
この速度だけは自信がある。
「何で!」
「何ででもだ」
「ひなも行きたいのに」
お前はすぐ共同戦線を張るな。
見ると、ひなは少しだけ期待した顔でこっちを見ている。
ずるい。
子どもの“行きたい”顔は、だいたい大人にずるい。
「ママが、おじさんもいっしょならいいって」
来た。
後方支援が最悪だ。
つまりもう、良子か富子が外堀を埋めている。
案の定、廊下の向こうから良子の声が飛んできた。
「お兄ちゃーん、ついでに見ててあげてー」
「ついでじゃないだろそれ」
「近いし、すぐだから」
信用できない。
大人の“すぐ”も、子どもの“ちょっとだけ”も、どちらも信用できない。
ひなが小さく言う。
「ラムネと、あとグミ」
「もう決まってんのか」
「たぶん」
「たぶんかよ」
健太はもっと雑だった。
「オレなんでもいい!」
その“なんでもいい”が一番危ないんだよ。
俺は椅子にもたれたまま、天井を見た。
行きたくない。
正直かなり行きたくない。
駄菓子屋という場所は、平和そうに見えて、子どもの選択と小銭と欲望が凝縮された高難度エリアである。
付き添いの大人に求められる役割も曖昧だ。
止めるべきか、見守るべきか、余計なものを買わせないべきか、多少の寄り道は許すべきか。
正解がない。
だが、ひなは期待した顔。
健太はもう行く前提。
良子は止める気ゼロ。
逃げ道は薄かった。
「……予算は」
「三百円!」
健太が元気に言う。
「二百円」
ひなが言う。
「お前ら、だいぶ差あるな」
「だってラムネとグミはいるから」
ひなの理屈は明快である。
健太の方はたぶん、現地で増える。
「おじさん行く?」
ひなが聞く。
その聞き方が、以前よりずっと自然だった。
“来てくれる?”ではなく、“行く?”だ。
もうだいぶ、一緒に来る可能性が普通に認識されている。
「……五分で帰るなら」
「やった!」
「五分では帰らないよ」
健太が正直すぎる。
俺は立ち上がった。
「もう最初から嘘つくなよ……」
---
駄菓子屋は、歩いて十分もかからない場所にあった。
小さな店。
色あせた看板。
店先にアイスケースとガチャガチャ。
中には所狭しと吊るされた駄菓子。
プラスチックケースに入った小物。
くじ付きの菓子。
当たり付きのアイス。
壁際にはちょっと古いカードやおもちゃもある。
こういう店は、近所に一つ残っているだけで妙に空気が変わる。
時間が少しだけ遅いのだ。
「うわー!」
健太は着いた瞬間、ほぼダッシュだった。
「走るな」
「だってもうある!」
「駄菓子屋なんだからあるだろ」
ひなは健太ほどではないが、やはり目が少し輝いている。
ラムネ一直線かと思いきや、入り口で一度全体を見回していた。
慎重派である。
店の奥から、おばちゃんが顔を出した。
「あら、健太くん。今日はお兄ちゃんも一緒?」
その“お兄ちゃん”という呼び方に、一瞬だけ戸惑う。
俺の年齢的にはもう“お兄ちゃん”ではないだろう。
だが近所のこういう店では、大人はだいたい年齢よりも関係性で呼ばれる。
「付き添いです」
俺がそう言うと、おばちゃんはにこにこしている。
「えらいねえ」
「えらくはないです」
こういう返ししかできない。
健太はすでにカゴもなしに店内を回り始めていた。
「これもいい!あ、これも!」
「持つ前に計算しろ」
「あとでやる!」
それが一番危ない。
ひなはラムネ棚の前で真剣だった。
ビー玉入り。
小さいボトル。
変なフルーツ味。
同じラムネでもいろいろある。
「どれがいいと思う?」
「自分で決めろ」
「でも、どれがつよいかなって」
その評価軸まだ続いてたのか。
「味で選べ」
「でも、びんもだいじ」
その感覚は少しわかるのが悔しい。
俺は結局、一番普通のガラス瓶ラムネを指した。
「それでいいんじゃないか」
「じゃあそれにする」
素直だな。
一方、健太はもう袋菓子とガムとチョコと小さいゼリーを手にしていた。
明らかに予算オーバーの気配しかしない。
「おい、計算したのか」
「まだ!」
「ほら見ろ」
「でもこれも欲しいし」
「その“欲しい”を全部通すから失敗するんだよ」
健太はきょとんとしたあと、当然のように言う。
「欲しいんだから欲しいじゃん」
子どもの理屈としては正しい。
正しすぎて、予算制度と相性が悪い。
俺はしゃがみ込んで、健太の手持ちを一つずつ見た。
「これが三十。これ四十。これ二十。これ五十。
……お前、もうだいぶ行ってるぞ」
「えっ」
「えっ、じゃない」
ひなが横からのぞく。
「けんた、あといくら?」
「わかんない」
「百四十くらいだな」
「まだいける!」
「その感覚が危ないって言ってるだろ」
だがここからが長いのだ。
子どもは一度取ったものを、計算で減らす時に本気で悩む。
健太は床にしゃがみ、真剣な顔で手持ちを並べ始めた。
そこへひなも合流する。
「これはつよい」
「でも高い」
「こっちはいっぱい入ってる」
「でもチョコもいる」
いる、ではない。
その“いる”が全部必要判定なのがまずい。
俺は上から見下ろしながら思った。
遅い。
非常に遅い。
だが、本人たちは本気だ。
だから急かしにくい。
おばちゃんが笑って言う。
「悩む時間が一番長いのよねえ」
わかってて見ている側の余裕がすごい。
「そうですね……」
俺は乾いた笑いで返した。
その時、ふと横の棚が目に入った。
昔ながらの、細長いラムネ菓子。
あと、小さいヨーグルト味の餅みたいな駄菓子。
そして、よくわからないが昔食べた気がするスナック。
「……懐かしいな」
思わず小さく呟いた。
ひなが聞き逃さない。
「おじさん、これたべてた?」
「昔な」
「じゃあ買えば?」
「何でだよ」
「なつかしいんでしょ」
ひなの理屈も時々まっすぐすぎる。
健太まで乗る。
「おじさんも買おうよ!」
「俺は付き添いだ」
「でも見てるじゃん」
「見てるだけだ」
そう言いながら、俺の手は一瞬だけラムネ菓子の箱を持ち上げていた。
よくない。
ここで大人が本気になり始めると、いよいよ危ない。
駄菓子屋にいる大人は、子どもを見ているか、自分が昔を見ているかのどちらかだ。
後者に寄ると少し危ない。
「……一個だけ」
気づけばそう言っていた。
ひなが笑う。
「やっぱり」
「うるさい」
最終的に、健太は五回ほど組み替えた末に、最初に取っていたものへかなり近い構成で落ち着いた。
人は結局、初手の欲望にだいたい引っ張られる。
ひなはラムネ、グミ、小さいクッキー。
慎重だが、芯はぶれない。
俺はラムネ菓子と、あと勢いでよくわからないスナックを一つ。
会計。
小銭のやり取り。
ここでまた時間がかかる。
「百六十円ね」
おばちゃんが言う。
健太は財布の中で十円玉を探し始め、途中で五円玉を出して、さらに一円玉を数え始めた。
「……遅い」
「待って!」
「さっきからずっと待ってる」
ひなは横で、自分の分の二百円を握りしめていた。
「ひな、ぴったりある」
「えらい」
言ってから、自分が駄菓子屋の会計で何を褒めているんだと思う。
だが、ぴったり出せる子どもはたしかにえらい。
俺の番になって、ラムネ菓子とスナックを置くと、健太がにやにやしていた。
「おじさんも買ってる」
「買ってるな」
「楽しい?」
「別に」
「その顔、ちょっと楽しいやつだよ」
最近、子どもたちの観察力が妙に上がってきている気がする。
気のせいではないだろう。
---
店を出ると、三人で店先のベンチみたいなところへ座った。
健太はさっそく袋を開ける。
ひなはラムネの瓶を両手で持っている。
俺は小さいラムネ菓子の箱を開けた。
一粒、口に入れる。
「……ああ」
こういう味だった。
妙に粉っぽくて、すぐ溶ける。
べつに今食べて飛び上がるほど美味いわけではない。
だが、“知っている味”というだけで妙に気持ちが緩む。
「おじさん、それおいしい?」
ひなが聞く。
「うまいっていうか、昔の味」
「昔の味ってなに」
「説明しづらいな……」
健太がチョコを食べながら言う。
「おじさん、ちょっとたのしそう」
「楽しくない」
「楽しいよ」
「何でお前が決めるんだ」
「だって買ったし」
ぐうの音も出ない。
ひなはラムネを一口飲んで、目を少し丸くした。
「つよい」
「ラムネはだいたい強いだろ」
「でも、これつめたい」
「さっき冷えてるの選んだからな」
「えらい」
何で今度はそこを褒められるんだ。
帰り道、健太は戦利品の説明をずっとしていた。
ひなはラムネを大事そうに持って歩く。
俺はその横で、さっき買ったラムネ菓子をポケットへ入れたまま、少しだけ気が抜けていた。
面倒だった。
かなり面倒だった。
だが、完全に嫌だったかというと、そこまでは言えない。
こういうのが一番困る。
「おじさん」
ひなが前を向いたまま言う。
「何」
「またいこうね」
「何でだよ」
「だって、きょうよかった」
「何が」
「ラムネもあったし、おじさんもいたし」
その言い方はずるい。
“駄菓子屋が楽しかった”ではなく、“おじさんもいたし”が並ぶのは、少しだけずるい。
「……考えとく」
そう返すのが精いっぱいだった。
健太はすぐ横から言う。
「それやるやつじゃん」
「お前、ほんとそういうとこだけ鋭いな」
「へへ」
全然褒めていないのに、こいつはたまに褒め言葉っぽく受け取る。
家へ戻ると、良子が玄関で言った。
「どうだった、駄菓子屋イベント」
「長かった」
「それはわかる」
「けんた、すごいなやんでた」
ひなが言う。
「ひなもだろ」
「ひなはちゃんときめてた」
たしかに、あいつは慎重だが芯はあった。
健太は勢いがありすぎる。
良子が俺を見る。
「で、お兄ちゃんも買ったの?」
「買った」
「何で」
「流れだよ」
「楽しんでるじゃん」
「違う」
「違わないよ」
そこでひなが、何でもない調子で言った。
「おじさん、ちょっとたのしそうだった」
やめろ。
さっきも言われたそれを、家の中で再放送するな。
だが、否定する言葉は前より少しだけ弱かった。
「……ちょっとだけな」
その返事に、良子が目を丸くした。
「うわ、認めた」
「うるさい」
でも、そのくらいはもう認めてもいいのかもしれなかった。
駄菓子屋は遅い。
子どもの買い物は本当に遅い。
十円で悩みすぎるし、会計ももたつく。
付き添いとしてはかなり疲れる。
それでも、たまにその遅さの中にしかない時間がある。
昔のラムネの味とか、ラムネ瓶の強さとか、そういうどうでもいいものまで込みで。
たぶん、それが少しだけ悪くなかったのだ。
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