プロローグ 「ホームセンターは男を無力化する」
ホームセンターは危険だ。
いや、正確には違う。
危険物を売っているとか、そういう意味ではない。
もっと静かで、もっと根深い種類の危険である。
人を長居させるのだ。
目的の物だけ買って帰るつもりだった人間が、気づけば工具コーナーで立ち止まり、収納ケースを比較し、使いもしない結束バンドのサイズ違いを見比べ、最終的に「これ一つあると便利かもしれない」みたいな顔で予定外の小物を持ってレジへ並ぶ。
しかも本人にはあまり自覚がない。
“必要なものを見ていただけ”という顔で帰っていく。
だがその実、だいぶ心を持っていかれている。
そういう意味で、ホームセンターは男を静かに無力化する。
そしてその日、俺――佐藤太郎は、まさにその無力化フィールドへ父と二人で踏み込むことになった。
発端は富子だった。
「太郎ー」
昼前、リビングでだらだらしていた俺に対して、その声はあまりにも軽かった。
軽い声にはだいたい罠がある。
「何」
「ホームセンター行ってきて」
来た。
しかも“行ってくれる?”ではない。
“行ってきて”だ。
言い切っている。
この時点で、俺の拒否権はだいぶ薄い。
「何で俺」
「和室のカーテンの留め具が一個割れてるでしょ。それと、ちょっとした収納ケースと、あと洗剤の詰め替えボトルも見たいの」
多い。
しかも“ちょっとした”が入っている依頼は危険だ。
“ちょっとした”で済むことはだいたい少ない。
「今日じゃないと駄目か」
「今日お父さんいるし、車出せるでしょ」
その言い方に、俺は一瞬だけ止まった。
父。
見ると、恒一は新聞を読んでいたが、その会話に普通に入ってくる。
「俺も行くぞ」
軽い。
なぜそんなに軽く乗れる。
ホームセンターへ父と二人で行く、というイベントの重さを、もっと考慮してほしい。
良子がソファの端で笑う。
「はい出た。お兄ちゃん今、顔がちょっと固まった」
「固まってない」
「固まってるって。
“父と二人で外出イベント発生”って顔してる」
やめろ。
だが、その通りでもあるのが腹立たしい。
富子はまるで気にした様子もなく、メモを書き始める。
「カーテンの留め具、透明のやつね。
収納ケースはキッチン下に入るサイズ。
ボトルは詰め替えやすいやつ。
あ、ついでに電球も見て」
「増えた」
「ついでだから」
家族の“ついで”は、本当に信用してはいけない。
父が新聞を畳んだ。
「準備できたら行くか」
「……ああ」
こういう時、断れないわけではない。
理論上は断れる。
だが、ホームセンター程度のことでいちいち全力拒否するのも面倒なのだ。
しかも相手が父だと、なおさら“そんなに嫌がることか?”という空気になる。
だから行く。
文句は言う。
でも行く。
そういう中途半端さが、最近の俺の生活には増えてきた。
---
玄関を出た時点で、すでに少し気まずかった。
父と二人で並んで歩く。
ただそれだけなのに、歩幅や視線の向きまで少しだけ意識する。
別に向こうが何かを要求しているわけでもない。
むしろ父はこういう時、何も要求してこない。
それが逆に困るのだ。
車に乗る。
助手席。
シートベルト。
エンジン音。
無音。
「……暑いな」
父が先に言った。
「まあ」
一往復目、終了。
エアコンの風が少し強くなる。
ラジオはついていない。
この“音のない車内”というのは、会話が得意でない人間にとってはなかなかの高難度マップである。
景色が流れる。
信号で止まる。
それでも話題が続くとは限らない。
「和室のカーテン、そんなに悪いのか」
俺が聞いた。
自分でも、今のはわりと普通の会話だったと思う。
「一個だけ割れてる」
「じゃあ別にそのままでも」
「お母さんが気になるんだろ」
それはそうだ。
富子の“気になる”は放置すると継続ダメージになる。
だったら先に潰した方が家の空気としては安い。
「収納ケースは何入れるんだ」
「洗剤とか、その辺らしい」
「雑だな」
「お前の方がそういうのは見るだろ」
そこで俺は少しだけ顔を上げた。
「……何で」
「配線とか片づけてただろ」
ああ、あの時か。
父は、見ていないようで見ている。
その認識が少しだけ意外だった。
「まあ、サイズとかは見ないとわからん」
「そうか」
二往復目。
三往復目まで行けるか。
車はそのまま大通りへ出て、ホームセンターの駐車場へ滑り込んだ。
着いた瞬間、少しだけ呼吸が楽になる。
不思議なものだ。
家の中でも、車の中でも気まずいのに、目的地へ着いた途端に少しだけマシになる。
会話というものは、たぶん“何かを一緒に見る”対象がある方が成立しやすいのだ。
「行くか」
父が言う。
「ああ」
それだけで、さっきより少しだけ普通だった。
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ホームセンターの自動ドアが開く。
涼しい。
広い。
独特の、木材と洗剤とプラスチックが混ざったような匂い。
店内BGMの薄さ。
この感じは嫌いじゃない。
むしろかなり好き寄りだ。
目的の物がなくても、店内を一周しているだけで妙な落ち着きがある。
世界が「必要なもの」と「だいたい必要になるかもしれないもの」で構成されていて、やることが明確だからだ。
父は入口でもらったカゴを持ちながら言う。
「まず留め具だな」
「カーテン売り場か」
俺は案内表示を見上げる。
カーテン・寝具・収納。
その隣に照明。
さらに奥が工具と配線。
この時点で、俺の中の別の人格が少しだけ目を覚まし始めていた。
やめろ。
今日はあくまで留め具と収納ケースとボトルと電球だ。
工具コーナーは今回の目的ではない。
なのに視界の端へ入るだけで、結束バンドとかドライバーのセットがこちらを見てくる気がする。
気のせいなのだが、ホームセンターに来るとだいたいみんな少しだけそうなる。
「こっち」
父が言う。
カーテン売り場へ向かう。
留め具の棚には、似たような透明パーツがやたら並んでいた。
「……多いな」
思わず言う。
「違いがわからん」
父も正直だった。
たしかに一見すると、全部同じに見える。
だがよく見るとサイズが微妙に違うし、留め方も違う。
この“よく見ると違う”が、こういう店の難しいところであり、面白いところでもある。
俺は棚の前にしゃがみ込んだ。
「今のやつ、写真あるか」
「ある」
父がスマホを出す。
画面を見る。
割れたプラスチックパーツ。
形はシンプルだが、長さと穴の位置が少し気になる。
「これならたぶん……」
俺は似た形の袋を手に取る。
サイズ表記を確認。
もう一つ比べる。
父が横から聞く。
「違うか」
「微妙に違う」
「そんな変わるように見えんが」
「ここが違う。
たぶんこっちの方が近い」
言っている自分に気づく。
さっきまでより少し声に熱がある。
父も気づいたのか、小さく言った。
「詳しいな」
「別に」
別に、ではない。
ちょっと楽しくなっているだけだ。
結局、留め具は二種類買うことにした。
もし微妙に違っていても、こういう小物は予備があって困らない。
「次、収納か」
「ああ」
その一言も、だいぶ自然に出ていた。
---
収納ケース売り場へ来た瞬間、俺の足は少し遅くなった。
危ない。
ここは危ない。
同じような半透明の箱が積まれているだけの棚なのに、なぜこんなに人を引きつけるのか。
大中小。
深型。
浅型。
引き出し。
積み重ね可。
キャスター付き。
見ているだけで、“このケースがあれば家のあの辺が少し整うのでは”という妄想が次々湧いてくる。
だが大半は妄想で終わる。
ケースを買っても中身を片づけるとは限らないからだ。
それをわかっていても、なお見てしまう。
恐ろしい売り場である。
「どれがいい」
父の声で我に返る。
「キッチン下だろ。
高さと奥行き見ないと」
「測ってないのか」
「母さんがそこまでやると思うか?」
「……たしかに」
その“たしかに”は、今まででいちばん父と意見が合った瞬間かもしれない。
俺は棚の前でケースをいくつか持ち比べた。
「これくらいなら入る気はする」
「気、か」
「測ってないんだからそうなるだろ」
「まあな」
父が笑いをこらえるみたいな顔をする。
珍しい。
「何だよ」
「いや、お前、こういうとこだと少しよく喋るなと思って」
来た。
さっきから薄く感じていたことを、ついに言語化された。
「……店のせいだろ」
「店のせいか」
「ホームセンターはそういう場所なんだよ」
「どういう場所だ」
聞かれると困る。
だが、まあ、説明はできる。
「目的の物だけ見て帰るつもりでも、余計な物を見始める場所だ」
「それはわかる」
父は意外と素直に頷いた。
「工具とか、見てると少し欲しくなるな」
「使わないだろ」
「使わんけどな」
「じゃあ欲しがるなよ」
「でも見るだろ」
そこで、少しだけ二人とも笑った。
笑うと言っても、大きくではない。
ただ、口元が少し緩む程度。
それでも、父とこういう種類の空気になるのは珍しかった。
最終的に、収納ケースは一つだけ選んだ。
微妙なサイズ違いで二つ持って帰ると、だいたい片方が無駄になる。
富子はそういう“試しに二つ”をあまり歓迎しない。
「ボトルと電球は?」
父が言う。
「照明側見てから、洗剤のコーナー戻るか」
「詳しいな、動線」
「店の並びがそうなってるだろ」
いや、本当はそれだけではない。
少し店内地図が楽しくなっているだけだ。
だが、それを父へ説明する必要もない。
---
照明売り場で電球を選び、洗剤コーナーで詰め替えボトルを見た時には、すでに最初の目的以上の時間を使っていた。
父は途中で、軍手の安売りを見て足を止めた。
俺はそれを横目に、詰め替えボトルの口の広さを見ていた。
「お前、それそんなに違うのか」
父が聞く。
「違う。
ここが狭いと詰め替えの時に地味にこぼれる」
「そこまで考えるのか」
「一回やると気になる」
「そういうもんか」
こういう会話なら、わりと続く。
必要なもの。
使い勝手。
実際にやる時の面倒。
この手の話は、家族としての感情とか、親子としての距離とか、そういう難しいものを経由しなくていい。
ただ“これどうだろう”“こっちの方がマシだ”で進む。
それがありがたい。
気づけばカゴの中には、
* カーテンの留め具
* 収納ケース
* 詰め替えボトル
* 電球
* 軍手
* 結束バンド
が入っていた。
最後の一つは、完全に余計だった。
「何でそれ入れた」
父が言う。
「……一個あると便利だから」
「さっき使わん物欲しがるなって言ってなかったか」
「これは使う」
「ほんとか?」
「たぶん使う」
父はそこで、はっきり少しだけ笑った。
「その“たぶん”は怪しいな」
「怪しくない。
結束バンドはだいたい使う」
「そうか」
レジへ向かう。
さすがにこのくらいの買い物量になると、妙な満足感がある。
予定通りの物。
少しだけ余計な物。
ホームセンターとしては、かなり正しい終わり方だ。
---
帰りの車内は、行きより静かで楽だった。
完全な無音ではない。
買った物の確認があるし、店内で見たことの続きも少しだけ残っている。
「結束バンド、そんなに要るか」
父が運転しながら言う。
「あると使う」
「何に」
「……配線とか」
「また配線か」
その言い方に、少しだけ笑いそうになる。
もう家族の中でも、俺の“配線好き”は認識されてしまっているらしい。
「好きでやってるわけじゃない」
「そうか?」
「半分は面倒だからだ」
「半分は?」
「気持ちいいから」
言ってから、自分でも少し笑った。
父も小さく鼻で笑う。
「やっぱ好きなんだろ」
「違う」
「そういうことにしとくか」
その一言の温度が、前より少しだけ軽い。
家の中だと、こういう感じにはなりにくい。
家族として向かい合うと、どうしても言わなくていいことや、言えないことの影が出る。
だが車の中や店の中なら、同じ方向を向いているぶんだけ少し楽だ。
家に着く。
荷物を下ろす。
玄関を開ける。
富子がすぐ顔を出した。
「買えた?」
「買えた」
「これで大丈夫そう?」
「たぶん」
「その“たぶん”は信用していいの」
「さあな」
良子が奥から顔を出して、にやにやしていた。
「どうだった、父子ホームセンターイベント」
「何だその言い方」
「で、どうだったの」
「別に」
「出たよ、別に」
父は靴を脱ぎながら、何でもない調子で言った。
「太郎、ああいう所だと少し喋るな」
やめろ。
家の中でその話題を出すな。
良子が即座に反応する。
「え、何それ見たいんだけど」
「見世物じゃない」
「でもちょっと想像つく」
ひなまで後ろから言う。
「おじさん、おみせだとちょっとつよい?」
「どういう評価だよ」
だが、完全には否定しきれないのが悔しい。
俺は結束バンドの袋を机の上に置きながら、小さく息を吐いた。
「……ホームセンターが悪いんだよ」
その独り言に、誰も反論しなかった。
たぶん家族の中で、それだけは少し共有されていたのだろう。
ホームセンターは、男を少しだけおかしくする場所だと。
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