エピローグ 「俺の生活圏は今日もうるさい」
静かな日は、たぶんレアイベントだ。
少なくとも今の俺の生活圏においては、そうとしか思えない。
インターホンが鳴らない日。
誰にも呼ばれない日。
何も頼まれない日。
子どもの声がしない日。
コンビニで変な緊張をしない日。
父も母も妹も姪も近所の小学生も、全員が絶妙に自分へ接続してこない日。
そんなものが本当に存在するのか、最近だいぶ怪しくなってきた。
その日も朝からうるさかった。
父が帰省して数日。
家の中の空気は、完全な非日常ではないが、いつもの平常運転とも少し違う。
そこへ良子とひなが来る頻度も重なり、さらに健太という外部ノイズまで混ざるのだから、静寂を望む方が無理なのかもしれない。
朝、俺は一階のリビングで、すでに一つ目の用事を処理していた。
「太郎、それ取れる?」
富子である。
脚立の上から言うな。危ないだろ。
「何を」
「棚の上の箱」
見ると、押し入れの上段に昔の書類箱が押し込まれていた。
たしか父の単身赴任関係の何かか、古い年賀状か、そのへんのはずだ。
「今それ要るのか」
「お父さんが昔の住所録見たいって」
住所録。
紙の住所録。
そういうものがまだ家のどこかにある時点で、父の生活圏と俺の生活圏の時間の流れはだいぶ違う。
俺は脚立の横へ立ち、箱を下ろした。
埃っぽい。
富子が受け取る。
「ありがと」
「はいはい」
そこで終わればよかった。
だが終わらない。
この家の“はいありがとう”は、だいたい次の用件の助走だ。
「ついでに和室の窓、ちょっと開けて空気入れ替えて」
「ついでが多い」
「すぐでしょ」
出た。
大人の“すぐ”。
俺は文句を言いながらも和室へ向かう。
窓を開ける。
父のバッグが端に置いてある。
充電中のスマホ。
整えたケーブル。
この光景にも、少しずつ慣れてきている自分がいる。
そこへ父が背後から来た。
「そこ、昨日の夜少し暑かった」
「エアコンは?」
「つけた」
「じゃあ風量じゃないか」
会話としては短い。
短いが、もう以前みたいに“何を話せばいいかわからない”だけではなくなっていた。
内容があれば、少しは返せる。
「あとで見る」
「そうか」
父はそれだけ言って、和室の棚を見回した。
そのやり取りに、自分でも少しだけ驚いた。
特別なことは何もない。
だが、“普通の用件の会話”が少しずつ増えている。
---
朝食のあと、二階へ戻って平穏を回復しようとしたところで、すぐに次が来た。
ピンポーン。
インターホン。
「…ほんとに隙がないな」
思わず呟く。
モニターを見る。
健太だった。
あいつは本当に、なぜそんなに気軽に来るのか。
近所だから。
たぶん答えはそれだけだ。
近所の小学生は“距離”を歩数で測る。感情の重さではなく。
一階から富子の声が飛ぶ。
「太郎ー!健太くん来てるー!」
「見ればわかる!」
最近このやり取り多いな。
玄関へ出ると、健太はボールでもゲームでもなく、今日は妙に真顔だった。
「おじさん、これ見て」
「何だよ」
差し出されたのは、プラスチックのカードケースみたいなもの。
学校で使う名札入れか何かか。
ストラップの金具部分が外れている。
「壊れた」
「自分でやったのか」
「気づいたら」
「それはだいたい自分でやってる」
だが、見ればすぐわかる程度の破損だった。
金具を差し直し、少し押さえる。
「はい」
「おお」
「次から振り回すなよ」
「振り回してない!」
健太の“してない”は信用度が低い。
そこへひなが、いつの間にか廊下から出てきて言った。
「おじさん、またなおした」
「またって何だ」
「なんかいろいろなおすひと」
以前に近いことを言われた気がする。
もうその認識で定着しているのかもしれない。
探し物。
配線。
ゲーム。
虫。
子どもからすると全部“なんかなおしたりなんとかするひと”のカテゴリに入るのだろう。
健太が感心したみたいに言う。
「おじさん、家にいるのにちゃんと使えるね」
「その褒め方は失礼だろ」
「褒めてるよ!」
悪意はない。
ないのが厄介だ。
父が玄関の奥からそのやり取りを見ていた。
健太は父を見ると、もう新規キャラではないので普通に言う。
「おじいちゃん、おはよー」
「おう」
父も短く返す。
子ども相手だと、この家の男連中は比較的会話が簡単になるらしい。
---
昼前、良子が来た。
ひなを連れて、ついでに惣菜も少し持って。
これで家の人口密度はまた上がる。
俺は二階へ逃げようとしたが、その途中で良子に捕まった。
「お兄ちゃん、ちょっと」
「何」
「この前の外食の店、ひながまた行きたいって」
「そうか」
「そうか、じゃなくて。あんたあの日わりと普通だったって、お母さんも言ってた」
「やめろ」
「褒めてるんだけど」
「外食で普通だった評価は重いんだよ」
良子は笑う。
この女は本当に、人の微妙なラインを踏むのがうまい。
「でも前よりずっとマシじゃん」
「比較対象が低い」
「そこはもう仕方ないでしょ」
そう言われると何も返せない。
ひながその横で言う。
「おじさん、プリンある?」
「何で来るたびに聞くんだよ」
「あるの?」
「ある」
「やった」
子どもの目的の明快さは、時に大人を少しだけ救う。
外食の評価とか父との空気とか、そういう面倒くさい話題から、プリン一つで地上へ戻れるからだ。
---
午後、富子にまた頼まれてコンビニへ行くことになった。
味噌。
牛乳。
ついでに洗剤。
ついでが太い。
家を出て、道を歩く。
空は高く、少しだけ秋の匂いが混ざり始めていた。
コンビニへ入る。
商品を取る。
レジへ向かう。
そこに凛がいる。
最近もう、この流れ自体は珍しくない。
珍しくないのに、毎回少しだけ心拍数が変わるのが面倒だ。
「いらっしゃいませ」
「…どうも」
商品を置く。
味噌。
牛乳。
洗剤。
そしてエナジードリンク一本。
凛がそれを見て言った。
「今日はだいぶ生活用品ですね」
その一言で、妙に笑いそうになった。
「…そうだな」
「補給というより、ちゃんと買い出し」
そこで俺は一瞬だけ固まる。
補給。
その単語を、以前俺は使った。
にぼし姫も使った。
そして今、凛が使った。
偶然か。
たぶん偶然だ。
だが、こっちはもうその偶然にいちいち反応してしまう段階へ来ている。
「まあ、今日は家のやつだから」
「そうなんですね」
凛は変わらず淡々としている。
俺だけが無駄に材料を拾っている。
会計を済ませる。
袋を受け取る。
帰り際、凛が何でもない声で言った。
「最近、前よりよく頼まれてますよね」
俺は止まった。
「…何が」
「買い物」
それは、前の買い方を見ていればわかるのかもしれない。
生活用品の比率。
プリンやクッキーの頻度。
エナドリ一本だけじゃない日が増えていること。
それでも、その観察のされ方は少しだけこそばゆい。
「…まあ」
「大変ですね」
その言い方は、からかいではない。
本当にただ、軽く言っただけだ。
だが俺は思わず返していた。
「面倒だけど、前よりはマシかもな」
言ってから、自分で少しだけ驚いた。
今のは本音だった。
面倒なのは事実。
だが、完全に嫌かと言われると、最近はそうでもない瞬間がある。
凛は一瞬だけ俺を見て、それから小さく頷いた。
「そういうの、ありますよね」
その一言が、妙に残った。
店を出る。
外の空気は、少しだけ柔らかかった。
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夕方、家へ戻ると、また小さな用事がいくつか積み上がった。
富子が味噌を受け取る。
良子が洗剤を見て「それ前より大きい」と言う。
ひながプリンを見つけて騒ぐ。
健太がまた顔を出して「今日遊べる?」と聞く。
父が和室から「充電の線、少し抜けやすいな」と声をかける。
一つ一つはどうでもいい。
どうでもいいが、一つずつ返していると、一日は勝手に埋まる。
「太郎、その線あとで見て」
「わかった」
「お兄ちゃん、プリン冷やしといて」
「今入れた」
「おじさん、けんたきた」
「見えてる」
「おじさん、今日なんかいっぱいしゃべる」
「そうか?」
「うん」
ひなが真顔でそう言う。
たしかに、今日は返事の回数が多い気がした。
いや、単に接続数が多いだけかもしれない。
夜になって、ようやく自室へ戻った。
ドアを閉める。
静かだ。
「…はあ」
深く息を吐く。
今日もうるさかった。
細かいことばかりだった。
父のエアコン。
健太の名札。
ひなのプリン。
良子の雑な会話。
富子の買い物。
凛の観察めいた一言。
何一つ大事件ではない。
だが、こういう小さなことの積み重ねで、人の生活というのは妙に輪郭を持つ。
俺は椅子に座り、机の上のエナドリを見た。
今日はまだ開けていない。
「うるさいな…」
小さく呟く。
家の中も。
近所も。
コンビニも。
全部、前より少しだけ俺に接続してくる。
面倒だ。
落ち着かない。
静かにしていたい日は、普通にある。
それでも。
完全に切り離されていた頃より、今の方が少しだけ、自分のやることがある。
呼ばれる。
頼まれる。
見つける。
直す。
運ぶ。
付き添う。
返す。
それは別に立派なことではない。
社会復帰とか、人生再起動とか、そういう派手な話でもない。
ただ、この家と、この近所と、このコンビニと、この公園。
その狭い生活圏の中でだけなら、前より少しだけ“自分の席”みたいなものが見える。
ひなの言う“ちゃんといた”とか。
健太の言う“使える”とか。
富子の“助かる”とか。
父の“悪くない”とか。
凛の“そういうのありますよね”とか。
どれも大げさではない。
だが、その大げさでなさが、むしろこの生活にはちょうどいいのかもしれない。
俺は背もたれに体を預け、静かに目を閉じた。
「うるさい。面倒だ。落ち着かない」
そこまでは事実だ。
そして、そのあとにもう一つ、前なら言わなかった言葉が自然に続いた。
「…でも前よりは少しだけ、この騒がしさの中に自分の席がある気がする」
部屋は静かだった。
家の外も、夜になれば少しは静かになる。
それでも明日になれば、またたぶん何か起きる。
富子が呼ぶ。
ひなが来る。
健太が騒ぐ。
父が短く聞いてくる。
凛が妙に察する。
そして俺は、文句を言いながら、たぶんまた少しだけ動くのだろう。
それでいいか、と俺は思った。
少なくとも今夜のところは。
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